小説「なめとこ村の熊」の視点
宮沢賢治の「なめとこ村の熊」を
読みました。
最近、明治から大正、昭和に書かれた
小説を読むことが好きです。
読むと絵本を読むような感覚で
安心感を感じます。
「なめとこ村の熊」は
なめとこに住む野生のクマたちと
そのクマたちの命を
生きるための生業(なりわい;生きるための仕事)にしている
「小十郎」という人物のお話です。
ここで「熊」たちは
「小十郎」が好きです。
「小十郎」の存在を認め肯定しています。
「小十郎」もまた「熊」たちを
尊敬しています。
小十郎と熊の会話が切なく感じます。
小十郎だって
好きで熊(生き物)を
生殺与奪しているわけではありませんでした。
人間は悲しいかな・・・
他の生き物の命をいただいて
生きていかなくてはなりません。
どんなに綺麗事を言っても
それが「現実」です。
それを宮沢賢治は
優しい口調で諭すように
物語へと誘(イザナ)ってくれるのです。
賢治の「なめとこ村の熊」も
「注文の多い料理店」という作品も
全て「人のエゴというもの」に
切り込んだ内容の作品です。
さて、
「なめとこ村の熊」に
話を戻しますが
最終的に「小十郎」は
好かれている「熊たち」に
やられています。
まるで、それが自然世界の
定法のようにです。
人間は文明といっては
未開の地に自分たちの生きる
領域を開拓してゆきました。
その地に元から住んでいる
住人を駆逐してまで
生きる領域を広げてきました。
賢治は「そんな人間のエゴ」を
作品に優しい表現で嗜めるように
書いてきました。
自分もきっと
色んな人や生き物に
迷惑をかけて生きてきたと思います。
自分で気づいていないだけだと思います。
人間は色んな文明や生活の道具
自然の成り立ちなど発見してきました。
そのために
人は地球の霊長類として
地球での生きる権利を獲得したのです。
もっと切り込めば
人として生きることは
「つらい」こと「生きずらさ」もありますが
他の動物だって決して楽をして生きているわけでは
ありません。
私だって
今このように自分のことを
インターネットで書いていますが
いつかはその代償を払う日が来るかもしれない。
それは誰にもわかりません。
まるで、クマにやられた小十郎のように・・・
だからこそ
人間は一度きりの人生です!
出会う人は皆「一期一会」の存在です!
一生懸命に生きてゆかなければ
ならないと思いました。
いつもは
少しだけ内容を
考えてからnoteに書くのです。
宮沢賢治もそうだかはわかりませんが
なんとなく自分の今感じている
気持ちを正直に書いてみようと
試みてみました。
最後まで
まとまらないnoteを読んでいただき
ありがとうございます。
皆様の今日が素敵な1日に
なりますように・・・
おわり