発信する怖さ
noteを始めたとき、発信する勇気って言葉をたくさん見た。
私はnote以外のSNSから距離を置いていたい。
長年なんのアカウントも持っていない。
まずは、SNS上でのリアルの付き合いが面倒だからだ。
アカウントを持っていないのに、友達があげた写真に私が写るだけで、他の友達に妬きもちやかれたり、なかなか面倒だ。
私、意外と人気者だからね。
写真すらもうっかり写りたくなくなった。
noteもなんだかんだ色々と考えて始めた。
ただ、自分のために自分勝手に発信したいだけの人だから、勝手にいろんなリールとかもいらないんだ。
でも、自分と向き合おうとか、少しの人にでも知ってもらおうとか、そんなことを考えて書いているけど、自分の家族の愚痴に家庭環境の悪口やら、様々な被害者っぷりを書いておいて、それを世界発信している。
それは他のSNSとはなんら変わらない。
なんか、それって無責任なのかな?とか、結局自分が攻撃されるのは嫌だから、そうならなそうな空間で書き散らすだけにしたいって思うのは虫が良すぎるのか?とか。
今までの記事だって、誰かを追い詰めたり、傷つけたりしているかもしれない。
それはとても怖い。
デジタルタトゥー、その怖さだってある。
一度公開したら、一生ものなのだ。
やっぱり根は臆病だから、勇気と責任、怖さに苛まれる。
毎日投稿することを続けてきた。
これは私にとってはとても有意義だ。
ただ、やっぱり、ちゃんと怖くなる。
でも、それでいいんだと思う。
ちゃんと怖さを忘れずに続けていきたい。
誰も傷つけないなんてことはきっとできない。
でも、怖さを持つことも発信する責任として大切なんだと思っていたい。