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小説「人間革命2巻」②~序曲~

本章では、ここ近年、話題になっている日本国憲法について記載されている。特に、9条における平和憲法に至るまでの経緯が記されいる。この経緯の部分については、今回はあまり触れず、戸田やその周辺の会員にフォーカスを当てていきたいと思う。

”この憲法を現実化していくことのできる政治形態は、いかなる形態であろうか”と思いいたった時、強く未来の光明をつかんだのである。

人間革命2巻「序曲」p.88

創価学会は現実を見て行動する。憲法の問題も、当然自身の理念に基づいてみていく。そして、そのうえで行動を起こすのである。
 様々な主義や理念、思想がある中で、仏法どのように必要であるのか、創価学会の使命とは何かを、考察している。非常に長い箇所ではあるが、重要であるため、全てを引用する。

ー資本主義であれ、共産主義であれ、また、いかなる政治形態であれ、戦争放棄をうたった憲法をどのように生かしていくかは、主権者である国民一人ひとりに、かかってこよう。その根本である人間の変革が、不可欠となろう。
 たとえば、人びとが核爆発の脅威に怯えながら、戦争を放棄する勇気など、あるはずがない。本当に人間とは、出来の悪いものだ。どんなに善意に満ちていたとしても、次の瞬間、悪縁に遭えば、何をしでかすか、分かったものではない。そのようにできているのが、人間の本性である。数多くの政治家の限界も、ここにある。彼らに、第九条を永久に維持する能力があろうとは、とうてい思えない。
 しかし、第九条は、戦争の悲惨と残酷を知った人びとの、心に芽生えた悲願であることは疑いない。戦争放棄を、実現可能にするためには、今までにない、全く新しい理念を必要とするだろう。それは何か……。
 多大な犠牲を払って、世界大戦は終結したが、地球上には、新たな対立と不信が、広がろうとしている。人類の平和への悲願にもかかわらず、再び、戦争が不可避になってしまうことを、危惧せざるを得ない。しかし、もはや資本主義、社会主義の思想をいくら折衷しても、理論をこね合わせたくらいでは、平和を実現し得ない段階である。それは、誰人も知悉している通りであろう。
 既存の、あらゆる主義、思想を、人間という根本の次元から、人類の平和と幸福へリードしゆく、新しい理念は、日蓮大聖人の仏法の生命哲理から生まれるにちがいない。この大哲理によって、民衆の新しい時代が開かれた時、人類は、劫初以来の悪夢から覚め、平和の大道を力強く歩み始めるに違いない。同時に、憲法の平和精神を、広く世界に宣言しきることができるだろう。
 広宣流布とは、まさしく、永遠の平和を地上に具現することであり、それは、仏法の慈悲と平和の哲理が、人びとの精神の大地に、深く打ち立てられていくところから達成されるのだー。

人間革命2巻「序曲」p.90

どのような思想や理念が、すばらしかったとしても結局のところ、人によって決まる。大哲理を持ち、そして一人一人が人間革命し続けることが、いかなる理想も哲理も生かすことができるのである。故に、我々の仏法は主義や思想を超越しているとも言えるだろう。

 今、地球上の一角にある日本国に、戦争の放棄、平和主義を掲げた憲法が、忽然と現出したことが、戸田城聖には、不思議に思えてならなかった。
 彼は思った。いや強く確信した。
 ”広宣流布が、まず、この国に実現できるという証拠なのだ!”
 御書には、広宣流布は「大地を的とするなるべし」(1360㌻)と、明白に仰せである。「時」と、「機」と、「国」の条件は、熟しきっている。あとは「教」を教え、「流布」を実践することが、今、残されていることだ。
 それにしても、これに気づいている人は、ほかに誰もいない。話しても、誰も信じようとしないだろう……”

人間革命2巻「序曲」p.91

本当の信仰者は現実を見つつも、信仰の眼から見ることを絶対に忘れない。そして、必ず前身の方向に変えていくのである。

(戸田)「あなた(牧口)の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで『在在諸仏土 常与師俱生』と、妙法蓮華経の一句を、身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましょうか」

人間革命2巻「序曲」p.107

人間革命1巻から読み始め、あらためて思うのは、戸田先生自身が、獄中での悟達がなければ、今現在に至るまでの創価学会のスタートは絶対にありえなかったことだ。そして、師である牧口先生と共に入獄し獄中で戦わられたからこそ、ここで戸田自身が感謝を述べている。この師弟の想いを我々も日々感じ取っていかなければならないと改めて思った。

”あの人にできたことが、自分にできないはずはない。御本尊が正しく、絶対の力を持つならば、あの人たちだけでなく、自分にも同じ現証がでるはずだ”

人間革命2巻「序曲」p.111

人はそれぞれ異なった性格、宿命を持っている。しかし、法が正しければ、必ず開けていけるはずである。しかし、他者の体験を聞いても、自分にはできないと思うこともある。また、学会の役職に飲まれ、彼は自分よりも上の役職だからと思ってしまうことも良くある。しかし、同じ法を使っているはずなのだ。結局は、その法をどこまで信じていくか、この一択しかない。

 難解な理論を弄び、さも知識人ぶって、うぬぼれている偽学者たちは、現代にも多い。まず、民衆が納得するような理論でなければ、それは生活の足しにもなるまい。
 最も平易に、具体的に指導できる人物こそ、学者としても優れた力を持つにちがいない。理論のための理論の遊戯は、積み木細工の子どもの遊びと、なんら変わりないはずだ。

人間革命2巻「序曲」p.112

難解な理論を弄んでいる、と言われると正直、自分自身でも耳の痛い話である。しかし、このような取り組みをしながら、他人の心の内をできる限り表現できるようになったと思う。また寄り添えるようにはなったと思う。このような取り組みにのみ、取り込まれて行くならば、ここに書かれているようにうぬぼれている偽学者になってしまう。しかし、学会の中で活動していく限り、絶対にそれはない。様々な同志がいる中で、自身の未熟さを常に実感するからである。難しい理論や難解な言葉が通じる人たちだけで話すのは楽しいが、以下にそれを現実世界に落とし込み、使っていくかであると思う。単なる遊戯ではなく、現実に密接につながってこそ、価値あるものになるのだと思う。

「道理証文よりも現証にはすぎず」(御書1468㌻)
現実の苦悩を解決できなければ、力のある宗教とは言えない。利益といっても、現実の生活の中に現れ、自覚されるものでなくてはならない。日蓮大聖人の仏法は、一時的な、また、目先の利益にとどまらず、いかなる苦難にも負けない堅固な自己自身を確立し、絶対的幸福境涯を築き上げる大利益を、万人に約束しているのである。

人間革命2巻「序曲」p.114

私たちの信仰の最終目的は幸福になることである。これは、科学技術においても、企業においても、教育においても、究極的には同じ目的であることを忘れてはならない。そして、私たちの仏法をこの全てを包含しているからこそ、絶対的幸福境涯を築き上げることが最終目標であり、必ずたどり着くと約束されているのである。

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