22年の時を経て、分かれた二つの道:パートナーがフィリピンに移住しました
私とシュテファンがパートナーとなって22年が経ちます。
その間には、愛もあれば摩擦もあり、二人で数えきれないほどの時間を共有してきました。子供二人にも恵まれました。
南の島のヤシの木の木陰でハンモックに揺られながらビールを飲むのが最高の幸せ!というシュテファンの希望で、夏はたいてい家族で南欧の海外で休暇を過ごしました。
その楽しい休暇を過ごすために、それ以外の時は、顧客や上司に対していろいろ不満をいいながらも、9時から6時までIT系の会社で真面目に仕事をするシュテファン。
会社から帰ってくると、ドイツ式にカルテスエッセン(パンにチーズやハムなど、火を通さないで食べられる冷たい((カルテス))食事)を済ませた後は、ビールを飲みながら映画を見るのが楽しみ。
子どもたちが小さかった時は、会社勤務を時短にして、幼稚園の送り迎え、習い事の送り迎えで時間がとられ、終わらない家事育児。
週末は疲れてぐったりし、土曜日にシュテファンといっしょに食料の買い出しと、日曜日の午後にシュテファンに付き添ってカフェでお茶する以外に何もする気が起こらない私。
それでもとりあえずは平穏な生活でした。
下の子が小学校に上がったころからわたしの気力が少し回復し、趣味でジャズを歌うレッスンを受けることもできるようになりました。
二人の間のえない壁
しかし、10年ほど前、私が会社員の職を辞めてフリーランスに転向した頃から、私たちの関係は次第にちぐはぐなものとなり始めました。
収入が安定せず、家計に貢献できない私に対して、シュテファンの不満は増し、二人の間には見えない壁ができていったのです。
関係修復を試みて、パートナーカウンセリングにも足を運びました。
でも、カウンセラーからは「あなたがわがままを言ってフリーランスを続けているのが問題だ」と指摘され、ショックを受けました。「ちゃんとした定職に就くべき」という言葉は、私の胸に重くのしかかり、私の選択や生き方が否定されたように感じたのです。
それでも私は、関係修復に役立つのならと重い腰を上げて就活を始め、めでたく57歳で再就職を果たしましたが、その職場の仕事は私の能力的には問題がなくても、成長を感じることができず、結局2年で辞めてしまいました。
この間、私は気づき始めていました。
シュテファンが望んでいたのは「私」という個人ではなく、「安定した収入を持ちながら、家事もきちんとこなせ、休みの日にはいっしょに連れ歩くことのできる見栄えのいいパートナー」だったのではないかと。
一方、私自身も、もともと裕福な実家で育ち、自分の父親のように、男性一人の稼ぎだけで家族全員を支えてくれて、私が好きなことを自由にできる環境に憧れもありました。
しかし、ドイツ社会の常識、さらには世界的な流れとして、女性が自立して収入を得ることの重要性も理解しています。
だからこそ、日本とドイツのビジネス最先端のコミュニケーションを支えるフリーランスの通訳や、日独の架け橋となるべく異文化コミュニケーション講師として自立しようと努力してきました。でも、そう簡単に報われるものではなく、挫折と辛い思いを抱えながらの奮闘でした。
そのような私の想いを、シュテファンがどこまで理解していたのかはわかりません。ただ、十分な収入を得られないことが彼にとって不満であったのは事実です。そして時折、彼の態度には私を見下すような、冷たい一面がありました。
あるクリスマス前の出来事が特に記憶に残っています。
家族で買い出しに出かける際に、ゴミ出しを兼ねてプラスチックゴミの袋を車に積んだ運転席のシュテファンが、そのゴミ袋を私の座るはずの助手席に置いて平然としていたのです。
「どけてほしい」と言った私に頑なに応じないばかりか、気の利いたジョークだとすら思っているようなシュテファンの態度が許せず、結局私は車に乗らずに家へ引き返しました。まるで自分がゴミと同等の価値のように扱われたような気がして悲しくなりました。
このできごとについては今でも、「腹を立てた私が未熟だったのか?」と自問することがあります。でも、その時の彼の態度は、私にとって大きな失望を感じさせたものでした。
そんなことがありながらも私は、ドイツで、年齢を重ねつつある外国人、それも女性、として生きる上で、自国人でなおかつ白人男性であるシュテファンの存在は大きな支えになると感じていました。
多少の波風があるとしても、彼と一緒に人生の最後まで過ごせるならそれでもいい、と心のどこかで思っていたのです。
そんな中、シュテファンはここ2年ほどで確実に「ドイツ脱出計画」を進めていました。
ドイツ人でさえ住みたくない国ドイツ
そういえば先日、フランス映画を観ていたら、思わず吹き出してしまうシーンに出くわしました。プジョーの車の販売店で、メルセデスベンツとどちらにするか迷う顧客に対して、販売員がこう言うのです。
「なぜメルセデスは時速250キロも出せるかって?それはエンジニアリングの技術もあるけど、速度無制限のアウトバーンがドイツにあるからです。でもフランス国内でそんなスピード必要ですか?いいえ。ドイツに住んでいるなら、その技術もありがたいでしょう。でも、あなたはドイツに住みたいですか?」顧客は首を振り、「いいえ」と答えます。
「じゃあ、君は?」販売員が同僚に問いかけると、彼も「住みたくないよね」。
そこで販売員は、にっこりと顧客に向き直り、「ドイツには、ドイツ人だって住みたくないんです。さあ、どうです?あなたの幸せはフランスにあるのです。フランスに住んでいるならフランス車が一番ですよ」と畳みかける。
思わず吹き出してしまったのは、まさにこの「ドイツにはドイツ人だって住みたくない」というセリフ。だって、それはまさしく私のパートナー、シュテファンのことを言っているではありませんか。彼もまた、ドイツの暮らしから抜け出し、フィリピンでの新生活を選んだのだから。フランスの販売員が自信満々に語るこのシーンに、なんとも皮肉な現実を見た気がしました。
ドイツを脱出する準備
もともと南の国が大好きで、寒いドイツに住みたくないシュテファン。‘5年ほど前、共同で所有しているマンションを売却し、そのお金でハウスボートを買い、世界中を回ろうと提案されたこともありました。しかし、子供たちがまだ未成年だったこともあり、そんな無責任なことはできないと私は反対しました。それから、彼は着実に別の計画を練り始めました。
というのも、15年ほど前から少しずつ株を買い始め、その上がりで月々800ユーロほどの利益が出るようになっていたからです。そして、その収入で最低限暮らせる国として、入念なリサーチの結果としてフィリピンが選ばれたのです。
フィリピンへの移住を実現するため、シュテファンはドイツの年金や税金、健康保険などの制度についても綿密に調査し、ドイツを離れても不利にならないように準備を進めていました。私たちが事実婚で籍を入れていなかったことも、彼にとっては有利でした。もし籍を入れていたら、婚姻後に得た株などの財産は私にも権利が生じていたはずですから。
そんな彼の姿を横目で見ながら、私としては、なるようになれ、としか思いませんでした。
シュテファンが自分自身の人生を好きなように生きるのは、彼の権利でもあります。
もちろん、人に話せば「家族をおいて自分だけ外国に行くなんて、無責任な!」と言われることもありますが、それでもそれは彼の自由です。
彼が、わたしとずっと一緒にいたい、と思ってくれなかったのは、私にはそれだけの魅力がなかったのだろう、という反省にもなりました。
新しい道を歩み始める
2024年1月18日。ついにその時がきました。
シュテファンは、ドイツでの生活をすべて整理し、フィリピンでの新生活に向けて出発しました。
私とシュテファンが過ごした22年という時間は、彼の「新たな道」という現実によって、静かに幕を下ろしました。そして私は、再び一人での人生を、子ども二人とともに歩み始めることになったのです。