その男、利き雨音師につき。
一、吉野屋幻蔵斎という男
利き雨音師をご存じだろうか。
吉野屋幻蔵斎。彼は唯一無二の利き雨音師であり、日ノ本における生けとし生きるもの……のみならず魑魅魍魎、幻獣、モノノ怪の類すべてにとって余人をもって代え難い存在である。
彼が生業とする利き雨音師とは何か、実際に彼の一日の仕事振りをお見せしよう。
吉野屋の元には、いつになく引きも切らずに客が訪れる。ほら今日も朝から一人。
「ごめんください、吉野屋先生いらっしゃいますか?」
ピンポンピンポン、バンバン、ごめんくださぁい。あれ、お留守かな。おーい、吉野屋せんせーい。
玄関が騒がしい。インターフォンを連打してみたりガラスの引き戸を叩いてみたり朝から甚だ近所迷惑だ。
「おい、俺は留守じゃない。頼むから静かにしてくれ」
「あ、いた。おはようございます吉野屋先生」
日焼け防止のアームカバーに大きめのサングラス、つばの広い帽子をかぶった騒音の主は、子供のように甲高い声で挨拶をした。
「おぬしは、何者」
「日和坊にございます。お初にお目にかかります」
帽子を脱いでぴょこりとお辞儀をしたのは、てるてる坊主のようにつるりとしたもち肌丸顔のむっちり可愛らしいちみキャラ妖怪、日和坊である。
「日和坊、おぬしがそうか。して、晴れを司る妖怪のおぬしが俺に何の用だ、ってまぁおおよその検討はつくけども」
「はい、先生。ご想像の通りでございます。わたしにも対処不可能で困っており、先生にお助けいただきたいと馳せ参じました。何卒、【利き雨音】をお願いしたいのでございます」
吉野屋はうるうると瞳を潤ませる日和坊を前にして、無精ひげをざらりと撫でる。この妖怪の困りごとというのは折からの天気に関係しているのだろう。玄関先でも分かるほどに照りつける日差し。朝からエアコンを付けないと耐えられないほどの気温。
例年ならば、未だしとしと梅雨前線が停滞するこの時期に、なんと今年はひと月ほども早く雨季が終わってしまったのだ。
日和坊の仕事始めは、毎年梅雨が明けて七月下旬ごろのことだろう。それが準備もままならぬうちにこんなことになってしまって慌てるのも分からないでもない。
吉野屋はとりあえず、日和坊を家の中に招き入れ、話を聞くことにした。
吉野屋は一人暮らしである。十年以上使っている旧型の冷蔵庫から麦茶を取り出し、湯飲みに注いで日和坊に供した。
「ああっ、吉野屋先生自らお茶を出してくださるとはかたじけないっ」
「気にするな。自分で何でもやるのには慣れている」
普段は世を忍ぶ仮の姿、お茶の間に人気のイケオジ気象予報士としてその名を馳せてはいるが、本来は日ノ本に降る様々な種類の雨を利き、その時期その土地に合った雨音を提供するのが吉野屋の生業だ。ぽつぽつ、ぱらぱら、ぼたぼた、ざあざあなど、雨の状態に適した雨音というのは数え上げればきりがない。
これらの雨音を適材適所に配置するのは難しい。主に農業従事者や気象関係者(これ以上は国家機密なので言えない)、珍しいところでは作詞家や俳人、人以外だと各地の雨乞いに纏わる神々、豆腐小僧や雨壺、雨降らしなど雨の日に現れる妖怪などからも助言を求められることの多い吉野屋は、日ノ本全国津々浦々のコンサルタント的な役割も果たしている。
だが今日来た客は、日和坊。晴れの日に活躍する妖怪で、雨天時には姿を見せないのが常だ。その日和坊が困っているとは一体どうしたことだろう。
気象予報士の仕事以外ではとんと無口で自分からは話したがらない吉野屋だが、麦茶にも手を付けずに意気消沈しているちみキャラを前に気の毒な気持ちになってきて、こう切り出した。
「で、日和坊よ。おぬしはこの天気についてどう困っているというのか。聞かせてみ」
二、利き雨音が利かぬ、と?
日和坊の目からついにぽろりと涙がこぼれた。
「うう、吉野屋先生。聞いて頂けますか」
よほど困っていたのだろう。日和坊は早口で一気に喋り出した。麦茶で喉を潤しながら吉野屋に語った話はこうだ。
日和坊がその手腕を発揮するのは主に夏のことだ。梅雨の季節にたっぷりと水分を取り込んだ農作物や生き物の幼生が、夏の太陽に向かって伸び伸びと大きく育っていく。晴ればかりでもだめ、雨ばかりでもだめ。ふたつは良いバランスを保ちながら、日ノ本の自然の摂理を守ってきた。
だが、今年はおかしい。日和坊の出番を待たずして夏の日照りが始まってしまったのだ。
色めき立ったのは生き物の親や、作物を育てる人々。雨の恵みがなければ育つものも育たない。更に悲鳴を上げたのが雨具販売の関係者。あとひと月は稼ぎ時だというのに、これじゃあ商売上がったりだ!
だが、この異常気象は日和坊にもまったく覚えのないこと。たっぷり眠ってそろそろ出番だというところへ苦情が殺到したのだ。まさに寝耳に水、晴天の霹靂。
日和坊ひとりではどうにも対応しきれず、利き雨音師、吉野屋幻蔵斎に助けを求めて朝イチでやってきたというわけだ。
「ま、だろうな。俺もおかしいとは思っていた。六月の梅雨明けというのは地域によっては気象予報史上初の出来事だ。今週に入って取水制限も始まったし電力需給がひっ迫しているとのニュースも出ている。そもそも梅雨明けの兆しとなる雨音がなかったのは妙だなと思っていたんだ。梅雨というのは、初期中期後期で音が変わるものだからな」
「そうなんですか」
「ああ。中期の雨音までは俺も把握していた。だが、後期の雨音には覚えがないんだ。おや、と思って様子を見ているうちに梅雨明け宣言。まあ梅雨というのは気象予報の中でも最も判断の難しい時期ではあるのだが」
「いえいえ、吉野屋先生の【利き雨音】はそれは大したものだと、モノノ怪界でその噂を知らぬものはおりません。わたしはこのキャラですから今まで先生とはご縁がありませんでしたが、今年ばかりはお力をお借りしないとどうにも」
再び日和坊の目から涙がぽろり。吉野屋は立ち上がった。
「実はな、おぬしのアポなし訪問で午前中の予定を忘れておったが、これから各界の有識者でブレストをするのだ。おぬしの件も忘れずに伝えよう」
「ぶれ……? よく分かりませぬが何卒よろしくお願い申し上げます」
緊張が解れたのか残りの麦茶を一気に飲み干した日和坊は、何度も吉野屋を振り返りお辞儀をしてようやく去って行った。
「さて、とりあえず他の面々の話を聞くか」
だが吉野屋とて【利き雨音】が出来るというだけで、雨雲を呼ぶだとか水を作り出すだとかそう言った能力があるわけではない。湧き起こる大地の声を感じ、雨音を利くのが利き雨音師だ。この異常気象にどう対処すればいいか、図りかねていたところだった。
集まった有識者達も同様で、吉野屋の家の古びたちゃぶ台を囲んだはいいものの、皆一斉にうーむと黙り込んでしまう。
「吉野屋先生。とりあえず日ノ本全国、どんな些細な雨音でも良いので見つけたらキープしておいてもらえますか?」
「承知した。こんな状況では、その土地に合った雨音などと悠長な事も言っていられんしな。早速雨音を利くとしよう」
だがトラブルは直後に起こった。
いつものように雨音を利くためのあれこれ儀式的なアレを施し、いざ雨音を利く体勢に入った吉野屋の耳には、しとしともぴっちゃんも、ぽつんとすら聞こえてこない。
さて一大事。吉野屋幻蔵斎、利き雨音が利かぬ。
三、日ノ本一同、心を合わせて
──大変だ。
吉野屋はさすがに青ざめた。
【利き雨音】というのは結構デリケートな作業であるから、身だしなみには無頓着でも自身の健康には気を付けてきた。
世間でヤクとも称される例の乳酸菌シロタ株飲料は毎日飲んでいるし、湯舟にも毎晩しっかり浸かる。お天気コーナーを担当するテレビ局まではなるべく徒歩で行くようにしているし、食事の栄養バランスも気を使っているつもりだ。俺の【利き雨音】に問題はない筈。
何がいけない。
従前において、探せば日ノ本のどこかに必ず雨音はあった。子供はピチピチちゃぷちゃぷランランランと水たまりで遊び、大人は私のいい人連れてこい、と希う。
雨音は、我々とは切っても切り離せない大切な心の音、ふるさとである。それを利いてこその利き雨音師。だが吉野屋の耳には今、どんな小さな雨音も入ってこないのだ。
利き雨音師・吉野屋幻蔵斎ピンチのニュースは、瞬く間に日ノ本津々浦々へと広まった。
どんな雨音の調べも拾い上げ、それを求めるものの元へ届けてきた吉野屋の仕事ぶりには、皆一目置いてきた。吉野屋にしか出来ない生業、【利き雨音】。普段はイケオジ気象予報士、その正体は唯一無二の利き雨音師。
そんな彼が雨音を見つけられないとあれば、日ノ本始まって以来の非常事態。人も人ならざるものも上を下への大騒ぎ。
「待て、落ち着け」
そんな中一人冷静なのが、吉野屋本人であった。
「各々、やるべきことをやるのだ。耳を澄まし心を凪にして、本来我々がいるべき日ノ本の季節を取り戻すのだよ」
「日ノ本の季節を取り戻す、とは?」
再び日和坊登場。この数日ですっかり日焼けした日和坊は、もちもち白団子から、まるでみたらし団子のようにこんがり茶色になってしまっている。
「梅雨前線を例年より早く北上させてしまったのは、ラニーニャ現象と偏西風の影響だ。偏西風の蛇行が収まれば、気温上昇の原因となる太平洋高気圧の張り出しも弱まるだろう。うまくすれば、七月初めには梅雨の音が戻るかもしれない。雨の神々そしてモノノ怪たちの力を借りよう。地面の温度が高いと、大気が不安定になり豪雨になりやすい。日ノ本の人々は力を合わせて災害に備えるのだ」
「承知しました。モノノ怪の仲間たちに話をしてきます」
日和坊が飛び出して行った。
「よし我々は雨を祀る神社へ赴き、神々へ伝えてこよう」
神職のおじさんたちが立ち上がった。
「俺は、テレビでお茶の間へ訴えかける」
吉野屋は無精ひげを剃り始めた。
人気イケオジ気象予報士、吉野屋幻蔵斎の防災対策への呼びかけに、日ノ本中の人々が地域の避難場所の点検、防災グッズの確認を始めた。
気温上昇を抑えるためにエアコンの節電対策を勧めれば、室外機の掃除や扇風機との併用など工夫を凝らす人も増えてきた。
人ならざるものたちも、日ノ本の四季を取り戻すために種族を超えて協力し合った。
本来は晴れ妖怪のちみキャラ日和坊が雨妖怪の元へお願いをしに行けば、お前頑張ってんなと褒められる一幕も垣間見えて微笑ましい。
日ノ本一同、心を合わせて雨音を求めたその時。
ぽつ、
ぽつっ、ぽつっ、
ぱらぱら、ぱらぱらぱらぱら……。
「雨音が戻ってきた」
吉野屋の耳に、微かに届く雨音。
「これは戻り梅雨の音だな」
日ノ本の万物に宿る心の音。皆の元に雨の恵みが届くその前に少しだけ。
吉野屋幻蔵斎は目を閉じてその音を存分に楽しむのである。
了。
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