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小説「人間革命3巻」①~新生~

人間革命3巻「新生」は、年頭のシーンから始まる。このシーンは、創価学会員の中には、印象に残っているメンバーも多い場面だと思う。

一同の呼吸は、少しの乱れもなく、読経は一人の声のように、力強い和音となって、響いている。快かった。
戸田は、”今日はいいな”と、何気なく思った。

人間革命3巻「新生」p.9

コロナが発生してから、勤行唱題を大勢で行うことは減ったが、この多くの人たちと勤行唱題をする時に大事なのは、声を合わせることである。そして、この「力強い和音となって響いている」という感覚は、非常に理解できる。

 "地球という、この大宇宙に浮かぶ一個の惑星の、その島国の一隅で、俺は、今、何をしているのか。みすぼらしい、寒い部屋で、懸命に唱題している、戸田城聖というこの生命は、いったい何をしているというのか。
 ただ俺は、魔王と戦いを宣言しているのだ。その自分だけが、今、ここに存在しているのだ"
 戸田は自得した。大宇宙の中で、魔との戦い、すなわち人間の不幸の根源である無明を打ち破る戦いに挺身している、孤独な自分というものを、しみじみと悟ったのである。
 だが、彼は孤独を恐れなかった。五体に、あふれる活力が、見る見る湧き上がってるのを覚えていた。その生命の力は、もはや何ものも、さえぎることは、できないにちがいない。彼には、唱題の力が、宇宙に遍満するであろうことが、当然のように信じられたのである。

人間革命3巻「新生」p.12

私たち人間を、ふと俯瞰してみると、自分自身が居て、大きな国があり、地球があり、宇宙がある。そしてその一部なのであると気づく。故に我々一人ひとりは、宇宙とつながっている大事な存在である。しかしながら、私たちはその中で悩み苦しむ。その悩み苦しみとの闘争の中に次の前進があると仏法では説く。けれど、破れてしまえば次はないのである。この不幸の根源を打ち破っていくこと、また打ち破っていける生命の可能性を引き出していくのが唱題なのであると思う。

「先生、おめでとうございます。本年も相変わらず……」
戸田は、笑いながら言った。
「やぁ、おめでとう。ところで、本年も相変わらずじゃ困るなぁ。そうだろう。去年と同じことをやっていたんでは、広宣流布は腐ってしまうじゃないか。原山君は、去年と同じように、もそもそ動こうというわけか」
どっと笑い声があがった。(中略)
組織が秩序だってくると、どうしても幹部の惰性が始まる。しかし、自分では気づかない。相変わらず、結構やっていると思っている。この相変わらずが、空転になる。それがくせものなんだ

人間革命3巻「新生」p.13

このシーンは非常に印象的な場面である。学会員の中でも、印象に残っているメンバーも多い場面である。なぜ印象に残るのかーそれは一般的な感覚と異なるということなのだろう。「本年も相変わらず…」とは、よく新年に使う言葉である。しかし、戸田はその何気ない言葉から、その本質を見破り、指導に変えていくのである。

宇宙のあらゆる一切のものは、天体にせよ、一匹のシラミにせよ、刻々と変転していく。一瞬といえども、そのままでいることはできない。相変わらずでやれると思うのは、錯覚にすぎない。
 そこで、いちばんの問題は、良く変わっていくか、悪く変わっていくかです。このことに気づかないでいる時、人は惰性に流されていく。つまり、自分が良く変わっていきつつあるか、悪く変わっていきつつあるか、さっぱり気づかず平気でいる。これが惰性の怖さです。
 信仰が惰性に陥った時、それはまさしく退転である。信心は、急速に、そして良く分かっていくための実践活動です。(中略)
 今の不幸が、生涯、続くように思えても、それは変わっていく。信心している限り、必ず不幸へと変わっていく。それが自然の理であり、宿命転換ということだ。また、今の幸福が永久に続くように見えても、この根本の信心がない限り、いつ不幸な方向へと、変転してしまうかわからない。

人間革命3巻「新生」p.16

朝起きて勤行唱題を行い、夜寝る前に勤行唱題をする。この継続は大事である。起きて顔を洗うように、寝る前に歯を磨くように、自身の生活の中に、信仰を入れていくかが真の信仰者である。しかし、単に唱えるだけは「惰性」になってしまう。「祈る」ことなのである。そして、「変わる」ことなのである。

広宣流布の活動といっても、その実践の根本は、座談会と教学の研鑽である。この二本の柱が強力に忍耐強く実践される時、いつか、この社会を変え、新しい日本の基盤を築き、新しい平和の世界を創っていくことができる。なかでも、座談会の推進が、大きく広布の歯車を回すことになる。

人間革命3巻「新生」p.36

ここで、戸田は、活動の根本を「座談会」と「教学」であると明確に答えられている。「折伏」であると言われていないことが、非常に面白い。
信行学の実践から見た時、「信」ずることを前提としたうえで、それを支える同志との触れ合う座談会であり、信仰を理性的に捉える学の面である教学と言われている。つまり、この回転によって、折伏弘教はおのずと達成されてくるということなのであろう。

戸田は、人間を、人相などといった外見で判断することは、したくなかった。しかし、確かに人間の顔には、時に畜生界や餓鬼界の相が現れるかと思うと、突然に死相をのぞかせることも事実である。

人間革命3巻「新生」p.50

戸田先生も池田先生も多くの同志や、様々な人たちと会ってきた人である。そこには、一人ひとりをこの一瞬で救わんとする祈りと決意が常にある中で、一人の人間の如是相から、その人の一念三千を見抜くことができるのであろう。そして、それは仏法の法理に照らして、誰もが可能なのである。しかし、一方でそれは外見で判断してしまっているようにも見えてしまう。だから、ここで注釈という明確なことはしないものの、注意として記載しているのである。

世間では、さまざまな民主化活動も、ようやく多彩に行われるようになった。労働組合の組織活動も、盛んであった。だが、人間の幸・不幸を最終的に決定するのは、一個人の生命の問題である。ほとんどの運動の指導者が、そのことを知らずに活動を行っていた。

人間革命3巻「新生」p.55

人間は、様々なシステムや仕組み作りで、問題解決を図ろうとする部分がある。特に組織においてはそれは顕著である。しかし、根本はその組織を形成合っている人と人、つまり生命と生命の問題に気づかない。特に、企業においては、利益を得ることが第一優先であり、その中では、ある意味でどのような組織を作っても、命令があっても、利益を得れば良しとされる。しかし、そこに居る人たちの内情は度外視される。そこに居る人たちの意識が合っていなければ結果は出せても、幸せではないのである。その人の心の領域を見破る力、そして変革する力こそが、今この現代においても最も重要な能力ではないかと私は強く思っている。

人間一人の不幸という現実は、時には術もないと思われるほど、想像を絶した悲惨なものである。戸田も、これらの姿を見て、たじろぐこともあったろう。妙法の功力の無量無辺であることは確信していたが、絶対に解決すると断言するには、自らが絶大な信力を奮い起こさなければならない。
 彼は、逆流のなかに身を置く思いで、まず、自身の心中で戦ったこともあた。足をさらわれるか、さらわれないかー指導の前に、まず、彼自身が勝たねばならなかった。そして、彼の優しく、また強い心には、この戦いのあとに、慈愛と信念とが満ち満ちてくるのであった。

人間革命3巻「新生」p.56

戸田に相談してくる人たちの苦悩を思う時、自分の言葉一言一言がその人を救うのか、救わないのかが決まってくるのである。そういった真剣勝負をされていたのかもしれない。と考えると、私たちは、戸田先生の言葉や池田先生の言葉が多くある時代に、その中からベストな回答を出しているだけなのかもしれない。この一人を救おうとするその一念にこそ、本当の真心の言葉が発せられるのかもしれないと思った。

「それでいいのだ。いいのだ。大事なことは、所詮、御本尊に対して、赤子のように素直で、たくましい信心さえあればいいのだ。それが、自己も、家庭も、環境も、社会も、すべてを必ず解決していくのだ」

人間革命3巻「新生」p.56

どんなに良い言葉、真心の言葉を込めて語ったとして、相手が奮起したとしても、本当の意味での宿業を断ち切ることはできない。宿業やその不幸を止める最後の仕事は「御本尊」なのだ。

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