車椅子と刀

まだ、ユウタが小学二年生だったとき、坂下先生が、敵の首の骨を折る方法を教えてくれた。兜落としといった、古流柔術の型だった。ユウタは、三段の昇段審査の直前、何気なく、それを思い出した。
「腰投げって、実戦じゃ使えないんですか?」
「使えない。腰投げで投げられるほど、敵の懐に深く入るのは、実践でやり合っているときにはリスクの方が大きい」
それが師匠の考えだった。兜落としは、腰投げから派生する。腰投げがかからないのであれば、無論、兜落としもかからない。
ユウタは、師匠が着替えに二階へ上がってしまったあと、一人、道場に残って、鏡の前に立った。左足に体重をかけながら、右足を斜め横へと引く、と、同時に、右手の平を上にしながら、右腕を上げた。
右肩に敵の体が覆いかぶさり、右腰に敵の体重が乗るイメージを、鏡の自分に重ねる。しかし、師匠の言う通りだった。高校二年生となったユウタのイメージの中で、腰投げは、敵にはかからない。

坂下先生が亡くなって、ユウタは、今の師匠の弟子となった。坂下先生は、まだ、小学校に入学したばかりだったユウタに合気道を教えてくれた、最初の師匠だった。
一、敵に手首を掴まれる。
二、転換して、敵を振る。
三、振られて回ってきた敵に背中を密着させる。
四、手首を掴んできた腕を担ぎ、腰に敵の体重を乗せる。
五、投げる。
腰投げは、技がかかりきるまで五手。坂下先生が、ユウタを相手に示範演武をした。まだ、七歳のユウタが、自分の投げられた感覚を頼りに形だけ真似ると、坂下先生は、投げられてくれた。
いつも、笑顔で褒めてくれた。
「上手じゃ、上手じゃ」
褒めてもらえると、ユウタは、本当に自分が先生を投げているんだと思い込んだ。表情の乏しい子だった。ただ、ちょっとだけ嬉しそうにするユウタに、坂下先生が、頭をくしゃっくしゃって、してくれた。
いつもユウタのことを、おぬし、おぬし、と呼んで、なんとかじゃ、なんとかじゃ、と言って褒めた。無口なユウタは、兄貴と共用の部屋で、坂下先生の喋り方を、よく内緒で真似た。
「おぬし、右手が低いんじゃ!」
でっかいカエルのぬいぐるみの名前はドン・ケローネと言って、ドンを抱いて、自分と兄貴の布団の上をゴロゴロ転がった。
「じゃ!」
そして、下の階にいた母さんからうるさいと怒られた。怒られたのじゃ、じゃ、って笑った。

坂下先生は、古流柔術の人だったから武器を嫌った。とにかく、先生は、武器が嫌いな人だった。
「おぬし、男だったら徒手で戦わないといかん」
男ならという言い方が、いかにも古い人だった。でも、武器を手にせず、素手で戦う柔術の型は、かっこよかった。自然とユウタも徒手で戦うことにこだわるようになった。
ユウタの中学卒業が近くなったころから、坂下先生が足を悪くした。杖をついて道場に来た。中学三年生の冬、初段への昇段審査があった。
合気道の審査では、最後に座技呼吸法と呼ばれる型をやるのが慣習だった。すべての型をやり終えて、ユウタは静かに下座に正座をして待っていた。神前上座には本部道場の道場長が座して、下座にはうちの道場の道場長が座ってユウタの型を審査した。神前とは逆に、他の弟子たちが並んで座っている。ユウタの前には、型を受ける相手が、誰も座っていなかった。最後の呼吸法、ユウタの型を受ける受けが決まってなかった。
「誰か」
審査の進行をしていたうちの師範の一人が、呼吸法の受けを決め忘れていたことに気がついて、その場で聞いた。ユウタは、一畳半先に視線を落としたまま静かに待っていたが、気配で並んでいる弟子の中で、一人、手を上げたのが分かった。
「わしにやらせてもらえんでしょうか?」
坂下先生だった。
足を悪くしていた先生は、一人だけ正座をせず、足を投げ出すように端に座っていた。師範が「お願いします」と言うと、先生が頼りなく立ち上がり、ユウタの前に正座した。ユウタは、落としていた視線を坂下先生の目に合わせた。
互いに膝行で前に出る。膝の当たるギリギリのところまで近づくと再び互いに正座し、ユウタは両手を胸の前へと上げた。その両手を坂下先生が手首の脈内で抑えてくるのを感じ取ると、前へ出て、神前の方へとユウタは先生を投げた。
抵抗感はなく、軽かった。
ユウタが坂下先生と手を合わせたのは、それが最後だった。昇段が決まり免状が授与される日、先生は来なかった。半年以上、音沙汰がなく、久しく連絡がなかったところにやって来た知らせは、坂下先生が亡くなったということと葬儀の日程だった。

葬儀が終わったころ、坂下先生の奥さんがユウタに声をかけてきた。
「ユウタくんですか?」
ユウタは、声を出すことなくその奥さんの目をしっかりと見て頷いた。学校の制服を着ていたのは、先生の親戚を除くとユウタ一人だった。だから、奥さんの方でも初めて見るその少年が、「ユウタ」であることが分かったのだろう。
「よく、主人がユウタくんの話をしていたので」
坂下先生にとって文字通りの最後の弟子だった。奥さんは、形見分けにと言って、一本の細長い、ボロボロの袋をユウタに手渡した。ずしりとした重さが、ユウタの手に乗っかった。
「開けてみてくれて構いませんよ」
やや上目遣いに奥さんを見ながら、ユウタが袋を縛る紐を解くと、中から一振り、刀が出てきた。初めて刀を見たユウタの目は、寂しそうにありながら、でも、少し輝いたように見えた。
抜くと、その刃は丸みを帯びて、ものを切ることができるものではないことがわかった。模擬刀だった。居合の稽古のため使う、日本刀と同じくらいの重さの、切れない刀だった。
晩年の先生は、車椅子の上で木刀を振り、居合刀を振った。奥さんはユウタに、そう話した。ユウタは、その話を聞きながら、生前の先生の言葉を思い出した。先生は、武器が嫌いな人だったことを思い出した。
刀を手にした先生は、何を思ったんだろう。自分の信念を曲げて、剣を振った。柔術家として車椅子の上で戦うことを諦めるのではなく、自分の信念を曲げてでも、武術家として死ぬことを選んだ先生の姿を、ユウタは思う。
奥さんに聞いた。
「抜いてみてもいいですか?」
奥さんは頷いた。
制服のベルトに居合刀を差す。広めの場所で抜いた。ただ、高校生にしてはまだ体が小さく、刀の抜き方も知らないユウタが抜くには、腕の長さも足らなかった。カッコ悪く鞘を後に引っ張って、ようやく剣が抜き身になった。上段に構えて、一度だけ振った。初めて構える、およそ、真剣と同じ重さのそれは、ただ、ひたすらに重く、ユウタの構えも振りも、自然、ぎこちないものになった。
奥さんは、見知らず、ただ、話を聞いていただけで、初めて出会った少年が夫の形見を振る姿を静かに目を細めて眺めた。そして、しばらくして、口許にかすかな微笑みをたたえたことに、刀に夢中だったユウタは、気が付かなかった。
「お上手ですね」
ユウタが、その言葉で、奥さんに目を向けたとき、嬉しそうな顔が目の前にあった。葬儀場には、あまり似合わないような感じだった。だから、誰もいなくなったかのような式場のロビーで、こちらを見ているその表情を、ユウタは不思議に思った。奥さんのことはまるで知らなかったが、どうしてか、初めて出会った人のようには見えなかったからだった。ただ、それも一瞬のことで、再び、手にしている刀に視線を戻した。
刃渡りは二尺四寸五分で、ユウタも小さかったが、同じくらいに小柄だった先生が、座って振るには明らかに長かった。その長い刀が、車椅子に座った状態から敵の首を狙える武器だったことに気が付いたのは、さらに10年近く時間が経った頃だった。だから、刀というものは、こういうものなんだなと、そのときのユウタはぼんやり思った。

高校三年生のユウタは、もう一度、鏡の前で、腰投げの構えをとる。
ーーー上手じゃ、上手じゃ
五手で投げる。しかし、高校生となった鏡の中のユウタは、イメージの中で、敵を投げられない。
坂下先生が、初めて合気道を教えてくれた。小学生のユウタが、「先生」と呼ぶ。すると、坂下先生が、頭をくしゃくしゃってしてくれた。その懐かしい思い出は、きれいに決まる兜落としの型に、しっかりとはまっていた。
再び、ユウタは鏡を見た。寂しげに、成長した自分の姿をしばらく眺めたあとに、鏡の上の神棚に向かって一礼をした。着替えるために、道場を後に二階へと上がる。師匠が正座で道着と袴を畳んでいた。
「先生」
高校生のユウタが、先生と呼ぶ。師匠が、ユウタの方へと視線を上げた。
「終わったか? やきとり食いに行くけど、お前も来るか?」
「あ、行きます」
そう言って、更衣室で着替えはじめる。着替え終わると、道着を背負う。
「先生」と呼ぶと振り向くのは、坂下先生だったことを、いつのまにか、ユウタは忘れてしまっていた。忘れてしまっていたことに、どうしてか、ふと気がついた。
道場行きつけの焼き鳥屋に行くと、酒を飲む先輩たちに混ざって、いつもユウタは師匠の隣の席に座った。いつも、師匠や先輩と、技の話をした。
「腰投げをかけるくらいなら、先生は、何をかけるんですか?」
「おれなら腰投げなんかかけずに腕折りだな。二手でかけられる」
「相手が腰投げをかけてきたらどうすればいいんですか?」
「担いできた時点で締められるだろ。その前に一発入れることもできる」
なるほど、と思うユウタは、ジンジャーエールのグラスを両手で持って、チビチビ飲む。
「先生……」
と、呼ぶと、師匠がこっちを横目に見て、また、質問に答えてくれる。高校生になったユウタの頭をくしゃくしゃしてくる人は、もういなかった。やきとりを口いっぱいにほおばる。小学生の自分に腰投げの体勢をとる坂下先生を想像する。ぼんやり、焼き鳥屋の壁に貼られたメニューを見る。
小学校二年生の小さな体に、坂下先生が兜落としをかけようと袖をとった。いつの間にか袖を取られた小学二年生の細い腕が、高校生となった頼れる腕に変わる。袖をとってきた腕を、受けて、抑えて、正拳で顔面を突き返す。上手じゃ、上手じゃと、先生は、いつもの笑顔で褒めてくれる。そんな想像をする。
最初の師匠は、頭をくしゃくしゃってしてくれた。次の師匠は、やきとりを奢ってくれる。高校生になったユウタは酔った師匠と先輩たちと、夜の帰り道を歩いて帰った。

数日経ったとき、学校から帰ってくると、ふと、押し入れに入れた居合刀が目に入ることがあった。ボロボロの袋が、埃っぽくなっていたのを目にして、ユウタは、久しぶりにそれを抜いてみたくなった。
埃を払い、袋から出すと、刀は、あの葬式の日と同じ姿をしていた。制服のベルトに差して、姿見の前に立つ。左手で少し鞘を引き出し、右手を下から柄に当てた。左手の親指で鍔を押すと、パチンと鯉口の切られる音が鳴る。
体は、ぶらさない。高校生のユウタは、すんなりと居合刀を抜いた。中段に構え、振らず、そのまま血振りをする。すっと、ユウタは刀を納めた。

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