罪悪感との向き合い方ー”過ち”を犯してしまった時あなたはどうする?/『君たちはどう生きるのか』吉野源三郎(漫画・羽賀正一)
『君たちはどう生きるか』はどんな本?
一言でまとめるのであれば、
一、「立派な人間になる」とはどういうことか?
二言でまとめるなら、
一、「立派な人間になる」とはどういうことか?
二、”過ち”を犯してしまったとき、罪悪感との正しい向き合い方とは?
三言でまとめるなら、
一、「立派な人間になる」とはどういうことか?
二、”過ち”を犯してしまったとき、罪悪感との正しい向き合い方とは?
三、原作の舞台は1937年だから今から80年以上前。すっごい昔だね。
四言でまとめるなら、
一、「立派な人間になる」とはどういうことか?
二、”過ち”を犯してしまったとき、罪悪感との正しい向き合い方とは?
三、原作の舞台は1937年だから今から80年以上前。すっごい昔だね。
四、ナポレオンすごい
だんだん語彙力を失ってきたので、この辺でやめます。
きっと立派な人間はこんな無駄なことしないと思いました。
ちなみに私の読んだ『君たちはどう生きるか』はこんな本です。漫画版です。
立派な人間とは
あなたは立派な人間はどんな人だと思いますか?
少し目をつぶって想像してみてください。
・・・
私は目をつぶった途端に、サングラスを着けたヒカキンが頭の中で「ブンブン、ハローYouTube♫」と言っていました。
あなたは誰を思い浮かべましたか?
大企業の社長、投資家、有名な政治家、歴史上の偉人、お金持ち、かっこいい俳優、いつも頑張っているKPOPの推し、会社のすごい先輩、親、ちゃんと働いている人、有名大学に合格したあの先輩・・・
他にももろもろいると思います。もしくは、「そんな人いないわ、オレが一番立派だ」という人もいるかもしれません。
ではなぜその人が「立派な人間」なんですか?
偉いから、お金をいっぱい持っているから、色々知っていて頭がいいから、みんなから尊敬されているから・・・
まあこんなに薄っぺらいことをいう人は、この不幸な将来を約束され虚無感に覆われた日本を生きる現代の方々にはいませんよね。もっと自分は思慮深いと自覚している方々がほとんどだと思います。
特に最後の「みんなから尊敬されているから」なんて最低です。自分が選んだ理由を他人に委ねていますから。
そう言われた人々はより内面的なものを主張しだします。
いつも頑張れる姿が素敵だから、嘘をつかない正直な人だから、他者を思いやれる人だから、優しい心を持った人だから
すべて間違っていないでしょう。けれど「合ってる」と言い切れるでしょうか。合っている理由を言語化できる人はどれだけいるでしょうか。
「なぜですか?」とひろゆきみたいな人に2回くらい深堀りされた後に「なんでかっていうと~」と成田悠輔さんのように流暢に返せる人はどれだけいるだろうか。
「立派な人間」の”立派”とはどういうことなのか?
”人間にとっての立派”とはなにか。人間に生まれ落ちたからには、私たちは何をしなければならないのか、そしてどんなことを胸に秘めて生きていかなければならないのか。
小学生のコペル君と元・編集者の叔父さんとの対話の中から見出していく、そんな素敵な本です。
読んだ後、私はちょっと人生がすっきりしました。
しかし、ここまで自分の執筆を読み返してみると、本当にすっきりした人が書く文章とは思えませんね。
皮肉めいた文章をここまで読み切れたそこのあなた。
あなたのようなすごい人は、ぜひ朝井リョウさんの『正欲』も読んでください。3ページで朝井リョウという作家とその作品を好きになること間違いなしです。
私が保証します。
「誰だよお前、お前ごときが保証すんな、ほざくな」とほざいた人、そう、そこのあなたです。そういう人が読むのです。
最初の3ページだけでいいから、先っぽだけでいいから。
読んだら朝井リョウという人間に魅了されて、あなたの足はレジの方を向いていることでしょう。
生産する人間と消費する人間 ー油揚屋の浦川君
私は一度無職(正確には休職中)になって、ひとつ気づいたことがある。
それは、結局は「なにかを生産する側になろうとする」ということ。
言い換えると、「誰かのためになにかをしようとし続ける」ということです。
無職は基本的には社会の中で常に消費する側です。
一方、勤労している人は誰かの何かのために捧げた「時間」を対価に「お金」をもらい生産する側になります。その上で、生活するために消費をします。
無職はそれをしていない。日々消費しているだけ。
それなのに、何かを生産して今日もやることをやったと心の中で自分に言い聞かせることをしないと無惨な気分に押しつぶされて夜も安心して寝れなくなる。何に対する罪悪感なんだろうか。
誰かのために何かをする、それが人間の性(さが)でもある。
だからこうして、誰が読むわけでもないnoteに長文を綴っているのかもしれない。
本書に登場する浦川君は主人公のコペル君の友人。いつも優しくてどこか頼りない彼は小学校ではいじられキャラで、いじめっ子が服の中に砂を入れていじめていたりしていた。ほかの子と比べて身なりも貧しく、常に油揚げのにおいもしていたため目がつけられやすかった。
でも、コペル君とコペル君の友人たちは優しい浦川君のことが好きだった。
ある日、浦川君は突然学校に来なくなってしまった。
心配したコペル君は浦川君に会いに行くと、浦川君は家で赤ん坊を背負いながら油揚げを揚げていた。
貧しい家の仕事を必死に手伝っていたのだ。
学校で見る彼とは似ても似つかない頼りがいのある彼の背中を見たコペル君は感銘を受ける。
ーでは、浦川君のこの行動がなぜ称賛されるのだろうか?
家族思いで優しい人だから。
貧しいのに卑屈にならず一生懸命生きているから。
学校では一切こういった事情を口にして言い訳をしたりしないから。
どれも正しい。私が思った率直な浦川君のすごさを言葉にするとこんな感じだ。
けれど、本書では違うあるひとつの側面を掘り下げて語られている。
それは、「生産する側の人間だから」ということ。
社会は浦川君のような人間たちによって成り立っている。
そもそも人間はそうやっていつも生産をする人々が関わり合い成り立ってきた。動物を狩り果実を採集し、なにかを食べてなにかを着て、家を作り子供を産み、絶えずそうやって生きてきた。
学問ではそれを「生産関係」と呼ぶ。コペル君は「人間分子の関係、網目の法則」と名付けた。
はっきりと、こう述べられている。
そう、絶対に逃れられないのだ。
働けるのに働かない方々へ、諦めていますぐ働くこう←
浦川君は小学生ながら、すでに「生産する側の人間」になっている。
いじめなどというくだらないことをして胸を張っている同級生とは大きな違いだ。
もう一つ。
浦川君が学校を休んでいる間、コペル君は浦川君の家に通って休んだ分の勉強などのフォローをしてあげた。
コペル君は浦川君の姿に感銘をうけたので、素直に応援したくなったんだ。
貧乏であるということについて
先ほどの浦川君の話のつながりで、「貧乏について」も叔父さんからの手紙を通じてこう語られている。
これはこれからの日本を生きる人々みんなが心のどこかに置いておかなければならない精神だと思う。
世界の中で比べればまだまだ日本は豊かだから、とそんな意味ではなく、今よりもこれから日本全体が”貧しくなるからこそ”考えなければならないことだと。
『貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなんだ。』
最後に、こうメッセージを残している。
私は以前の「どんな年の取り方をしたい?」という記事を書いたときに、時代錯誤なことをあえて主張してみた。
「逃げてもいい」「好きなことで生きていこう」「多様性を認めよう」
声高々にそう主張される世の中で、もう一度しっかりと世の中というものを見つめてみたい。
自分たちを擁護してくれている、安心材料となっているこういった言葉は、元来”誰に向けて”言われていた言葉なんだろうか。
私たちはこの言葉の真意ではなく、上っ面だけを掬い取って、苦いところは避けて甘いところだけを食べてしまってはいないだろうか。
碇シンジ君が昔「逃げちゃダメだ」といったように、私たちにも決して逃げてはいけない場面があるのではないだろうか。
今自分は「ありがたい」状況だと自覚できている人はどれだけいるだろうか。
社会という切っても切れない網目の中を漂う分子は、その分子の役割をしっかりと全うしないと、社会という物質はきちんと成り立たなくなって崩れていってしまうだろう。
分子は分子なりに頑張って生きていかなければならない。それが人間である。と。
当たり前だけれども簡単に逃げれてしまう今の世の中に、その当たり前をぶつられた気がした。
罪悪感との向き合い方 ー”過ち”を犯してしまった時、あなたはどうする?
コペル君と友人たちはついにそのいじめっ子の同級生に一泡吹かせる出来事があった。いじめの現場を目撃したコペル君の友人であるガッチンがそのいじめっ子に「ひきょうなまねはやめろ!」と主張したのだ。コペル君たちもガッチンに加勢した。
後日、そのいじめっ子は上級生の兄をつかってガッチンに仕返しを考えた。上級生たちにガッチンを探させて殴ってもらう、という至極単純な仕返しだ。
コペル君たちは「そうなったら僕たちがガッチンの盾になろう。たとえ殴られても味方をしよう。」と言う。
そうしてその時はやってきた。上級生がガッチンを見つけ、殴ろうとしたとき浦川君ら友人たちは盾になりガッチンを守ろうとした。コペル君を除いては。
コペル君はその場になってすっかり怖気ついて隠れてしまったのだ。
そうして、目の前で友人たちがボコボコになるのをただ見ていることしかできなかったコペル君は友人たちから白い眼で見られてしまう。コペル君は学校へ行けなくなってしまった・・・
次の日も。また、次の日も。
毎日布団の中で、コペル君は思う。
「自分はこんな卑怯な人間だったんだ。」
「そのまま僕なんて死んでしまえばいいんだ。」
後悔ばかり押し寄せて、その圧力に押しつぶされている。
ある日、叔父さんがコペル君のもとを訪れた。
事情の知らない叔父さんは暢気にも「はは、さぼり癖でもついてしまったのかい」なんて声をかける。しかしコペル君はそんなテンションではなかった。たまらなくなったコペル君は神妙な面持ちで、今回の出来事を叔父さんに相談する。
コペル君はそこで大事なことを叔父さんに教わることができた。
あなたがコペル君ならこの後どうしていただろう?
はたから見れば、「なんだそんなこと、早く仲直りすればいいじゃないか」と思うかもしれないが、自分が当事者だったらそんな軽々しいことは言えるはずもない。この時の”心の重さ”に身に覚えがある人はいるんじゃあなかろうか。
コペル君は布団の中でひとり悩んでいるときは、ずっと自己保身に回っていた。「このままいなくなりたい」「消えたい」「苦しい」。
それだけでなく、「叔父さんならガッチンたちに僕が学校に戻れるように言って聞かせてくれるんじゃないか」とまで考えた。僕はここまで苦しんでいるのだからと。
そんなコペル君に叔父さんはこう言葉を贈る。
私は20歳の時に学んだことがある。
それは「過ちを犯してしまった後の行動にその人の本性が出る」ということ。
これは本当だと思う。
仕事でミスをして相手に迷惑をかけてしまった時、小さな嘘で人を傷つけてしまった時、嫌なことが重なりその場を逃げ出してしまった時。
要因は様々なことはあるが、私は、”過ち”を犯してしまったこと自体が問題なのではなく、大事なのは”過ち”を犯した後の行動だと考えている。
では具体的に大事なこととは何だろう。
私は以下の3つにまとめてみた。
『自らの”過ち”をしっかりと認める』
『まっすぐに謝る』
『すぐ行動する』
これができる人間を私はなかなか見たことがない。社会人なっても、10も20も年が上の上司も、先輩も、誰もできている姿を見たことない。
逃げるか、無視するか、なかったことにするか残念ながらそんな人ばかりだ。嫌なものには蓋をする。そんな癖がついたろくでもない連中ばかりだ。
ただ、私は密かにこれを仕事上で顧客に実践していた。
この3つができた時に、不満そうな目の前のお客さんの態度が日に日に変わって、最後には私のことをまっすぐに信頼してくれるようになることを何回も経験してきた。逆に、ほかの担当は信用していないけれど私だけを信頼して仕事を依頼してくる人も出てきた。
『自らの”過ち”をしっかりと認める』
『まっすぐに謝る』
『すぐ行動する』
この3つをもう一度見たときに、少し違和感はないだろうか?
上の2つはよく分かる。当たり前だ。
自分の”過ち”は潔く”謝る”。薄汚いプライドに泥まみれになった大人より小学生の方がしっかりできそうだ。
ただ、大人だからこそしっかりできることもある。
それが3つ目の『すぐ行動する』ことだ。
これが一番大事な「逆転」の一手である。
言ってしまえば、謝ることはかたちの上で誰でもできる。たとえ心が全くこもっていなかったとしても、まるで心がこもっているかのように謝ることはできる。
しかし、真意はそのあとの行動にこそ現れる。
現実には謝って終わり、なかったことになる、のど元過ぎればなんてことばかりだろう。
だからこそ、ここでしっかりと行動できる人間、リカバリーができる人間は本当の意味で人から支持されることができる。認められる存在になる。
(ただし断っておくが、1つのミスをいつまでもぐちぐちと言及し、自らは生産的な行動をしないくせに他人を貶めるような陰口を巻き散らかす人間も中にはいるが、そういう人間関係からは逃げるが勝ちだ考えています。他人を変えるのではなく、自分が変わる。そして、場合によっては自ら環境を変える、自ら所属する場所を変えることは必要だということも本質だと思う。自分がやるべきことはやったうえで。)
失敗した時こそ人の本性が出る。
だからこそ、”謝る”シーンこそ信用を勝ち取る”チャンス”が潜んでいる。
それをしっかりものにしたい。
そんな逆転の発想も時には大事なのではないか。
人間だけが感じる苦痛とその意味とは
先ほどは自分の考え多めで書いてしまったので、本書が伝えたいことを多めにラストに書き留めて終わりたいと思います。
人間の悲しみや苦しみには、そんな意味があるのだろうか?
”からだの痛み”には、ある部分が故障を起こしていると本人に知らせてくれる機能を持っている。そして私たちは、”痛み”を得ることによってはじめてその部分、頭だったり足だったり内臓であったりを感じることができる。
”痛み”は本来正常であった時の体がどうだったかを教えてくれるのだ。
ーでは、人間だけが感じることのできる人間らしい苦痛とはどんなことだろうか?
本書ではこう答えられている。
ここからが最も重要だ。
過ちを犯した時、なぜ、ここまで苦しまなければならないのか。
それは、あなたが正しい道を歩もうとしているからこそだと、そう教えてくれた。
P.S.
約7500字です。書きすぎです。ほぼ2日間かかっています。
はたして誰が読むのだろうか。いや、誰も読まない。反語。
パソコンで打っていた文章をiPhoneで見返した途端、長すぎて吐き気がしました。
正直言って自分はこの本に心の底からはまったわけではないし、はじめはこの本の名言的なところを抜粋するだけのものを残そうと思ったのだが、こんなに長文になるなんて。
それだけ良い本だったということにしましょう。
伏線回収といわけではありませんが、
冒頭に書いた4つの要素のうち、
『三、原作の舞台は1937年だから今から80年以上前。すっごい昔だね。
四、ナポレオンすごい』
については結局、全く触れていません。
ただ、1930年代の日本の状況(この作品の背景)とナポレオンの生きざまは知るべきだと思いました。
興味があったのでググりましたが深堀りはまだできていません。いつか読みたいと思います。
ナポレオンの生涯が分かりやすいおもしろい本を探してみます。
以前、古書店巡りをしたときは古語かとおもうくらい読めない日本語で書かれた仰々しい、むしろオブジェとしてカッコいい本しか見つかりませんでした。
やはり教養が足りないですね。
勉強、勉強
おわり
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