見えないものを写す
写真はその本質にそこにあるものを記録するという特性がある。
特にフォトジャーナリズムの世界では正しい場所にいることが大事とされてきた。あらかじめ何が起こるかわかっていることだけでなく、何か起こりそうだけれども何がいつ起こるか分からないような時には、マニュアルフォーカスの時代にはカメラの絞りをF8に合わせて待て、などと言われていたこともある。広角でF8なら被写界深度が深く、ピントが合う範囲が広いから。
でも時代は変わった。
写真だけでなく、ビデオでさえも、手持ちのスマートフォンで現場にいた人に記録され、人がいなくても設置されたカメラが記録していたりする。では写真家、あるいはフォトジャーナリストと言われる人たちは必要ないのか。そんな疑問はここ何年も問われてきた。
世界最高峰のフォトジャーナリズムのコンテストの一つ、世界報道写真(ワールドプレスフォト)は一つの答えを今月示したように思う。大賞に選ばれた写真には人は写っていない。画面中央から右にかけて木製の質素な十字架が丘陵地に並び、その一つ一つには赤いドレスがかけられている。夕方だろうか、低い位置にある太陽に照らされ、杏色に染まっている。画面の上3分の1は雲の多い空なのだが、左端付近には虹がのぞいている。67年の歴史で人の写っていない写真が大賞に選ばれたのは初めてだという。
日本でもニュースになったので覚えている人も多いかも知れない。カナダ・ブリティシュコロンビア州に先住民族の子どもを同化させるため全寮制の学校が過去にあったのだが、調査の結果、215もの無標の墓が確認されたという。口伝えの記録が科学的調査で追認された形だ。こうした学校は19世紀から20世紀にかけて存在したという。2009年に真実和解委員会が設置され、こうした学校で亡くなった子どもたちのことが徐々に明らかになったきた。
写真に戻れば、十字架で墓、赤いドレスで恐らく女の子であろう子どもたちに想いを馳せさせるような追悼の表現を、ドラマチックな光と虹で彩っている。では今回の写真の場合、なぜ人が入っていないのだろう。あえて人を入れないことでユニバーサールな問題として提起したかったのではないか。
フォトジャーナリズムの世界でありがちなのが、たとえ関係者がいなくても、対象物の大きさや地元の雰囲気を映し込もうと、通行人などを入れたりする。東京株式市場の記事の写真で、株価を表示したモニターにスーツの中年男性が反射して写っていたりするのもそのためだ。
この写真を写したアンバー・ブラケンさんはエドモントンを拠点にするフリーランスのフォトジャーナリストだ。今回のような過去に存在した全寮制の学校の世代間トラウマのほか、人種や環境、脱植民地化などをテーマに、北アメリカ西部を撮影。地元のグローバルな問題に光を当てている。地元にあった問題を撮影することで、彼女は世界の他の地域でも起こっている、あるいは起こりうる問題を考えて欲しかったのではないか。だとすれば大いに成功していると言えるだろう。
彼女の「見えないものを写す」という挑戦はある意味、どれだけ見る人の想像力を喚起するかということにかかっていると思う。見る人はカナダの歴史を知らないかも知れない。しかし自分の地域に引きつけて考えてもらうことはできるはずだ。