エッセイ、自分責めについて
自分で自分を責めてしまう。
または、自分を自分で貶してしまう。
このようなことは
これからは
私も含めて
なるべくやめませんか?
そのように
自分を自らおとし入れても
誰も救われません。
誰だって時に人は自分のことを
「私ってどんな存在なんだろ〜?」
と考えてしまう時はあります。
それは、私にもあります。
多分、その質問には
答えはないのではないでしょう。
人は現状に流される生き物かもしれません。
それでも
「希望」を捨ててはいけません。
「理想」を汚してはいけません。
それは、無理をすることで相容れないことのはずです。
第二次世界大戦時
ナチスに収容された医師
ヴィクトリー・エミール・フランクルは
どのような過酷な辛い環境でも
「人間としての態度」(これを態度価値と言います)
を失うことなく無事生還しました。
それには運も絡んでいたのも
あるかもしれません。
「態度価値」は
どのような環境でも
人間らしい態度を貫き通す価値です。
それは、人間であるゆえの
一つの生きる価値(自由)なのだと思います。
「論語」でもこう言っています。
「1000人を束ねる将軍のを
やっつけるのは簡単だが
例え「匹夫」(普通の人)でも
その人の志を奪うのは
それ以上に難しい。」と
このような言葉を残しています。
概して
私も含め
自己肯定感の少ない傾向にある時に
「勇気」も足りなくなっていると思います。
今の心理学では
人間の「集中力」には
限度があることがわかってきたそうです。
ですから「無理」いけません。
それならどうすればいいか?
それには二つ
方法を考えています。
一つは
1日1歩ではなく
「半歩」でも前に進む努力を怠らないこと。
(例えそれが無駄であっても)
もう一つは
「耐えて待つこと」です。
「待てば海路の日和あり」
(待っていれば、船出できる日も
やがてやってくる)
という意味です。
それでも苦しい場合は
私は「人に助けを求めたり」
「その場から」逃げたりも
できます。
それは、自分を守ることです。
最後に
「老子」から
「天均の思想」を
お伝えしたいと思います。
老子は
この世の諸々の出来事は
全て上手に天が釣り合いをとっていると考えています。
そういう意味で
人は天から見たらみんな釣り合っている。
苦しみもみんな同じとまでは言いませんが・・・
天から見たら釣り合っているというのです。
人生、山あれば谷ありです。
苦しみのために
視野が狭くなってしまっては
せっかくの自分の楽しみや
周囲の助けが見えなくなってしまいます。
私は、noteを時々「おやすみ」させていただきました。
それは、今だからいうと
自分のどこかで
自分でもコントロールできない
ドグマ(悪の業)のようなものを
自分の心の中に察していたからかもしれません。
私は誰の心の中でも
「心のコンパス」があると信じています。
それに従って生きてゆくのが
平凡な心の平安に包まれる気がするのです。
生意気な意見になり
大変失礼な文章になりましたが
どうか「自分を自分で責めないでください」
自分を大切にして
生きて、生活してゆきたいと
私自身も願っています。
最後まで
読んでいただき
ありがとうございます。
では また
おわり