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菅沼定盈と菅沼定邦「松山越えの記」1

長篠の戦いの前哨戦ともいえる鳶ヶ巣山の襲撃。酒井忠次が地元の兵を道案内にして夜中に行軍し、敵の砦を襲撃したのは地元ではあまりにも有名です。通称「松山越え」といわれるルートを、今も武士(有志)たちが果敢に攻略しています。

さて、江戸時代に、新城のお殿様(菅沼定邦)が、先祖である菅沼定盈が越えた松山ルートを歩きたいと言い出して、夜明け前に城を出て、一日かけて歩いた記録があります。
松山越の記
我が君の遠つミおや定盈の君の御いさをなりし三河国八名郡吉川村松山越より鳶が巣山に出給ひて、長篠の古城の跡をも御覧せんとて文政二ノ年弥生九日の日、つとめて徒歩より出立せ給う博親も御供つかまつる・・・・

このような書き出しで池田博親という定邦の家臣が書いた随筆です。
現代文にします。
定邦様が菅沼家のご先祖定盈公の戦功の地、三河国八名群吉川村松山から鳶が巣山迄行き長篠の古城までも御覧になる、と言って1819年3月9日に早朝から歩いてお出かけになりました。私寛親もお供しました。ここは天正の頃長篠の城を奥平九八郎様が守備を命じられたが、甲斐の国武田が幾重となく取り巻いてすでに落城寸前のところを、九八郎様の雑兵で鳥居強右衛門勝商という者が、水中を潜り鳥原山を越えのろしを上げ無事に包囲を脱出したことを知らせ、美濃の国信長公に申し上げたところ、家康公へ信長様より仰せつけられた酒井忠次君が、わが菅沼家のご先祖新八郎定盈君と供に7人の大将に指示し、ひそかに松山越えをして武田信寛の陣取る鳶が巣山に夜襲をせよとの命令を受けられ、吉川村の豊田藤助に案内させ1575年5月20日夜中に広瀬という川を渡り、吉川村から松山の難所を越えて夜明け前に鳶が巣の小屋に火をかけて武田勢を追い討ちさせた末世までも残る戦功の地成であります。
今日は、空も終日晴れ渡っており井道の野辺に出たが夜中の霜で道路が凍てつき非常に寒くて仕方がありません。

下べもの草のはつかに霜ハまだふるそまし里ののべのす々けさ

朝日かけ山のそなたにほのめてき々す鳴也野辺の遠かた

という感じで、和歌を添えながらの随筆になっています。

この随筆の作者「池田寛親」は菅沼定邦が菅沼家に養子になった時からの側近で、教養もあり和歌にも通じ筆まめで他にもいろいろな随筆を残しているようです。

定邦一行は、早朝城を出て、豊川をわたり吉川まで行きます。
そこで、まずは豊川を渡るのに渡し守を呼んだが、朝寝坊して出てこないので川べりで船を待ったというのです。七千石ほどのお殿様ではこの程度のことで領民を処罰などできないようです。

今は水量が少ない

さて、川を渡ったお殿様ご一行は歩いて吉川村まで来ました。そこで案内役の豊田藤助の家で一休みしました。現在公民館がある辺りです。この時浅八時頃だったようです。
これから、いよいよ松山越えとなります。

菅沼のお殿様の気持ちになり、歩いてみました。

ここから山に差し掛かる

※豊田藤助は地元では、鳶が巣山襲撃の道案内役として有名です
※菅沼定邦は、陸奥国中村藩相馬祥胤の四男、18歳の時菅沼家の養子となり新城に来たお殿様。能楽が好きで自ら仕手として小鼓を鳴らし、絵もうまかったようです。
鳶が巣山襲撃の時は豊田藤助と共に酒井忠次のもとで活躍したのですね。
※定邦の時代は、徳川将軍でいうと11代家斉の時代で、戦の無い平和な時代。


参考文献:池田主鈴寛親 斎藤彦徳