生まれて初めて心療内科を受診しようと決意した話
直感
駅に向かって歩いているとき、
自宅に帰ろうとバスに乗ったとき、
あるいはファミレスでメニューを見てるとき、
「あ、わたし、うつかも」
って思ったらその直感を信じてほしいです。
日々の生活の中で「わたし鬱かも」と感じている方も多いかもしれません。
日常生活や仕事のストレス、人間関係の悩みなど、さまざまな要素が原因として考えられます。
しかし、鬱と診断されるには病院に行かないといけません。
自己診断だけでは判断できないから。
だけどみんな毎日忙しいし、なんとなく大丈夫だろう、自分のための病院なんて時間がもったいない、と受診しない方がほとんどだと思うんです。
でもね、もう動けなくなる前に出してる体と脳のサインにはやく気付いてほしいです。
私が心療内科を予約するまで
先日、はじめて、職場近くの心療内科を予約しました。
その理由としては『自分が自分でなくなる感じがする』から。
私には2人の娘がおり、どちらも思春期であつかいにくいです。
そして長女は受験生でもあるので、それに輪をかけて接しづらく、一緒にいると空気が重くなります。
その息抜きに友達や彼氏と深夜に電話をしていることは認識していました。
ただ、それがAM4:00だとか、きっと勉強がひと段落した時間帯なのだろうな~と理解はしています。
ですが、私はシングルマザーですので仕事をしています。
またHSPでもあり、眠っても明かりがついたり人の話し声が聞こえると過敏に反応してしまう性質でして。。。
お察しのとおり、私は寝不足に。
イヤホンを付けてみたり、部屋と部屋の隙間が開かないように
隙間テープで塞いでみたりしましたが、やはり起きてしまいます。
しかも娘はなぜか電話をスピーカーで行います。
(最近の若い子ってみんなそう?)
内容も(聞かないようにしてますが)当然聞こえてしまい、余計に気になって眠れない。
注意しても2~3日後に忘れている。
また、職場ではお局様からのプレッシャー、モラハラ、部下たちのサポート、お局様のせいで突然退職した職員の業務引継など
結構、キャパがいっぱいになっている状況です。
「そんなことは娘たちには関係ないから」と、
娘たちにはなにも言わず、私ができる限りの対策をして過ごしていたのですが、、、
たぶん、これが仇となったのでしょう。
何がきっかけでそうなったかも覚えていないほど
些細なことだったと思います。
ある平日の朝、
一気に爆発してしまいました。
今までの我慢や不満、怒りの感情がドバーっとあふれてきたんです。
とはいえ仕事には行かないといけない。
ムカムカしながら通勤電車に乗り、娘とLINEで大喧嘩のつづき。
あれよあれよと、どんどん論点も変わってしまって大変なことに。
しまいには、別れた元旦那も巻き込んで、収集が付かない状況になりました。
その二点が大きな要因で、言わなくてもいいことをたくさん娘にぶつけてしまいました。
頭の中の遠くで「それは言っちゃダメ!」と、小さな声でもう一人の私が言っているのに全く聞き入れなかった。
むしろ「もっと言え!!傷つけろ!!」という心の声が先導して、とにかくひどい言葉が溢れてきました。
夕方になっても気持ちは落ち着かず、、、怒り狂っている自分の中のもう一人の冷静な私が「どうしてこんなことになっちゃったの」と。
自分が知らない自分が出てきたことの恐怖心と情けなさ。
そして娘への罪悪感。
久しぶりに何もできないほど落ち込みました。
自作自演で滑稽ですが、本当にへこみました。
そして、その日の夜は
『もしかしたらまたあの恐ろしい私が出てくるかも。もしあれ以上怒ったら娘を〇してしまうかもしれない』
と、怖かったので神奈川県に移動して(職場は東京・自宅は千葉です)ビジネスホテルに泊まりました。
とにかく娘から距離を取りたくて、当日予約で宿泊できるホテルがある場所に。
と頭の中がぐるぐるして罪悪感に押しつぶされそうになりました。
次女の存在
一晩明けて、途中何度も目が覚めて寝た気がしない中、
朝6:24、次女からLINEが来ており、内容は
「ママちゃん、洗濯物干しました」
次女は軽度の知的障害と自閉症スペクトラム障害があり、
養護学校の高等部に通っています。
日常生活は自分で行え、簡単な料理も自分でできます。
また、最近は炊飯と洗濯ブームが彼女の中で到来しているようで
率先してご飯を炊いてくれ、洗濯物も干してくれます。
そんな次女からのLINEを読んで、心が溶けました。
その時やっと自分に浸る時間が終わったんです。
ちゃんと謝る。許してもらえなくてもキチンと私から謝る。
本当はすごく大切で愛してるってこと伝えなきゃ、とやっと素直に思えた瞬間でした。
気持ちもふわっと軽くなって最寄り駅に行くと、ふと鎌倉駅行のバスが目に入り、「そうだ、お参りいこう」と。
出発目前のバスに乗り込み、大仏様を過ぎて、長谷観音、六地蔵を過ぎて鎌倉駅へ。
そのまま鶴岡八幡宮へお参りに行ってきました。
御本殿にご挨拶をした際、柔らかくて暖かい風がふわ~っと体を通り、
「なんてお優しいんだろう、、、」と涙が出ました。
なんとなく「大丈夫。必ず良くなる」と言っていただいてるような感じがしました。
そのあと、邪気を払う箕輪くぐりをして
私の知らない私を払っていただくように真剣に。
お参りをしたので御朱印もいただき、娘たちへのお守りも購入して、
千葉の自宅へ帰りました。
鬱の初期書状
その後も、鬱の初期症状としては「食欲増進・反芻思考・イライラする・動悸・不眠・ふらつき・耳がふさがってる感じ」などがありました。
でもまだ大丈夫。
こんなこと前にもあった。
だから大丈夫。わざわざ病院なんて。
本当にこう思ってました。
今までと同じ。
今回もそのうちなくなる(忘れる)、だから放っておく。
しかしやはり年齢のせいか?
動けないほどつらいくなる事が増えてしまい(特に)、
起きてもしばらくボーっとして何もできない、動けない。
こうなって初めて
え、わたし、うつ?
って思い始めました。
我家系の鬱
私は身内に鬱患者が2名ほどおり、一人は数年前に自死しています。
父方の叔父です。躁うつ病でした。
時に包丁を持って家中を歩き回ったり、家族を〇そうとしたり。
ある日叔母が自宅に戻ると、自宅の吹き抜けに叔父が浮かんでいました。
腰を抜かしているところを近くに住んでいた祖父が見つけ、警察へ通報。
祖父は自分の大事な娘、孫たちを残して死ぬなんて、と、かなり憤っていましたが、叔父は最後の最後に、まだ正気な自分が残っているうちに、保険の手続きを全て整え、あとはサインをして提出するだけのような状況にして亡くなったそうです。
この話を聞いて胸が苦しくなりました。
鬱にさえならなければ、本当に家族想いの素敵で真摯な叔父だったのに。
もう一人は母です。
母は今も健在で、今は鬱とうまく付き合いながら一人暮らしをしています。
父とは15年前に離婚、その後は自分の父親(私から見れば祖父)の介護などをしながら働いていましたが、幼少期から祖父に躾と称した暴力や叱責をたびたびされており、一緒に居ることでそのことがフラッシュバックしてしまったように思います。
その時から母も鬱になり、一回は介護を叔父に任せて家を出たものの、毎日”祖父から逃げたことに対する罪悪感”で苦しみもがいていた際、私の姉から「一緒に住まない?」と声が掛かり、一時は私も含めて大人数でルームシェアをしていました。
その頃から母も心療内科にかかり、初診のときは病院中に響き渡るほど大泣きしてしまったと後日聞きました。
全て溜め混んでいたものが、医師によってほぐされたのかも知れません。
よかった。。。
姉家族3人、私家族3人、母で合計7人家族。
みんなで一緒に生活すれば楽しいこともありますが
良くないこともあります。
母は幼少期からの経験か、他者の要望を先読みしてやってあげるという癖がついていて、常に私たち娘と孫の生活を完全サポートしてしまうようになりました。
炊事・洗濯・掃除など、気が付くと終わっているんです。
そうなってくると私たちもつい甘えて、「母の手料理がこの歳でも毎日食べられるなんて幸せ~」などと、、うっかりしてました。
母は鬱なんだ。
そんな親不孝な私たちが母を追い詰めたのか、
母はやっぱり一人暮らしがいい、と言い、ある日突然出ていきました。
なんの相談もなくです。
「引越やさんがくるからね~」と言って、そのまま引越しました。
場所は電車で、ひと駅上った駅のそば。
近くに居てくれてよかった。
当時は母のことが心配で毎日安否確認していた姉も、最近はしなくても大丈夫と言っています。
1人の方が母にとっては本当に安心できる場所なのかもしれません。
母の鬱克服談
母はおそらく20年近く前から鬱ではあったと思います。
父は農家の長男で実家に入っていたので、そのときから鬱症状がみられていました。
ただ、自分の病院になんて時間を割けないし
ましてや精神科だなんてバレたらご近所の噂の的です。
だから本当に20年ほど苦しみに苦しんで、やっと解放できたのが最近になってしまったように思います。
母が今通ってる精神科の先生とはとても相性がいいようで、最近は行きたいときに行くくらいで、次回の予約も取ってないとのことです。
先生のおかげで気持ちもだいぶ軽くなったのも、今の明るさの要因ではありますが、私はもう一つの出来事が、母を罪悪感から解放したのだと思います。
それは、彼女自身が患っている癌です。
今、ステージ4のすい臓がんと、数年前にも乳がんも経験しています。
またその前は子宮筋腫で子宮も全摘出しています。
この癌については、もちろん大きな病気ですし、心配です。
しかし彼女にとって、何をしてもどれだけ離れても拭えなかった父への罪悪感は、この癌によって解放されたのでは、と思います。
祖父は元競輪選手で筋骨隆々の男性、家族には厳しく、手が出ることも当たり前。
また、健康オタクで毎日適度に運動し、食事も飲むものも気を付けておりましたので、最後は老衰で静かに、苦しまず、亡くなりました。
祖父の死に方と、自分の患っている癌。
変な言い方ですが、母の罪悪感鑑定からすると、
たぶんそれでプラマイゼロなんだと思います。
自分が苦しめば、自分さえ我慢すれば、全てが丸く収まる。
そんな風に生きて生きた彼女だからこそ、全ての罪悪感を自分のもっている癌で帳消しにしたんじゃないかな?と勝手に思っています。
もしかしたら、母にとって一番良い療養だったのかもしれません。
母は一人で生活するようになって、ますます活発になりました。
毎月どこかに旅行に行きます。
どこかに行くと、その帰りに次の予約入れちゃうのよ~~と笑いながら教えてくれました。
今では鬱であることが分からないほど、楽しそうに生きています。
祖父の死と、鬱の改善が直結しているわけではありませんが、
何が自分の中の鬱の要因になっているのか。
心の奥の奥のふかーーーーーい所に眠っている感情。(罪悪感・虚無感・無価値観など)これらが何かのきっかけで刺激し続けられると人は鬱になるのかな…と思いました。
人生初の心療内科受診
はじめての診療内科は、webで予約できる、職場近くの診療所。
前々から、母などに、先生との相性があるから気を付けるように言われていたので、年のためGoogleの口コミをみて決めました。
病院内はとても綺麗で落ち着きがあり、チルな音楽がうっすらと掛かっている素敵な空間でした。
診察室に入ると大きめのテーブルがあって、その向こうに柔和な雰囲気のドクターが。
部屋は広めで、ギターやソファーもありました。
ドクターはゆっくりと問診票を眺めながら、
「相当我慢してたのね」と。
その声のやさしさに一瞬で緊張が解けて、私もおもわず「そうですよね~」と。
もろもろの状況を伝えた結果、やっぱり職場でのピリピリや不安感・ストレスを家庭に持って帰ってしまっているね、と。
「別に病気じゃないんだけど、どうしても付けないといけないから適当に付けておくね~」と
ここ何年も3年、、、いや5年くらい、ぶっ通しで6時間以上寝ていないので、とにかくぐっすり寝てください、と軽めの眠剤を処方してもらいました。
あと、抗不安剤は、家庭にイライラを持ち込まないように、会社を出るとき1錠飲む。
そうすれば、自然とスイッチが切り替わるから。
昨日、頂いた薬を飲んで寝たら、久しぶりに7時間、一度も起きることなく眠れたんです。
ありがたい。
目覚めも良く、体も軽い。
すぐに身支度がはじめられた。
その時にもやっぱり思いましたよ。
ああ、私は鬱だったんだなって。
ドクターに話して、伝えたいこと伝えて、お薬の力もかりながら日々の生活を改善させていく。
これって全然恥ずかしいことじゃないし
むしろ効率がいい。
ドクターに私の話を話せただけでも上出来だし
薬を飲んで体の変化に気付いたこと上出来。
けど、ここから大切なのは
薬との付き合い方、ドクターや病院との関わり方をどう取捨選択するか、かな。
最初のハードルは高いけど
一歩踏み出した先にあるものに
ぜひ期待して欲しい。
友人が友人を励ますときに行っていた言葉、
『頑張らないで、顔晴れ!(がんばれ)』
今が苦しくても、いつか晴れやかな顔になれますように。
のんびりゆっくり、一緒に歩いてこ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?