「ワーママ」というタグは分断をもたらす、という言葉にドキッ。
最近、尾石晴さんのvoicyを聴いていたら「ワーママ」というタグを剥がしたという話が出ていた。そう言えば、前は「ワーママはる」ってタイトルにあったような…
確かに、ワーママというタグをつけると、そこで語ったことはワーママの中だけの話になってしまうような、疎外感が発生するかもしれない。ワーママでない人には話しかけてないですよ、みたいな?それが「分断」の意味するところだろうか?
はるさんの著作やラジオも、ワーママに限らず役立つことが多くある。
いわばワーママ代表のようなはるさん。彼女はもうワーママというタグを「剥がした」んだなぁ、としみじみした。
ワーママを名乗らなくなったのは会社員を辞めて独立したからかと思ったときもあったけど、そう単純なことでもないのだろう。
はるさんは分断のない世界へ向けて配信している。ヨガスタジオをしたりママ向けのプロダクトを開発しているのも、本を書いているのも、全て分断のない世界へ移ってのことなのかもしれない。
我が身を顧みると、このnoteの記事を書くとき、ワーママだから思うこと考えることにはタイトルにワーママと入れて、ワーママとタグをつける。手癖のようにそうしている。
そして、純粋に私の仕事とかキャリア関係なしに子どものことや雑記を書くときは、ワーママという言葉はタイトルにも入らないしタグもつけない。
どうやら私は、ワーママの世界に浸かっている自分と、ワーママの外も含めた一般世界に漂っている自分とを、このnoteの中に混在させているんだと思う。はるさんみたいに著名人でなく、特に誰にも影響を及ぼさないからそれでもよい。
でも、はるさんのように「はるさん」の話を聴きにくる人たちが多くなると、立ち位置に一貫性があったほうがよいのかもしれない。聴衆の中に一体感が出て来ないし…?
はるさんのタグ付けの話を聞いていて私も自分の人生の今のタグ付けを考えたいと思うようになった。
そして、「ワーママ」という言葉は分断をもたらすというところが気になっている。
専業主婦でも、子どもの勉強サポートをしたり、同窓会を主催したり、PTAしたり、介護をしたり、庭の剪定とか納屋の修理とか「お家のあれこれ」をしたり、投資をしたり、不動産経営をしたり、町内の祭りを仕切ったり…「ワーママ」でなくてもやってることは「ホウレンソウ」と「付加価値の提供」ってケースは星の数ほどある。仕事と一緒じゃん?と。
私はワーママ特有の、いわゆる「サラリーマンの悲哀」的なものを書くのが好きだけど、その外にある世界にももっと目を向けてもいいなと思う。
いつか私も、ワーママのタグを外すときがくるのだろうか?
退職したとき?子どもが巣立ったとき?
ワーママというとどうしてもサラリーマンのイメージだけど、例えば自分の商いをして、自分の時間をコントロールして、目標を主体的で豊かで彩りあるものにしたら「ワーママ」とは名乗らないかもしれない。
ワーママという分断された世界にいたいのか?
そんな問いもできるかもしれない。
何気なく使う、ワーママという言葉にドキッっとさせられた出来事だった。
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