静寂のレコード
筒井康隆の短編SFに、「にぎやかな未来」という作品がある。労働からの解放とひきかえに全ての商品や放送に広告が挿入されるようになった近未来の日本を舞台に、主人公が何とかしてCMとは無縁な静けさを手に入れようとする話である。
この短編におけるキー・アイテムとして、「静寂」が録音されたレコードが登場する。作中の近未来世界では、部屋に備え付けのステレオ・システムから常時CM入りの公共放送が流れている。レコードをかけているときだけは放送が止まるものの、レコードにすら曲間にコマーシャルが挿入されていて、広告の魔の手から逃れることは不可能となっている。
ところが、この「静寂」のレコードには広告がひとつも入っていない。それどころが、なにひとつとして音が録音されていないのである。主人公はこのレコードを購入しようとするが、おそるべき高値が付けられていてとても手が出ない。近未来のユートピアにおいて最も高価なものは、静寂であった…というオチである。
この「静寂のレコード」は、日本においては空想科学小説における創造の産物でしかない。ところが海を越えたアメリカでは、このような「静寂のレコード」、すなわち何の音も録音されていないレコードが、ある場において公然と流通し、そして少なくない人に利用されていたのである。その「場」とは、1950・60年代にジューク・ボックス(内部に数十枚~数百枚のレコードを格納しており、利用者が硬貨を投入することで好きな音楽を選択、3分間再生できる装置)が設置されていたレストランやカフェであった。
1959年、デトロイト大学のカフェに設置されていたジューク・ボックスに、学生らによって2枚のレコードがひそかに追加された。ひとつは全くの無音、もうひとつは15秒ごとに短いビープ音が録音されたもので、初めはイタズラ目的で追加されたこれらレコードであったが、数か月経過したところで学生らがレコードを点検すると、驚くべきことが明らかになった。設置したレコードはあまりにも繰り返し演奏されたため、溝が完全にすり減り、再生するとバチバチとノイズが入るようになっていたのだ。ジューク・ボックスが垂れ流す大音量の音楽に飽き飽きしたカフェの利用者たちが、3分間の「静寂」を手に入れるために硬貨を投入し、2枚の「静寂のレコード」を繰り返し選択していたのである。
この「静寂のレコード」は1950年代後半、米国各地のジューク・ボックスに拡がりを見せ、なにも録音されていないレコードを専門に扱うレーベル「ハッシュ・レコード・レーベル」が設立されるまでに至った。静寂を望む多くの利用客はこぞって5セント硬貨を投入し、そしてそれと引き換えに3分間の静寂を得たのである。しかし、自社の音楽入りレコードが再生されなくなることによる収益減を懸念したレコード会社各社による圧力、さらには'60年代後半以降のジューク・ボックス自体の衰退もあり、このような「静寂のレコード」は徐々に姿を消していく。
これらレコードのラベルは、ただ"Three minutes silence"などと簡潔に記されただけのもの、あるいは何も印刷されていない白地のものであり、コレクターの興味をひくものではなかった。そのため製造されたレコードもそのほとんどが廃棄され、アメリカの「静寂のレコード」は歴史の流れの中に消え去ろうとしている。
Vwestlife氏によるこちらのYouTube動画は、「静寂のレコード」の成り立ちと沿革についての分かりやすい解説動画である。興味のある方はぜひとも視聴してみると良いであろう。(全編英語)