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推しを振り返ってみた件
10代はアニメや漫画のキャラにハマった。
『人を知る』わびさびを知らず、一貫して清らかなキャラクターに憧れを感じた。
人が織りなす機微が、大人の矛盾に感じたのだろう。難しいことが起こらず、起きてもキャラの持ち前の清らかさで必ず解決する、安堵感。自分の小さな世界では、あれぐらいが理解できる範囲で良かったのだろう。
これはこれでいい。
20代になり、社会の荒波を知り心のオアシスが人になった。俳優や歌手のキラキラした部分への憧れは、自分への冷めた眼差しの裏返し。流行りのものを買い、自分を着飾る。推しとの世界に入り込めるグッズを揃える。
自分を認めて欲しくて、人恋しくて、『寂しさ』がそうさせたのか。けれど今となれば、何かに意識を注ぐ熱意がうらやましい。
そして、いま30代後半。前半は結婚と出産➕育児に時間を使った。合間に昔の自分と推したものを愛でる。昔ほどの熱意がないことにも気づくのだ。
けれどいま、私にはnoteがある。出会っていなくても私は苦しんではいないだろう。変わらない日があるし、別の何かに出会っていたかもしれない。
ただ、自分自身の織りなす機微を気にかけることができて、幸せを感じる。表現したい欲望にも驚く。自分にも、読んでくれた人にも心の動きがあるといいと思う。
だからこそ、役を演じる俳優ではなく、その人を垣間見せるレポーターが気になる。このレポーターが取材した映像が流れると笑顔になる。このセリフをこの雰囲気で伝える人は、どんな経験をしてきたのだろう、と。
失礼ながら、若さや見た目の可愛らしさだけを売っているわけではない、私の推し。
ー本当に失礼な書き方ですみませんー
いろんな推しがあった。いまの私の推しは、地元のレポーター。地元が好きで、この仕事が好きで、取材先やテーマに向き合う姿勢がいい。お茶目さがその人を輝かせる。
清らかで理想的な推しもいい。
人が織りなす機微が大人の深みを感じさせる推しもいい。
私もそんな人になりたいんだと、推しを見ながらぼんやり思う。