【日本とカンボジア】南部仏印に日本軍進駐、そしてアメリカの対日制裁、プノンペンに領事館開設(1941〜1942年)
1942年6月16日に、仏領インドシナのプノンペンに日本領事館が開設されました。日本軍がヴィシー政権下の南部仏印に進駐を開始したのは、その前年の7月28日でした。その翌日29日にはフランスヴィシーにおいて「仏領インドシナの共同防衛に関する日本国・フランス国間議定書」が締結され、仏印全土において日本の実効力が増している中、領事館を設置したと思われます。外務省報に記載の通り、現在のように普遍的に世界中に設置されているのではなく、大日本帝国の影響下にある地域に領事館が多く見受けられます。
この南部仏印進駐の直前7月25日、ワシントンでは野村大使とルーズヴェルト大統領の間で会談が行なわれていました。アメリカは仏領インドシンナをイギリス、オランダ、中国、日本、アメリカによって「中立化」させることを提案しました。26日には東京でグルー駐日アメリカ大使が豊田外務大臣に非公式会談を申し入れ、大統領と会談内容について改めて説明していました。
事態を憂慮する野村駐アメリカ日本大使はアメリカ政府の計画している政策について、本国に公電で報告しています。野村大使はこの公電567号で、「アメリカの有力閣僚は日本の仏領インドシナ進駐をドイツのヨーロッパにおける作戦と呼応するものと考えており、この疑問が解けるまで日米間の交渉は続行に無意義であると主張している」とし、手の施しようのない状態だと報告しています。また、対日資金凍結と石油禁輸も早晩実施されると思われると述べています。
こういった情報は無視される形で、既に軍部主導で部隊の移動が進んでいた日本軍の南部仏印進駐はこういった、緊迫した外交情勢の中、数日後の7月28日に行われました。
また翌29日にはフランスのヴィシーにおいて、「仏領インドシナの共同防衛に関する日本国・フランス国間議定書」が成立しました。
議定書の前文においては、日本が仏領インドシナの領土保全と仏領インドシナ連邦全土に対するフランスの主権を尊重すること、その一方でフランスがインドシナに関し日本に対して直接あるいは間接に対抗するような性質をもつ政治、経済、軍事上の協力を予見させるいかなる協定や了解をも第三国と結ばないことの二点が両国の間で約束されています。
また、議定書の本文では、①日仏両国政府は仏領インドシナの共同防衛のため、軍事上の協力を行う。②この協力のためにとるべき措置は特別に取り決めを行なう。③ここに記す諸規定はその採用の動機となっている諸情勢が存続する限り効力を有するものとする、という三つの規定がなされています。
この時点では、野村が警鐘を鳴らしたアメリカの強硬な対応を、多くの政府や軍関係者は予期していなかったようにも思えます。
さて、カンボジア現在のカンボジア王国領土である地域への進駐は、少し遅れて8月2日にコーチシナから行われました。以下、その移動の様子です。またその翌日8月3日には、北山部隊がアンコールワットに登る写真が残っています。
部隊の展開が終了したのちの8月23日、派遣軍最高指揮官の飯田祥二郎将軍は、航空機でタイ仏印方面の国境視察を行いました。アンコールワットも空から見ていたようです。
こうした軍部が中心となっての仏印進駐が行われた翌年に、プノンペンに領事館が設置されたことになります。
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