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心にギャルを持とう/『何者』朝井リョウ

心にギャルを持とう

一見意味不明な言葉だが、これを心に決めたのは朝井リョウの「何者」を読み終わった時だった。

今作の文庫本のあとがき(解説)は三浦大輔さんという劇作家の方が執筆していた。

「何者」の話の大事なピースは、ツイッター(現X)だ。ツイッターの裏垢だ。
フォローよりもフォロワーの方が何人多いとか、いいねが何個でバズってるとか、承認欲求を掻き立てて若者の手からスマホを離させなくするツールではあるゆえにそのあり方がたびたび疑問視されてきてはいるが、
三浦大輔さんがツイッターに関してぶつくさ言っていたら、脇にいたギャルがこういった。

「別にそんなことどうだっていいじゃーん。たのしければよくなーい。」
「なに書いてもしぬわけじゃねーし。」

彼女たちのことを知性がない、と言って突き放すのは簡単だけれども、そうではなく彼女たちの楽観さを見習った方がいいのではないかと感じた。

じめじめとした答えの出ない思考を巡らせているよりも、彼女たちのようなあまり物事を深く考えないさっぱりとした気持ちで社会に顔を出していたほうがきっとその場も明るいだろう。なにより精神安定上そっちの方が絶対に良い。

もともと自分は「深く考える」ことがあまり好きでなかった。
なぜなら、
「深く考える」=「答えは出ているのに”しない言い訳”を探す行為」
となる確率が高かったからだ。

首根っこをつかまれた(ネタバレあり)

今作のラストで、主人公・拓人が実は就活2年目でそれでも内定が出ていないという衝撃の事実にひとり時間差攻撃を食らった。

物語の主人公であり、周りの見えているタイプ。
誰かのちょっとイタイ行動を友人とにやけられるその精神が私とも似通ったところがあるかもしれない、などと思っていたが、最後はその見え方が逆転。
実際は、拓人は自分が格好悪いと感じる他人の行動をツイッターの裏垢で批評することしかしていなかった。冷めた傍観者として。

この事実が分かった瞬間に、なんだか自分も首根っこをつかまれたような気持ちにさせられた。

拓人は自分を主語にして行動を行った軌跡がない。
彼は何も失敗していない。失敗していないからなにも残っていない。
それなのに、「自分は”なにか”を持っている人間だ」「何者でもないわけがない」と必死に自分に言い聞かせている。

そんな彼の本質を、最後に理香から言われる。
いままでずっと一番格好悪く、イタイヤツとして描かれていた理香にだ。

別に理香を支持しているとか、拓人を非難しているとか、そういうわけではなく、ただ「深く考える」ことを自分は勘違いしていたんだ、ということがその時なんとなく分かった。
言い換えると、読書に対する違和感だ。

読書に対する違和感

私はもともと読書をしない人だったけれど、休職し始めて時間が無限にあることから読書を始めた。
古本を買えばお金もそんなにかからずに長時間楽しめるコスパのいいものだと考えていた。

そして、せっかく読書をしているのに最後は何も記憶に残りませんでしたじゃもったいないし、かっこ悪いと思ってこのnoteに記録を書き始めた。

いまでは本を読むのが面白すぎて、読むスピードに対して読書記録を描くスピードが追い付いていない。noteを描くのが正直めんどくさいくらいだ。

けれど、やはり何とかして自分の感じたことを形に残すことは、貴重な時間をくれたその本への敬意というか、いつか見返すかもしれない自分への贈り物というか、そういう気持ちで大事に描いた文章がここに残っているということはなんだか気持ちが良かった。

特にこの読書の面白さを知らしめてくれた「傲慢と善良」著・辻村深月さんの読書記録はいまでも大事だ。

本書の面白さもそうだが、なんだかこの世から面白いものを自分で見つけることができたという快感があった。
(あまり有名じゃないけど好きなバンドを見つけた瞬間とか、SNSとかテレビの紹介を見たわけではなく自分でふらっと寄ったカフェがめちゃくちゃいい感じだった、とかそんな感覚に近しい。)

だからこそ、読書を通じて人間の感情の動きだったり、自分自身のあり方だったり、自分というものの深いところまで考えさせられる時間が自然と増えていた。
もしかしたら朝井リョウさんや辻村深月さんの小説がそういうタイプだからかもしれないけれど・・・

けれどなぜだか、小説は面白いはずなのに、常に少しばかりのストレスを感じていた。

小説を楽しんでいるはずなのに少しむなしい。
色々考えることができている割に何もできていない感じがする。

人間は結構考えることだけで満足しがちな動物だと思う。
要は、かけた時間や労力によってある一定の満足感を得てしまうという至極当たり前な現象が「考えること」によっても得られてしまう唯一の動物だ。

ただし、例えばその「考えたこと」を小説やエッセイといった世に出す形で執筆している人もいれば、仕事やプライベートに生かす人もいるだろう。
だから決して「考えること」が何も生まないとか悪いとかいうわけではない。

では、なぜ「深く考える」ことにストレスを感じるんだろうか?

それは『私は拓人みたいになりたくない。』という感情にとてつもなく似ていた。

「深く考える」ことと「行動する」ことは全くの別


大事なのは「行動」をしているかどうかだ、と私は読書をするうえで今一度心にとどめなければならない。

深く思慮することが好き、物事を多角的にとらえて評価することが得意。結構身近にもそういう人がいる。
きっとそういう人たちは他人よりも物事を考えることにたけていて、人間味があって面白くて、話も深みがありそうだ。
私もそうなりたかった。

でも、ずっとなんとなく違和感があった。

「深く考えること」はきっと良いことのはずなのになぜ少し心がざわつくのだろうか?

それをこの小説のラスト、拓人と理香の会話と拓人の中の葛藤から整理することができた。

それは「深く考える」ことと「行動に移す」ことは全く別ということだった。

少なくとも執筆家として作品を生み出している人や仕事やプライベートに考えたことを活かしてきた先に述べたような人が、他者の心を動かしてきた。
誰かのためになってきた。そして、それを自身の幸せや充実につなげてきた。

人は目に見える「行動」でしか評価を得ることはできないし、他人を幸せにすることはできない。
さも言えば、自分を幸せにすることはできない。

哲学者が幸せそうに見えない

そういった哲学的な思考に興味を持ちだした時に、はじめに抱いた疑問は
「なぜ哲学者は幸せな人生を送っていないんだろうか?」

正直、偏見だ笑
その人が幸せかどうかなんてその人しかわからないのだから。

でも、どうしても私は哲学者たちが幸せそうには見えない。
また同様に、現代においても哲学的な思考を語っている人たちや、まだ答えが出ないと言ってグルグルと考えている人に対して、心の底から共感することがまだできていない。

そんな問いに対する私なりの答えが今一つ出た。

―それは、哲学者の教えは「行動」に移されていないことだから。

その人がいくら深く考え、何が人間として大事かを説き、誰かにそれを伝えていたとしても、その本人がそれをどういった行為として実行しているかどうかは全く別であるからだ。
だから、なんだか小説を読んで気づきを得ても、謎のストレスが私の心の中にあり続けているんだと思う。
自分はまだ何も得たものを生かして行動をしていないから、ストレスを感じるんだ、と気づいた。

【解決策】自分の内側へ向いた矢印と同じ熱量で他者へ矢印を向ける

読書や哲学から感じたことを深く思考しようとすると、絶対的に思考の矢印は自分の内側を向いている。
自分の胸の中に様々な問いかけの矢印が向かってくる。

読書とそういうものだ。
読書は自分自身と語り合いながら読み進めることを楽しむものだと思う。

ただ、ここで勘違いしやすくなっていくのが、矢印が自分を向くことが癖になるとモチベーションは薄くなるということ。
考えるだけで何かをなし得たと勘違いして、自分に満足してしまうことが麻薬のように習慣化される。


そして、人間にとっての幸せは結局は他者とのつながりでしか得られない。
ただただ深く考えることを続けると、結果病む時間が増える。

じゃあ読書はしない方が良いのか?

それはNoだ。
した方が良い、と私は思う。その方が人生楽しい。

は?どういうこと?
自分でも書いていてそう思いたくなる。

大事なのは
読書をしていて自分の内側へ向いた矢印と同じ熱量で他者へも矢印を向けること
だと思う。

一つイメージしやすい例を挙げると、メンタリストDaigoさんのYouTubeなどを見たことはあるだろうか?

私はとても好きなんだけど、最近のブームが「非効率を愛そう」ということでデジタルデトックスを少々意識したりしているので、効率的な○○だったり、うまく立ち回るコツなどを短時間で多く情報提供してくれるDaigoさんはあえて遠ざけてしまっている。

言いたいのはそんなDaigoさんの魅力ではなくて、
あの驚異の読書量に相対して、SNSでの発信や配信などのアウトプットに加え、では他者に自分に持っているものをアピールするにはどうするかをものすごい熱量で行動しているところだ。

例えばそれを自分に置き換えてみるとどうだろう。

この前noteで読書会というのを神保町で開催している方がいた。
読んできた本をお互いに発表しあったり語り合ったりするものだ。
そういうのに参加もしてみたい。

あとは、私に読書を教えてくれた友人に久しぶりに会って話したい。

何か、今後の生き方だったり、人生の時間の使い方に踏ん切りをつかせられるかもしれない。

などなど、「読んだその先」を少しイメージしてみる。



私は今まで行動8・思考2のような人間だった。
行動をすぐ起こすことのできるタイプで、考えても仕方がないと「行動」の後ろに「考え」を置いていくタイプだった。
だからこそ良かったことも多かったと思う。
だが一方で、振り返ってみると「行動」をしない・できない状況に自分がおかれた時の立ち振る舞いが分からなくなっていた。

・適応障害で”休む”ことをすべき
・頸椎ヘルニアでできないことが増えている
・お金を使いたくない
など、人生で初めて「行動」が規制されている状況に自分は立たされている。

そして、自分だけの時間が増えたことで行動1・思考9くらいになる時間を作り出すことができている。
だからこそ悩んでいる。

急に自分の内側に矢印が向き続けて、自分のあり方をとかけられて答えを出せずにいる。


でも、だからこそきっと

他者とのつながりを持ち続けること
自分の内側へ向いた矢印と同じ熱量で他者へも矢印を向けること

を私みたいなタイプはし続けていかなければならないんだ。

「深く考える」と「答えは出ているのに”しない言い訳”を探す行為」はノットイコールであるとしっかりと認識しなければならないのだ。



今日これを気づくことができたから、もっともっと読書を楽しむことができそう。

でも正直また読書でたくさんの矢印が自分に向くことに不安を感じるかもしれない。
本当にこれでいいのだろうか・・・と誰かに背中を押してもらいたくなるかもしれない。

だから私は読書をするときには必ず「心にギャルを持って」挑もうと思う。

心の中のギャルよ、今日もこう声をかけてくれ。

「別にそんなことどうだっていいじゃーん。たのしければよくなーい。」


P.S.
「何者」について、ちゃんとした読書感想を別で書いた後にアップしようと思っていたのに、なぜか思いもしないところから話がつながってカタチになってしまった。

もっと色々書きたかった。
物語が加速する瞬間、時間を忘れて自分が物語の中に吸い込まれていく瞬間だったり、
今作は平成24年のものだから2012年、もう11年も前だからインスタグラムは出てこないギャップだったり、
瑞月の言葉だったり。

でも、とりあえず公開設定ボタンを押してまた次の作品を楽しもうと思います。

たのしければいーじゃん!ってことで。

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