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ある「本好き」の「呟き」

あくまでもこれは
最近の「読書離れ」に対する
私の個人的な見解です。
ご了承いただくようお願いします。


最近、よく見かけることがあるのが
私も好んでで読む
「私の読書論」です。

「読書とはこういうふうである」
「読書のここが心地よい」
などなど
読書が好きな人なら
感じることのある、よくあるの内容が書いてありそれはそれで私も面白いです。

私も以前、読書の関連する
noteを書きました。

しかし、それは
「今の読書の世界に疑問を持つ」
という内容です。

いわゆる「読書論」は
本好きの人から見たら
とても納得できる内容だし
自分のフィーリングにも合うので
読みやすい話題です。

「読書論」などについて
インターネットなどでの
コミュニケーションはあくまで「本が好き」
なことが前提になっていると感じます。


私は、以前から
社会から「読書」する場所が
だんだん少なくなっているような
気がしてたまりません。

「商品」としての本は
たいてい購入する時は
音楽が流れている書店か
家でネットでくつろいでいる時に
指でやるタップするぐらいです。

現実には書店は全国的に減ってますし
公営の図書館では持ち込み禁止の施設もあります。

いわゆる読書の聖地であるカフェも
大型チェーン店が軒を連ね
地方ならいつも人が満杯な状態です。

だんだんこの社会から
安心して「読書」を
できる空間が減ってきていると
私は感じています。


そこでインターネットや新聞、雑誌などでの
「読書論」です

これらから
私が感じることは
この社会で
「読書をすること自体が閉鎖的になっている」
ということだ、と思うのです。


これではなんだか
本を読むこと自体が
「かくれ読書」のような雰囲気に
私は感じてしまいます。

それでは
本を読む機会のない人たちの
読書離れが進むのも
なんとなく納得できます。

そして「読書」する人は
そこに安住しているようです。


言わずもがな
「読書」はあくまで個人的なものです。

しかし、「読書」で得られる「精神世界」は
人類共通のものだと考えます。

哲学者のデカルトも
その著書「方法序説」で
「良識(中庸な考え方)はこの世界でもっともみんなに公平に与えられているもの」
(koh訳)
と述べています。

ここで言いたいことは
デカルトのいう「良識」とは「読書の世界」に似ているということです。

「読書の世界」はこの世界で
「万人に与えられているもの」
とデカルトは言いたかったのだと思うのです。


「読書ばなれ」
という言葉が
最近、よく耳にに入ります。

「読書」が安心してできる場所が
なくなってきているようです。
「読書」好きの人も
そんな時代に安住しています。

これでは
「読書」という行為が
社会の人たちから
はなれてしまうことは
当然のような気がします。

「本を読む」という行為は
人類にとって
「産業革命」や「コンピューターの発明」などと同じくらいすごい発明だと考えます。
それが証拠に1000年以上経っても
その文化は滅びていません。


今、日本社会全体が「斜陽」のような雰囲気になっています。

それにともない、「読書」の習慣も
確実に少なくなっています。

「知識を得る喜び」
「理解できる楽しさ」
それらは「本を読むこと」で
得られるものです。

そんな「読書」の素晴らしさを
「読書」で発見するおどろきを
取り戻せないでしょうか?

それには「読書」の楽しみを
本を読む人が、
もっといろんな人に
オープンに伝えていってほしいと
思うのです。

「絵本の読み聞かせ」や「読書会」は
とても素敵なイベントだと思います。

なぜなら「本を読むこと」は生まれながらにして習得できるものではないからです。

それにより
「良識」や「読書の世界」は
人々に平等に与えられるようにと
思えるから、また願うからです…。

最後まで読んで頂き
ありがとうございます。

おわり


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