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破滅的メタ思考の悲劇と処方箋

自分より一個格上の存在が、自分を嘲笑っている姿を想像すると、その存在よりもう一個格上の自分を仮定・拡張して、その存在を嘲笑おうとしている自分の浅ましさに気がつくと、メタ即ち認知思考の階層分けは、何ともツマラナクて、却って純粋に怒ったり、悲しんだり、哀れな目に遭う人たちが、羨ましいと思う。
そしてきっと、人間は歴史の流れによって形成された人間ラシサを脱ぎ捨て、やがて生命・生物・獣そのものらしさへの憧れを抱くだろうが、結局の所は人間ラシサに保護されていた自分を可愛がり、その煤けた正当性を捨てきれもせず、怒りをもて遊び、悲しみをもて遊び、忘れるほどに働くか、ふいに発狂衝動に襲われるかの、最後の二択を迫られる。

だから、賢いにしても、世俗をちょうどよく割り切れるほどの賢さが快適で、バカにしても、おのが情動に少なからず鈍感なバカさがどっちにしろ優秀なのである。
それから離れれば離れるほど、人は生きづらさを根本から解消することは、不可能であり、その埋め合わせで、必死に働いたり、必死に怠けたり、急な発狂の衝動に駆られたりするのである。

だからもし自分が嫌な気分になったら、バカならじっくり何万時間でも考えるべきだし、賢いなら何も考える必要がなく、情念で抵抗するべきだ。
自分がバカか賢いかは自力の判定でする他ないが、もしも分からない、または自力を信用できないならば、まずはバカの選択、すなわち滅茶苦茶な時間で滅茶苦茶に考えてみるのが良いと思われる。
自分の賢さを充分だと認識しているならば、賢人の選択、すなわち一切合切何も考えない、ということを経験したらどうか。
これがあなたの正しい悩みの解決の喜びを示してくれることを祈る。

いつも読んでくれてありがとう。
この記事と出会ったあなたに、
心ばかりの幸せを。

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