幸せな育児と不幸な育児に、共働きかどうかは関係ない説
私が壮大な説を説こうとしているわけではなく…
先日尾石晴さんの「学びの引き出しはるラジオ」で、こんな話があった。
専業主婦の子が母みたいになるなら専業主婦になりたくないと言い共働きの子が母みたく共働きはいやだというのは、実は時代の背景が作り出した現象で母親自身のせいではないのかも。
そして、共働きかどうかに関わらず子育てが孤独だと思うから「いや」なのであって、共働きか非共働きに限らないのでは?と。
なるほど〜
専業主婦のお母さんが、子に依存してていや、育児のしんどいとこを1人で背負ってていや、などと嫌悪感を抱いたとて、自分が共働きになり「結局私が1人で背負うのか」と思ったら何も解決にならない。
逆も然り。共働きのお母さんのせいで構ってもらえない、土日遊びに連れ出してもらえなかったと嘆いたとて、じゃあ自分が専業主婦になったら「あれ、私だけが子どもとだけの世界で窮屈」となるかもしれない。
専業主婦か共働きかが問題でないって確かにそうなんだろうな…
以前、どこで聞いた話か忘れてしまったけどある大学の先生が「大学の生徒に将来共働きがよいかどうかを聞いたら、専業主婦家庭の子も専業主婦家庭を望む望まないで割れて、共働き家庭の子も共働き家庭を望む望まないで割れた」という話があった。
はるラジオの話と合わせて考えると結局、専業主婦「だから」いい、共働き「だから」いいとは一概に言えないんだな〜と思う。
ただ、これは想像だけど、親が見せてくれた「いやそうなこと」は子どもはネチネチと覚えているだろう。
ある日飲食店で、うるさくてお行儀の悪い我が家のぼうずふたりとの闘いに疲れた夫と私をおしゃれなマダムが微笑ましく見ている。
目があったので「うるさくてすみません」と伝えると、なんでも、私たちくらいの歳の息子さんがふたりいらっしゃるそうで…「このくらいの歳頃は大変よね。うちの子達も全然言うこと聞かなかったのよ」オホホと笑っていた。
マダム曰く、「もう、何も話してもくれなくなるし、家庭を持ったら会いにもきてくれないわ」とのこと。
うるさいし躾がなってないとダメだしされるかと思ったので、気さくなマダムに救われた。
そして言うには「喧嘩もして散々戦ってきて、たった一度ブチキレて水をかけたら、その時のことずーっと根に持たれているのよ。たった一回だけのことなのに。」
ろくに話を聞かない、あるいは、話合いにならない子どもとの喧嘩なんて想像しただけでクラクラする。そんなに、対話を持とうと真剣勝負をし続けたマダムがすごいと思う。耐えて、忍んで、語りかけ続けて、何百万回のたったの一度水をぶっかけてそれをネチネチ根に持たれるとは気の毒に。
(子に言わせれば、親は何も分かっていない、のかもしれないが)
しかし、子どもにとってはどうしても嫌なことが印象に残るものだ。
あ?!そこ切り取るんだ?!
ってな具合にこちらの預かり知らないところで親を表象するスナップショットを切り取って心にスクラップしちゃっているに違いない。
もっとも、嫌なことの方が記憶に残りやすいのは大人だってそうなのかもしれない。
話を戻すと、専業主婦家庭も共働き家庭もその子達はいやな記憶に対する拒否感を心に刻んでいると、なら逆ならうまくいくと思うのかもしれないがことはそう簡単ではないということだ。
親が楽しく、苦労しても笑って乗り越えていけばお財布の数は関係ないのかもしれない。
共働きで土日遊びに行けないのがいやだと言う人は、遊びに行けないことより土日に不機嫌に家事をする母の愚痴を聞くのが辛かったかもしれない。
専業主婦家庭で母の縛りがきついのがいやだった言う人は、母と父が仲が悪くその間を埋めるのが辛かったのかもしれない。
夫婦仲は子どもの「いやだった思い出」に強く影響しそうに思う。
子どもに「あ?!そこ?!」って場面を切り取られないように私も夫とのコミュニケーションを気をつけよう。
そして、つくづく、睡眠をちゃんととり家でご機嫌に過ごせるようにしよう、と思った。