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頭の理解、おへその納得 

頭ではわかっているんだけどなぁ、の時期が長かった。今でも周りにちらほらいる。悩んでいる友達の話を聞くと「そりゃそうだよ〜」って気持ちになる。理屈と心は別だもの。

9割くらいはね、もうどっちの方向に進んだらいいか頭で考えてたどり着いているのに、あと1割のおなかが理解してくれなくて困る。理解というか、おなかの納得。たった1割なはずなのに、密度と濃度が濃い。水道の蛇口みたく、水道管は完成していてもそれがないと水が流れないくらい重要度が高い。蛇口さえ設置できれば、あとはひねるといくらでも水は流れるのに、蛇口が見つかるのを拒んでいる。

だから「頭で9割はわかっているんだけど」と感じたり聞くたび、あぁ、私達はいま実行したい何かから実は思ったよりずいぶん遠いところにいるのかもなぁと思うようにしている。最後のピースの蛇口の重要性を痛いほどわかっている。それこそおなかで。

損得勘定だけで動ける人は大丈夫だ。ゴルディアスの結び目を手でほどかずに剣で一刀両断したアレクサンダー大王のように、お腹の納得はさておき頭の理解を無理矢理実行に移せる人は大丈夫。蛇口という「おなかの納得」を見つけ出さなくても、水道管を破裂させたら水が流れる。そういう人はそれでいい。

けれど、私のように頭ではわかっていても出来ない人は、お腹の理解/納得感が何より重要なのだよね。比率としては1割だけど、それだけで残りの9割を凌駕するくらいの重みがある。

ということはそもそも、頭でこねくり回して導き出した答えって、あまり意味がないのかもしれないぞ、とある日思ったのです。理屈の上では正解だけど、この理屈は永遠に実体化しないのかもしれない。

「この人と離れないと不幸になる」「会社に退職届を出すのが怖い」みたいな、頭では理解していておなかも納得したいと願っているケースは別だ、もちろん。勇気を振り絞ったり、苦しくても宣言したり、無理なら誰かの力を借りて「よし」と思う方法に突き進む強さは必要だと思う。

でもそういう、明らかに進んだほうがいい道がない場合は、理屈じゃなくおなかがどうしたいかを訊ねるのが大事なのかもなぁと思ったのです。おなかがグッときたりうれしくなったりする方向は、頭の理解なんかよりもっとずっと大きくてやわらかくて強い。

ーー人にはそれぞれ異なる資質や正解があって、私は頭の理解よりおへその理解が本当に、本当に大切なタイプなのだと気が付いた。道標は頭ではなくおなかにあった。

私は私の心を欺けない。頭だけの正解を採用すると、しっかり部品が摩耗し壊れてしまう。

合理性から離れた納得感を選ぶのは、遠回りに見えて実は「ほどよく無理して自分らしく楽しく過ごす」に近いのかも。なにより、お腹でわかった道のほうがふわふわする。

ここ10年は頭で考えすぎていたから練習は必要だけど、少しずつ、お腹の理解を大切にできるようになってきた。納得感を大事にした結果、理屈で導き出した答えと同じってこともあるだろうし。

おへその穴の蛇口を回し、ぐんぐん水を巡らそうと思う。自分がどうしたいかはおなかが全部知っている。随分久しぶりに使うから最初は水の通りが悪いかもしれないけど、徐々に開通させていこう。おなかの蛇口を全開にして、うれしいほうに進むのだ。

るるるらららと生きていくのだ。

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