養老孟司
ベジータの戦闘力同様、養老先生の頭の良さはとてつもないのだろうか?そもそも近い実力を持っていないのでそのスケールがよく分かりません。
洞察力と説得力をお医者さんのソフトな語り口でどうぞ。談志師匠の噺のように気がついたら養老先生の話に引き込まれていました。
虫好き、猫好き、壁好きの解剖学者。医学者で東大の名誉教授。そういえば「養老乃瀧」って居酒屋があったネ。しらんけど…
“ちょっと考えてみれば分かりそうなもの”
宇宙の果ては現実であっても夢のような世界。そんな見たこともない世界について考えてみるのではなくて、身近にあるのに見えていなかった世界を考えてみる。そこは、「知らなかったらもったいない」を通り越して「知らないで終わっていたらと思うと怖い」と思える世界。ちょっとだけ考えた先に潜っている世界には「ハッ」とさせられる。夢じゃないリアルがある。
養老先生は言う。
「動物好き」を自認する人は本当に動物を見ているのだろうか。それはペット好きであって、正確に言えば「自分にとって都合がいい動物好き」である。「自分にとって都合のいい人」を「いい人」というのと同じこと。
「ペット好き」=「動物好き」にならない理由は、ペットを可愛がる生活をしている下の方の土の底、そこで生活していたモグラや虫たちは、ペットを可愛がる生活をするために必要な、地表をコンクリートで塗り固めたるという文明によってたくさん死んでいった。ペット好きに限らずみんなこのコンクリートで塗り固めた文明の恩恵で生きている。ただ、「動物好き」と自認する人にこのモグラや虫たちが見えているのか、ちょっとだけ考えた先の世界を見ようとしているのか。
「動物好き」の話しは一つの例、そもそも自分にとって価値がないこと、関係がないと思っていることに対して現代人は興味を持とうとしているのか。
養老先生は言う。
「現代の人は、お金にならない自然は価値がないとして消していっている。先行きの分からない子どもも同じで、子ども自体には価値がないから投資をしなくなっている」
この言葉、少子化の本質だと思う。
じゃあなぜ現代人は自然に価値がないと思うのか?
人は自身が自然であるにもかかわらず、人を人が作り出した人工物だと錯覚しているからなのではないだろうか。人工物としての人はあらゆることを理解し、計画し、コントロールできると思っている。だから、理解できない、計画できない、コントロールできない自然に価値がないと思っているとすればそれは納得できる。けれども人は自然。絶えず変化し同じところに留まることはできない。残酷にも変わることは過去の自分が死ぬことを意味する。それならこれまでの自分が全く価値のない存在になってしまうことだってあり得てしまう。だから人は変わりたくないしずっと同じ自分のままで生きていきたいと思う。でも同じ自分に価値があるのだろうか。
良くも悪くも人は変わる。もしも突然身体に重い病気が見つかり余命半年と宣告されたとしたら人生は大きく変わる。変わりたくなくても変わる。桜が咲く時期なら去年まで見ていた桜とは見え方が違ってしまう。最後の桜になるからである。その時の気持ちを健康でいた頃に想像することは出来ただろうか。また、余命宣告されたあと健康でいた頃の気持ちを正確に思い出すことは出来るだろうか。たぶん無理だと思う。残り僅かな命を受け入れたとき、これまでの自分が全く価値のない存在になってしまうことはやはりあり得ることなのだ。
悪い話だけではない。例えば泳げない子供が泳げるようになればそれまで怖がっていた水が怖いものではなくなる。世界が変わる。でもそれは世界が変わったのではなくて、変わったのは自分の方。悟空やクリリンが修行によって強くなっていく「ドラゴンボール」を養老先生は推薦していた。
養老先生は言う。
本来学ぶということは変化することであってそれが成長するということなんです
〈オマケ〉
養老先生が京都での仕事終わりにホロ酔いで歩いていると向こう側から歩いてきた人とぶつかった。見ると大柄な女性だった。もともとオカマは話が面白いとオカマと話すのが好きな養老先生は話し相手がほしくて、
「あんた男だろ」
と、声をかけた。すると、
「あたしは女よ!」
と、不満げに大柄の女性は立ち去ったという。
後日養老先生は学生に向かって、
「京都は気をつけろ、男だと思ったら女だったってことがあるから」
と、説いたという。
「逆の話しはよく聞くのにな」
と、漏らしていたとも…
解剖学者であっても外見で性別を判断するのは難しいらしい。それが知の巨人養老孟司である。