2024年上半期の読書記録とほんの少しのメモ
1月
原尞『そして夜は甦る』(ハヤカワ文庫)
古川日出男『女たち三百人の裏切りの書』(新潮文庫)@往来堂書店
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フライデー・ブラック』(押野素子訳、駒草出版)@Amazon
年始は義父のお見舞いで久留米市へ行った。
義父は、3年ほど前にがんで余命宣告を受けた。それ以来、在宅で最低限の治療を受けることを選択していた。前に会ったときよりも痩せていて、ベッドから起き上がるのは、もう、とても辛そうだった。
義父は1950年生まれで、国立大学の経済学部を卒業し、都市銀行で定年まで勤めたと聞く。初めて会った頃に、「東大入試が行われなかった年ですね」と言ったら、「浪人したから関係なか」と言っていたことを憶えている。
わたしの父は、1951年生まれ。高卒で地方公務員になり、やはり定年まで働いて4年前に亡くなった。父は働きながら夜間大学を卒業したという。「たくさん勉強して立派な大人になっておくれ」と、よく言っていたことを憶えいる。当時は適当に聞き流していたけれど、いま思うと、公務員なんてやっていたら、きっと、学歴のことで嫌な思いもしたのだろうなと思う。
わたしの父たちは、ともに故郷を離れ、東京近郊に暮らし、家族を作った。二人はもちろん全然似ていないのだけれど、どこか似ているような気もすることもあったのは、そのせいかもしれない。
昭和とか戦後とか言われる時代に、彼らと似たようなライフコースを歩んだ人たちはきっとたくさんいる。そして、その人生の一つ一つに、喜びも悲しみも怒りもあったことだろう。
行きつけの定食屋のメニューとか、思い出の場所とか、買い集めたモノとか、最期まで捨てなかった本とか。そんな記憶と一緒に、彼らは退場していく。
彼らの生きた時代が遠くなり、いつの間にか時代は変わる。
もちろん、わたしもまた、いつか遠くに消えていくのだろう。
義父との短い会話。
「人生は楽しむためにあるのだから、思いっきり楽しんだらいい」
古川日出男の『女たち三百人の裏切りの書』は11月の新刊文庫。今年の大河ドラマにかこつけた帯がついていたが、その内容はU・エーコを彷彿とさせる偽史物で、おもしろく読んだ。
もし歴史がフィクションの一つにすぎないのだとしたら、『源氏物語』も歴史というフィクションのなかの「劇中劇」なのかもしれない。
『フライデー・ブラック』は、西中賢治さんが2023年に読んだ小説のなかで、ベストだと言っていたので、気になって読んだ。老いた父親と病院に行く話が強く残った。
2月
坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(講談社文芸文庫)
高橋源一郎『DJヒロヒト』(新潮社)@三省堂有楽町店
高橋源一郎の『DJヒロヒト』がまもなく発売されると聞いて、その予習として読んだのが『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』。
描いている時代は、明治と昭和で異なるけれど、わたしのなかではこの2作はどこかで繋がっているように思える。
『DJヒロヒト』は発売日に買って読んだ。
その日は、銀座で会食があって、「御社」とか「弊社」とか、そんな言葉を使った会話ですっかり疲弊した後で、閉店間際の三省堂書店に滑り込んだのだった。
ポストモダン小説の書き手とか言われてきた作家の、これが、おそらく最晩年の作品になるのだろう。1951年生まれの彼もまた、わたしの父たちと同じ時代を生きてきたひとりだ。
この小説は、父たちの時代の私小説だと思った。
昭和という時代の私小説。タイトルのとおり、その語り手は、神から人間になり、国の象徴となり、そして、その死後には時代と同じ名前で呼ばれることになった人物だ。
本作は何部作にも及ぶ長い小説の序章だそうだ。いずれ、その語りに仮託して、著者自身についても語られるような気がしてならない。
語り手は「DJ」ということになっている。
ラジオDJが視聴者からの便りを読むように、その声は複数の主体を持っている。そして、トークに合わせて曲が選ばれるように、たくさんの小説や映画が気まぐれに選ばれて、流される。
たくさんの作家たちが、時間も空間も、史実もフィクションも超えて自由に動き出す。小説の自由さを謳歌するかのように。
例えば、ゴダールの『映画史』に付けられた注釈のように、この小説のなかに散りばめられた引用やパロディやパスティーシュをひとつひとつ挙げ連ねることもできるのかもしれない。
でも、この小説でそうすることに意味があるとしたら、ある時代の、ひとりの作家が「通ってきたもの」を知るくらいのことに過ぎないだろう。
中島敦と古山高麗雄を読んでみたくなった。
3月
中島敦『南洋通信』(中公文庫)
原尞『私が殺した少女』(ハヤカワ文庫)
サラ・ロイ『ホロコーストからガザへ パレスチナの政治経済学』(岡真理+小田切拓+早尾貴紀編訳、青土社)@ジュンク堂池袋本店
3月末に義父が亡くなった。
1月も、3月も、九州への往復では原尞を読んでいた。昨年亡くなった作家で、ひとつのシリーズだけで6冊分の小説を残している。その小説群は、全てハードボイルドというジャンルで括られる。
かつて、何かを見つけるために、探偵が東京を彷徨うことができる時代があった。原尞の一連の作品は、そんな時代の記録のようにも読める。
今ならスマホを片手にLOOPに乗り回す探偵が、「電子タバコのみ喫煙可能」なバーでIQOSを吸うのだろうか。
『ホロ・コーストからガザへ』は3月に復刊された新刊書。長らく版元品切れとなっており古書価も高騰していたが、このタイミングで新装版として復刊された。
4月
エドワード・W・サイード『パレスチナ問題』(杉田英明訳、みすず書房) 再読
ダニエル・J・ブーアスティン『幻影の時代 マスコミが製造する事実』(星野郁美・後藤和彦訳、東京創元社) 再読
辺見庸『抵抗論』(講談社文庫) 再読
辺見庸『国家、人間あるいは狂気についてのノート』(毎日新聞社) 再読
谷中霊園で桜を見る。
西中賢治さんに再び声をかけていただいて、『アラザル』のための原稿を書いた。4月は、その原稿を書くための資料しか読まなかった。すべて、かつて読んだ本の再読だった。
10代から20代前半の多感な時期に読んだ本を再読したときにだけ呼び覚まされる独特な感覚があるような気がする。
「わたしって10代の頃から何も変わってないんだよなぁ」なんて思っていたりするけど、実はそうでもないことが分かる。
たとえば、本の余白に書かれたメモや傍線を見て、「なんでこんなところに棒線引いていたのだろう?」とか思う。ピンとくるポイントが変わっているわけだ。
でも、そのまま読み進めると、「そういうわけで、あそこに線を引いたのか」と分かったりする。
自分自身のことなので、「分かって」しまう感じ。
それは懐かしさとも違うし、恥ずかしさとも違う。独特な感覚だ。
今回の『アラザル 16』には「経済」という特集テーマが付くことになっていた。
「経済」と聞いて、最初は武田泰淳について書こうと思った。日本における「企業小説」というジャンルの始まりとも言われている『士魂商才』について、いくつか気になっていたことがあったからだ。でも、それはいま書くにはとても些細なことに思えた。
次に、バルザックとゴーゴリについて書こうと思った。ウクライナの小麦の取引で財を成したゴリオ爺さんと、死亡した農奴の名義を買い集めるチチコフ(『死せる魂』)の物語が、とても近い時期に書かれたことが気になっていた。でも、それを書くには準備も含めた時間があまりにも足りなかった。
それで、結局、とても個人的な思い出のようなものを書いた。
約20年前、わたしはまだ学生で、辺見庸という作家の通年講義を受けていた。そして、今年3月のある日に、あることがきっかけで、当時のノートを見返すことになった。そのノートもまた、懐かしさとも恥ずかしさとも違う何かで溢れていた。
思い出は常に個人的なのだけど、とにかく「個人的」であることにこだわって書いた。今回もタイトルを付けるのに困ったので、Googleで「経済」と調べて出てきた用語解説をそのまま使用することにした。
4月30日、ポール・オースターが亡くなる。
4月2日にはジョン・バースが亡くなっていたことを知る。
5月
A・アインシュタイン、S・フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』(浅見昇吾訳、講談社学術文庫)
金井美恵子『カストロの尻』(中公文庫)@紀伊國屋書店新宿本店
金井美恵子『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(中公文庫)@紀伊國屋書店大手町ビル店
GWは鹿嶋でサッカーを観た。
湘南は惨敗したけど、初めて訪れたスタジアムは最高に素敵だった。
映画『オッペンハイマー』を観て、読みたくなったのが『ひとはなぜ戦争をするのか』だった。
映画では、アインシュタインが映画の冒頭と最後に登場する。そして、映画の「オチ」の役割を果たしている。
一方、フロイトは映画にキャラクターとして登場こそしないものの、彼に言及するセリフは映画のなかに何度か出てくる。
この本は、1932年に国際連盟の「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」という依頼にアインシュタインが応えた書簡である。アインシュタインが選んだ相手はフロイトで、テーマは「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか」だった。
フロイトからの返信を興味深く読んだ。
映画はこれを踏まえて作られたのではないかと思えるほどだった。
『カストロの尻』は2月の、『ピース・オブ・ケーキと〜』は3月の新刊文庫。それぞれ発売のタイミングで買ったまま、置いてあったものを一気に読んだ。