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お薬に希望をのせて
わたしの毎日には、お薬が欠かせない。
朝昼晩飲む常用薬と、数種類の頓服薬。
全部合わせたら10種類前後のお薬に支えられて生活している。
この年でまわりの友だちに比べるとたくさんのお薬を飲んでいるけれど、ごはんの後にいつもお薬を飲むことにも、旅行の時に必要な分のお薬を持って行くことにも、肌身離さず頓服薬を持っていることにも、もうすっかり慣れた。
発症してすぐの頃は、出された粉薬がどうしてもそのまま飲めず、毎回アイスやヨーグルトに混ぜて飲んでいたけれど、今はおいしくない漢方も水だけで無の顔で飲むことができる。
それでも、お薬のせいで心が揺さぶられるときがある。
それは、お薬の種類が変わったり、増えたりするときだ。
聴力が固定して、突発性難聴に対する治療が終わったときお薬が減った。
「お薬の種類が減ったということはよくなったということ?」
と薬剤師さんに聞かれて、
「もうこれ以上は良くならないので」
と自分で答えたとき、診察室でこれ以上は聴力が戻らないと先生に言われたときよりも現実を突きつけられた気がした。
はじめて頓服薬としてトラベルミンを出してもらったとき、頼れるつてがひとつ増えたように思った。ポケットの中に忍ばせておくだけで、ほんの少し心強かった。
めまいがどんどんひどくなって、日常生活がままならなくなってきたとき、先生がお薬を増やした。粉薬が苦手だから嫌だなという気持ちもあったけれど、最近辛そうだからとわたしの生活を考えて、先生がなんとかしようとしてくれたことが嬉しかった。
それからもお薬は変わったり、増えたりを繰り返してきた。
そのたびに、効いたらいいなという気持ちと、期待してダメだったら悲しいなという気持ちが混ざり合う。
効かなかったとわかるお薬の種類が増えてゆくたび、残された道が減って行くような気がして、新しいお薬を試すことが怖くなる時もある。
処方が変わってしばらくは、副作用を気にしたり、ちょっと調子がいいと浮かれたり、めまいの発作がたくさんでてやっぱりしょんぼりしたりと心が少し落ち着かない。
そうやって一喜一憂するのは良くないと自分に言い聞かせていても、そんなことを繰り返しながら通院してきた。
今までは、「ずっとこのままだったらどうしよう、このままじゃ将来やりたいと思っていることができない」と思って落ち込むことが多かった。
最近はいろんな人に「やってみてだめだったらその時考えたらいいよ」と言われ続けるうちに、ただその週ずっと調子が悪かっただけで未来のことを悲観することが減ってきた。
そのおかげか、前よりもまっすぐに新しいお薬に希望を託せるようになった気がする。
効かないかもしれない、でも効いてくれたらいいな、効いてもっと生活が楽になったら嬉しいなと素直に思えるようになってきた。
どれほどしんどくてもわたしには積み上げてきた日々があって、不調が多いわたしの未来を諦めないで応援してくれる人がいて、少しでも良くなるようにと毎回たくさん考えてくれる先生たちがいる。
だからわたしはただ、ちゃんとお薬を飲んで、ちゃんと寝て、できる時にリハビリをする毎日を繰り返していくだけでいい。
そうやってただ今日を見つめて生きる方がずっと、息をするのが楽だ。
出されているお薬は、ただの白い錠剤だったり、苦い粉薬だったり、なんの変哲もないお薬だ。
でもそのお薬たちがわたしの手に届くまで、顔の見える人も見えない人も多くの人の手が介されていて、いくつかの願いや祈りや希望も込められている。
その一錠に希望を託して、わたしは今日もお薬を飲む。少しでも元気な未来がきっといつか待っていると信じて。