Latter2 「亡霊を追って」

前話 Latter1「行方不明者」

もうそろそろ、1時間目の始まるころかな。朝ごはんも食べなかった。体内時計は狂ってた。
ソウシは、トヨマルの墓を掘りながら、初めてこいつを拾った日のことを思い出した。その日、この木の下に、この野良猫は、ちょこんと座った。ソウシは、自分と同じ黒い目をした猫と、しばし向き合った。あくびをするように、にゃあと小さく鳴くと、ソウシは、目を合わせたまま、静かに縁側に座った。
茹だるような暑さの続く九月で、安いガラスの風鈴は、かちん、かちん、と、硬質な音を立てる。洗濯物を入れたかごを抱えて、母さんが来る。
「ねえ、母さん。あそこにいる猫さ」
母さんは、かごを縁側に置いて、こっちを見たようだった。
「飼ってもいい?」
そうして、家にあったツナ缶を皿に移して、野良猫にやった。溢れた油に、ソウシの指がベタついた。猫は、何も言わずに食った。ソウシが、ベタついた指を舐めて、紺色の半ズボンでポンポンと乾かすと、猫の顎を撫でてやった。猫は、気持ちよさそうに上を向き、目をつむった。その様子が、可愛いもんだから、心がいくらか浮き立った。
小学三年生の、ときだった。


猫は、朝夕二回、餌を食べに、うちへとやって来るようになった。ツナ缶は、あんまり食べさせすぎてはいけないらしいと、図書室の本で読んだ。でも、猫は、ソウシの出すツナ缶が好きなように見えた。普通のキャットフードの入った皿と、ツナ缶の入った皿を出してやった。決まってツナ缶の方を先に食べた。そして、キャットフードも食べた。
「食いしん坊だね」
母さんが言った。
やってくるのは、決まってあの木の下だった。同じ場所に座るものだから、そこだけ、雑草も生えず、湿った色の土となった。
「名前は付けたの?」
数週間経った。いつもの木の下、猫じゃらしで野良猫をじゃらしていると、母さんに聞かれた。名前は付けていなかった。庭で洗濯物を干す母さんを見て、猫の方に目を戻し、一瞬、ピタリと動きを止めて、ソウシは、野良猫とじっと目を合わせてみた。猫の目は、初めて出会ったときよりも、ソウシの目とは似なくなった。同じように、ソウシの目もまた、その野良猫のように光のさした黒い目をするようになった。自分の目が、かつての自分に似なくなった。
だからか。とっさに、ただ、自然と、ソウシはこう答えた。
「トヨマルっていうの」
ピタリと止めた動きから、また、猫じゃらしを振りはじめる。初めて出会ったあの日から、ソウシの中では、「トヨマル」だった。今の今まで、ずっとそう呼んでいた。ソウシは、初めて、それを音にしただけのように思った。
タイミングよく、にゃあ、と猫が鳴く。それを見て、ソウシが笑うと、トヨマルもまた、笑った。
「ふーん」
母さんは、名前にはさほど、興味がなさそうに反応をした。
「じゃあ、キャットフードの方はいいとして、トヨちゃん用のツナ缶には、トヨちゃんって書いておかなきゃね」
そして、さっそく親しげにそう呼んだのだった。


ソウシが中学に入学した頃から、見るからに、トヨマルは日に日に弱っていった。猫の目は、再び黒く、深く、ソウシを見つめるようになった。ソウシは、出来うる限り、楽しげな視線を、トヨマルに返してやった。すると、トヨマルもまた、少し元気な表情をした気がした。それが可愛くて、いくらか心が軽くなった。
ご飯のときだけ庭へとやってきたトヨマルは、いつからか、あの木の下で眠り、ずっとあの木の下で過ごすようになった。もう、どこかへ散歩に出かける気力もないんだろう。ソウシは、建て付けの悪い、水色のワイヤーの張った網戸を通して、その様子を見た。出て、縁側に座って、その様子を見た。一年中、吊りっぱなしの風鈴が、また、かちん、かちん、と、安っぽい音を鳴らしている。立って、近づいて、いつかのように猫の顎を撫でた。猫が、疲れたように鳴いたのに、危うく、泣きそうになってしまった。
もうすでに、いつかのような表情をしないトヨマルに、やっぱりソウシは、出来うる限り楽しい目を投げかけた。自分だけは、トヨマルと出会ってから得た何かを失わないよう、失わないよう、じっと猫を眺めた。その気持ちをトヨマルはよく知っていたのだろうと、信じるには十分だった。再び、いつかのように、気持ちよさそうに、上を見て、目をつむってくれた。
水曜日の朝、ソウシがツナ缶をやろうと木の下へ行くと、トヨマルは、昨夜眠った、その姿のまま死んでいた。呼吸は止まり、ただ、まだ、温かかった。トヨマルの好きだったツナ缶の入った皿を、顔の前に置いてやると、ソウシは、横にぺたんと座りこんだ。お手本のような体育座りに顎を埋めて、自分の顔の表面を涙が伝うのが分かると、目を膝に押し当てた。そして、しばらくして、母さんがこちらへ来たことが、ソウシの背中にそっと当てる手の、その感触で分かった。
「トヨちゃんのお墓、つくろうか」
膝に目を押し当てたまま、その声を聞いた。
「学校はどうする?」
ソウシは、その質問に、微かに首を動かした。「行かない」という返事だと、母さんは思ったのだろう。母さんは、遠ざかっていった。
トヨマルは、ますますその姿が滲んで、眠っている。しばらく見つめて、眠っているのではない。死んでいるのだと、再び気がついた。また、涙が溢れなおす。ソウシの目には、時々、トヨマルの向こう側の景色に焦点が合った。まるで、トヨマルの姿がすでに消えかかっているかのように。トヨマルだけがそこにいる。そう信じるようにして、もう一度、涙に滲む目でトヨマルに焦点を合わせようと努力する。その姿が、再びはっきりとした瞬間、再び、目を両膝に当てた。
そんなことを繰り返し、ソウシの涙は、いずれ嗚咽となった。
母さんが、黙って、ソウシの座る地面の横にシャベルを置いた。気を遣ったんだろう。シャベルは、音も立てずに地面に置かれた。
シャベルいっぱいに日がさしていた。そして、泣き止んだソウシが、再びを目をトヨマルに向けたときには、シャベルにあの木の影がかかっていた。


一匹の猫を埋められるだけの穴を掘るには、けっこうかかった。
両手でトヨマルを抱いて、穴の底に横たえる。両手の甲に土がつく。湿って、冷たいその土の感触が、トヨマルがまだ温かいように、ソウシの手へと感じさせた。
顔の周りだけは、最後まで避けるように、土を少しずつかける。そしていよいよ、顔を埋めなくてはならなくなると、一気にどさりと、フタをするように土をかぶせた。小さな山にすると、庭に落ちてた板切れを刺す。タイミングを見計らって、母さんが、黒いマジックを差し出してくれた。
ひらがなで、「とよまる」と書いた。
出来上がった墓を、縁側から、何時間でも眺め続けた。そして、夜になって、母さんに肩をぽんと叩かれて、風呂に入って、水色の網戸を通してまた、墓を見ると、ソウシは、自分の部屋へ向かった。部屋は、子ども部屋にしては空っぽで、その空っぽであることを、トヨマルと過ごしてきた時間が満たしていたのだった。


翌日は、学校に行った。授業を受けた。座って、ノートをとっただけのことだ。昼休み、委員会の仕事で、図書館の本の貸し出し作業をした。生徒一覧のバーコードと、差し出された本のバーコードを読み取るだけのことだ。チャイムが正確な時間を告げると、授業は終わり、昼休みが終わり、帰り学活が終わった。帰りに、担任が一言、聞いた。
「昨日は大丈夫だったか」
「大丈夫でした」
教師の目には、ソウシの顔に、よほど、表情がないように見えただろう。しかし、それはいつものことだった。
家に帰ると、やはり縁側で足をぷらぷらとさせながら、ソウシは、墓を眺めて過ごした。今まで眺めていたのがトヨマルだったのが、墓に変わっただけで、過ぎる時間は変わらなかった。
至って、同じ時間が流れていった。
日が暮れるころ、そろそろ中に戻ろうと、ソウシは立ち上がった。目にはいったものに、違和感があった。どこからか、たしかに、桜の花びらが舞っている。
ひとひら、ふたひら……。
心の中で、落ちてくる花びらの枚数を数えていられるほど、そのひらめきは、ゆったりとして、数が少なかった。立ち上がったその姿勢のまま、ソウシは、無意識のうちにその数を数えることを余儀なくされた。
地面に落ちてしまえば、それが、桜の花びらであると気が付かれる間もなく、踏みならされて、土へと還ってしまうだろう。ただ、夏の暑さに汗ばみながら、眺める桜の花びらは、とても涼しげだった。ようやく現実感の戻ってきたソウシは、縁側から片手を目一杯のばして、花びらを一枚、手に乗せた。手に乗った花びらは、雪のように肌のなかに溶けてしまう。夏の夕日の熱だけが、手のひらに残った。
突然、何かに気がついた人のように、サンダルをつっかけて、縁側を降りて、軒下から出た。裏山の方を見上げると、緑の広葉樹が広がる山の中腹、桜の木が、満開の花を散らしている。その巨大な桜の木は、そこだけ山が春を迎えたかのように、ぽっかりと夢のような風景となって佇む。

ーーー記録によれば、ーーー

この村に育ち、裏山の桜を知らないものはいなかった。ソウシもまた、そうした村っ子の一人だった。背後から照りつける夕方の日差しを受けながら、右手を桜に向けてかざした。
「裏山の桜は、二百年前には枯れていた」
ソウシは一人、つぶやいた。
「どうしたの?」
母さんだった。
「ねえ、母さん」
ぼんやりと、裏山の方を見つめたまま、ソウシは言った。
「ちょっとだけ、出かけてくる」
母さんは、うんともいやとも言わずに、首を傾げた。


「いってきます」
そう言って、ソウシは、後ろ手に引き戸を閉めた。すでに道は暗くなりつつある。
俯きながら、つま先をトントンと、かかとを靴に入れながら家の門を出たところに、見覚えのある猫がいた。
「トヨマル?」
ふらっと、足が、前に出た。一歩、二歩、三歩……。
三歩目の足が地面に着いたとき、猫の姿は消えた。学校へ向かう右の道を見た。まだ、もう夕方だというのに、陽射しが昼のような熱を帯びて、アスファルトの地面を焼き、空気を歪ませている。
ふと、振り返った。また、猫の姿が見えた。一軒隣の家のそのまた隣、アパートの向こう。座っていた猫は立ち上がり、アパート向こう側の細い路地へと進んでいく。うわの空というには、明確な意識を持って、しかし、ぼんやりとソウシはその後を追いかようとする。早歩きから、歩調は少しずつテンポを上げて、やがて小走りとなった。
猫の消えた路地へと曲がると、遠くにトコトコと歩く猫が見える。アパートの壁面に付けられた六台の室外機の温風が、日陰となった道に吹き付けている。陽射しとは違った、不快な暑さがソウシを包む。何かの虫の鳴き声が、その不快感に拍車をかけた。セミ………、なのか?
路地が……、長い。景色の変わらないブロック塀の連続。一定のリズムで泣き続ける聞きなれない虫の声。そうした風景が、余計に道を延々と長く感じさせる。いつの間にか、猫の姿は緩やかにカーブする道を曲がりきり、見えなくなっていた。不愉快な温風が、体を侵してくるのを避けるように、一気に路地を駆け抜けた突き当たりまで出ると、再び、夕日に焼かれた道路が、まっすぐ左右に伸びていた。道幅は、狭い。
猫は………、トヨマルはどっちへ行ったのか。ソウシは、あの猫が、トヨマルであることをいつの間にか確信した。
一、二、三、四、五、六、七、八…………。
十一歩。道の反対側に来た。左を向く。平たい土地に住宅の立ち並ぶ、今来た側と違って、反対側は、山である。頭上に伸びた広葉樹から、びたんと、一匹のセミがアスファルトの地面に落ちてきた。最期の力を振り絞り、のたうちまわりながら、耳障りな声を直にソウシの体へと浴びせかける。
顔を顰めてそれを眺めた視界の先に、動くものを見た。
「トヨマル!」
確信を言葉にすることで、さらに確信した。古びた木造の古民家を左手に、走り出した。トヨマルは、ぴょんと飛び跳ねて、右側の山の方の道へ曲がる。追いつく。急な階段。ぴょんぴょんと、軽快なリズムで上がっていくトヨマルを目で追いかける、中央に錆びた手すりのある階段は、山道への入り口である。「うらやま」とひらがなで書かれた木製の杭が刺さっている。
一段飛ばし。少し息を整ったのを確認し、階段を駆け上った。
二、四、六、八、十、二、四、六、八、十………。
上がり切った道は、舗装されていない登山道。乾いた土を踏み、ふわっと砂煙が足下で上がった。階段は、三十七段。
裏山の細い登山道。トヨマルが、のそりのそりとすでに道を登っているのが見える。住宅地と繋がる階段を後に、トヨマルの後ろを歩く。距離をとったまま、静かに呼吸を殺しながら……。砂煙も立たないくらいに、忍んで足を、地面に下ろし、上げて、下ろす。
ソウシは、何となく、追い付いてはいけないような気がしていた。走っていたときよりも、なぜだか息が、苦しくなってきた。
トヨマルは、死んだのだ。
祠。首無し地蔵だ。町を見下ろす側、左手に現れるそれは、裏山の登山道を登ったことのある人間であれば、みんな見たことがあった。夏の暑さにかいた汗は、いつの間にか、冷や汗へと変わっていた。いつだったか、小学校遠足だったか、家族で来たのだったか、この登山道を登った記憶を呼び起こしながら、ソウシは、首無し地蔵の入った祠を見やる。
通り過ぎる瞬間、祠の中の首無し地蔵に首があった。ソウシは気がついた。ここは、どこだ? もう一度、トヨマルがいるはずの方向へ目を向けた。いない。
戻ろう。瞬きをした。え? そこは、すでに登山道ではなく、森の中、獣道だった。振り向く。足下に生い茂る草の底、僅かに人間の通った痕跡のある急斜面に、虫の鳴き声が、止んでいる。
「ハル!」
自分の方に向かって、誰かを呼び止めようとする男の声がする。声も出ず、再び振り向く。と、視界いっぱいの桜の花びらが顔に降りかかった。とっさに目をつぶり、頭を下げて、息苦しいまでの花びらをやり過ごす。
「この猫は、きみの猫?」
少年の声が、耳元で囁いた。
ソウシは、声のした、そちらを見た。答える間もなく、誰もいない。
ゆっくり、なるべくゆっくりと、桜の花びらが飛んで来た方へと、ソウシは視線を移した。まるで、自分が今、ここで起きていることに驚いていないことを、自分自身に言い聞かせるようにゆっくりと、あとずさりしはじめる。ここがどこだか、すでにソウシは、一つの可能性を考えた。
瞬きをした。そして、少し離れた木の根本に、膝に猫を乗せた少年が座っている。
「きみは」
少年が座っている場所よりも、はるかに手前で声がする。
「まだ、生きているんだね」
ソウシが、その言葉の意味するところを理解する間もなく、少年は言葉を続ける。
「どうして、ここへ来たの?」
少年の口は、閉じたままだった。言葉は、彼から発せられたものなのか、そうでないのか、分からない。それほどまでに、少年の声と、口とはちぐはぐだった。しかし、確実にソウシの耳へと届く声は、声変わりしはじめた少年の、やや掠れて、高く、低く響いた。その幼さくもある声の響きは、少年の姿に、似合っているように、ソウシには思えた。
花びらに紛れて、雪が降る。夏の熱く眩しい陽射しが、梢の隙間から、落ち葉を照らす。落ち葉が消えて、雪が積もり、花びらは、空中で融けた。しかし、桜は積もり、落ち葉は再び一面に広がって、吹き消えた。半袖の、ソウシにはちょっと大き過ぎるシャツから、わずかにはみ出た細い二の腕に触れる空気は暖かく、また、冷たい。
ここは、どこ? そう聞こうとして、ソウシの口が動く。ただ、ソウシが口を開くより先に、その質問は、すでに少年へと届いていた。発した言葉は、空気に置き去りにされて、当のソウシの耳には、自分の声が聞こえない。
少年の姿が消えた。まるで、消えた少年の行き先を知っていたかのように、自然と、ソウシは右を見た。後ろ手に手を組んで、体を傾けた少年が、口元を微かにほころばせながら、口の動きだけで何かを伝えてくる。
「通り道だよ」
いや、本当は、口の動きで伝えてきたのではないのかもしれない。発せられる彼の声も、きちんと届くのかもしれない。ソウシは、一瞬にして、この場所、その異様さの意味に気がつきはじめた。なぜなら、さっき発した自分の言葉が、今更になって、ソウシの耳に届いたからだった。
「ここは、どこ?」
「君は、この子のことが、大切だったんだね」
今度は、少年の口は動かない。音が光に、光が音に、空気を通して、置き去りにされる。
よっ、と。ぺたんとあぐらをかいた少年の細い太ももに、トヨマルが乗っている。少年は、嬉しそうに、その頭を撫でた。
そして、さっきと同じ質問を繰り返した。
「この猫は、きみの猫?」
今度こそ、口と、声とが、ピタリと合った。そうして、ソウシは、さきほどから聞くこの声の主が、まぎれもなくこの少年であることを知った。

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