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菅沼定盈と菅沼定邦「松山越えの記」2

1819年3月9日、新城城のお殿様「菅沼定邦」は家来を連れて松山越えをしました。早朝城を出て豊川を渡り吉川村まで歩き、いよいよ山登りです。

家来の池田寛親はお供しながら歌を詠みました。左手に八幡神社を見ながら歩き始めて十丁(1000Ⅿ)ほど歩き左に曲がり山道に差し掛かると古い松があったと書かれています。
弦はげし真弓の音に引かれへて聞ものとはし松の春風

今では松もどこにあるかわからない


松山五郎が弓を張った松だというが、この人物の詳細は分からないようです。一行はさらに山道を登り松山の観音につきました。
原文(池田寛親)
ふもとより八丁登ると松山の観音につきました、寺は天台宗で、松秀山千手院という。この観音堂はその昔我が菅沼の御家が建て給ったとか。入り口に定易様が植え給うた桜の老木ありましたが、今は枯れて枝は無し、堂の肩端に立っていた糸桜は後世の世に植えたものと見え花が咲きだしていました。
百年を古木は枯れて糸桜くりかえしつつ昔をそ思う

ここで少し休みいよいよ松山越え、約900メートル程の細い道で谷は深い、非常に急こう配で岩角を踏みながら登ります。谷の底に鶯が鳴くのを聞いて
岩ね踏み我が高きにうつるなる麓の谷に鶯の声

ここは鳶が巣山夜襲の時には木の根に縄を結び付けてそれに取り付き一人ずつ通られた所と思われます。昼間であり軽装で来たがそれでも大変です。先人のことを思うと大変もったいないことです

命にもかへし昔のあとをケフ咲く花見つつ越えるかしこさ

かろうじて山の頂に着きここでしばし休みました。

四方の眺めは言葉に尽くせないほどで、向こうに鳳来寺山が見え振り返って見れば田原あたりの海釣り人が間近に見えます。その後ろの小島は日間賀島ですと、鈴木重隆が言うのを聞いて
うちかすむ霞のひまの日間賀島見る目そ閑かき春の海つら
波立てる松の梢を行く舟のほのかに見ゆる浦の入海
松の梢越しにみる三河湾の帆かけ舟は絵にかいたほどです

これより右に曲がり、谷に下り、又上り又下る道はまだ苦しい
峰をよち谷をつたひて今に知るいさをしかりし君が昔を

やがて菅沼山という所に出ました。
「ここで全員具足をつけよ」という定盈様の命令で全員甲冑を装着したところだと伝えられています。

さらにここから800メートルほど行くと椎山に着きました。ここで人数をそろえたといいます
武田方名和無理之介重行、飯尾弥四右衛門助友、五味惣兵衛貞氏が守備した中山砦や久間砦もこの辺りとか、ここを下って八丁ほどいけば鳶が巣山にいたる。

2はここまで
※池田寛親の随筆に従って山を歩きました。菅沼という標柱の少し手前に陣所という所がありました。
地元のKさん(通称鳶が巣山の狸)というこの地に大変詳しいお友達が説明しながら歩いてくれたので菅沼のお殿様がたどった道、菅沼定盈が越えた道を限りなく再現できていると思いました。

3に続きます。