「ありきたり」を選ぶ
はじめに
このnoteは、椎名林檎さんのアリーナツアー「(生)林檎博'24ー景気の回復ー」にて、「ありきたりな女」を拝聴して感じたことを綴った、1個人の感想です。
「ありきたりな女」は2014年に発表された曲ですが、今まで私個人の好きな曲の中には入っていませんでした。
なぜならこの曲は、ひとりの女性が子供を産んで「女の子」から「母」になる過程を描いた曲だからです。
母になれなかったから、「何者か」になりたかった
私には子供がいません。
過去にお腹に命を宿しましたが産むことはできませんでした。
この曲を聴いてしまうと自責の念に駆られることが多く、意図的に聴くのを数年避けていたと思います。
「この曲は『母親の曲』」、「母親になったから共感できる」という意見をファンの方々の間で見かけることが多く、「自分の曲ではない」という意識があったかもしれません。
もう少し、私自身の過去の話をします。
数年前に離婚してからは、とにかく「人とは違う何者か」になりたい気持ちが強かったと思います。
「新しい自分になる」、「挑戦する」という綺麗なフレーズに惹かれては、いろいろなことにお金も時間も遣いました。
だから、「ありきたり」なんて一番嫌いなワードだったかもしれません。
当時自分の周りは出産ラッシュで、うらやましいけどもう子供の話ばかりになるだろうし、自分とは話が合わないだろうな…と思って距離を置いた友人も多いです。
私は母親との関係も良好とは言えません。
だから、当たり前のように親子仲が良好な女性も、当たり前に愛情を自分の子に注げる女性も、どちらもうらやましくて、嫌いでした。
自分が「母親になれなかった」「家庭を築けなかった」という経験をしてからは、世の中における「母親」という存在が、自分にとってことごとく惨めさを感じさせる存在に変わってしまいました。
私自身は、とにかく「人とは違う何者か」になることを考えていました。
次の結婚も考えてはいましたが、相手も「自分の理想が叶えられるかどうか」という、とても打算的な視点で選んでいました。
親と離れること。地元を離れること。
不満の多い現職をやめて、別の仕事ができること。
これらを叶えられるかどうかが最優先だったので、相手への愛情が持てるかどうかは二の次でした。
そんな選び方でうまくいくはずもなく、相手が現れてもすぐに破局することを繰り返しました。
特別にならなくてもいいくらい、満たされてしまった
でも不思議なもので、結婚はしばらくいいやと思い自由に過ごそうと決めた途端に、縁があり新しいパートナーとのお付き合いに至ることができました。
思い描いていた条件には足りていないことがたくさんあります。
頼りないところもたくさんあります。
自分の理想もすべては叶えられないかもしれません。
でも、彼がとても大事です。
離れてまで自分の理想を叶えたいとは、もう思わなくなりました。「満たされてしまった」のです。
「何者かになりたい」気持ちも、
「何にでもなれる、どこにでも行ける」可能性も、もういらない。
横に大切な人がいないと意味がないから。
そんな心境に至った矢先、ツアーでこの曲を聴く機会に恵まれ、初めてこの曲を「自分の曲」としてとらえることができました。
私は親ではないので、この曲の本当の良さはまだ知らないのかもしれません。
でも、「大切な存在のために、無限の可能性を手放した曲」として聴き、初めて沁みるようにいい曲だと思うことができました。
「ありきたり」でもいい
女の子は誰でも魔法使いに向いてるけれど、もうやめる。
魔法使いになるよりも大事なことができたから。
どこにでもいる女として「ありきたり」に生きる。
大切なもののために自分の可能性を手放す尊さ。
ひとりで孤独だけれど自由に生きられる楽しさ。
どちらも知ることができてよかったと思います。
この記事を書きたいという心境に至ることはできたけれど、私はまだ自分の過去と向き合うたびに、自分の劣等感と向き合うたびに、この曲のことを考えて苦しくなるかもしれません。
それでもいい。
いつかこの曲がまた、自分にとって今以上に大切な曲だと思えるはず。
そんな日が来るような気がしました。