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カメラ温故知新

スマホの出現以来、写真を撮ることは日常に定着した行為になった。世界中で毎日4億枚もの写真が撮影されているという。

しかし、カメラの売り上げは下がりっぱなしだ。それも毎年40%減である。
悲しいことである。というのも、日本のカメラメーカーが、世界のカメラの売り上げの99%を占めているからだ。

カメラを使って楽しむことは趣味として楽しい事ではある。写真は、なんと言っても、自己表現する、思い出を残す、記録を残すモノとして、これだけビジュアルに訴え、いつまでも心に、そして脳裏に残る物は他にはない。

「カメラのたのしみ方」のひとつとして、日本人が誇りと思える歴史の一端を記すことにした。その上で、お気に入りのsecond handを手に入れて時代を感じることも良いのではと思う。

カメラの歴史
カメラの誕生から190年、その歴史はガソリン自動車の歴史より古い。仏に起源を持ち、独で花開いた産業だ。

そして100年前、日本は日露戦争に勝利し、日出る国は極東の地で唯一近代化を歩んでいた。時を同じくして、独の写真機を模倣する会社がいくつも創業した。
一時は数十社にも及んでいる。

中でも、コニカの前身である小西屋六兵衛店は1903年に初の日本製カメラを販売した。次いで、ミノルタの前身である日独写真機商会、ニコンの前身である日本光学工業などが創業し、独に追いつけ追い越せの勢いで製品を上市したのだ。

しかし、当時はまだ独製カメラの性能は高く、世界で認められるパフォーマンスは出せなかった。

世界では西欧諸国の植民地支配が蔓延る中、第二次世界大戦が勃発する。そして終戦後、連合国によって独が東西に分裂させられたことが、大きく日本のカメラ産業の発展に寄与していると考える。

日本のカメラの巻返し
ツァイスが出資していたコンタックス社も東西に分裂し、この時注力して開発したカメラの形態が、明暗を分けることになる。西側がライカ社も含めレンジファインダータイプを開発、東側が一眼レフタイプを開発したのである。

東側の製品が積極的に世界に普及する事は無く、西側のレンジファインダーが世界標準となっていた。

そんな中、日本ではペンタックスの前身である旭光学工業がレフレックスタイプ、いわゆる一眼レフの開発に注力した。光学系の自由度があり、メカ的には複雑になるものの、レンジファインダーより遥かに将来性のあるシステムである。

そして、日本光学工業が、当初レンジファインダーで設計していたが、急遽一眼レフに設計変更した歴史的名機「ニコンF」を発売。

シャープな描写と堅牢な筐体、基本を完璧にまで抑えた性能、そして亀倉雄策氏による美しいデザインにより、それまでライカ中心だった戦場で使用された。1950年「ライフ誌」に掲載された戦場写真により、一気に評価を得たのである。

もし、西側コンタックスが一眼レフを中心に開発していたら、これほど早く、日本のカメラの発展はなかったかもしれない。

ニコンF以降、出遅れた西欧諸国は日本の技術力には付いてこれず、1970年代には、日本メーカーの世界シェアは90%以上となり、ほぼ全世界のカメラメーカーを淘汰したのだ。

今現在、デジタルになってもこの構図は変わらず、世界シェアは約99%であり、日本のカメラメーカーの努力は計り知れない。

民生品でここまでの快挙を成し遂げた産業はカメラ以外に無いのではないだろうか。ある意味、日本人として誇り高き産業だ。

是非、読者も歴史を遡って、気になるカメラを見つけてほしい。
そして、second handで手に入れて、当時の技術を噛み締めて撮影してみるのはどうだろうか。

「月刊カメラマン」「アサヒカメラ」を休刊に追い込んでしまったカメラ業界をもう一度盛り上げたいものである

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