なのか・なのかの死後の世界
私の実家は「浄土真宗西本願寺派」だそう。
(だそう、というのは私が宗教に興味がなかったから・・・)
そんな中、考える機会がありまして。
看護師という職業柄、人の「死」にはよくあいました。
夕方から翌朝までの夜勤で、4人をお見送りしたときは、さすがに平常心ではいられませんでしたが…
「死」というものは、生きている限り必ず訪れるもの、永遠にそれを避けて生きることは不可能だ、ということは、どなたも理解されていることだと思います。
けれど・・・
ある日突然、余命の宣告を受けたら…
・生きているんだから、死は訪れて当然
・え?まさか、そんな…
・寝耳に水、これからどうしたら…?
・嫌だ、まだ死にたくない
・できることなら誰かに代わってほしい
・死ぬときってどうなるの?怖い
きっと、いろんな想いが次々と湧き上がってくるのではないかと思います。
何人の方のお看取りに遭遇しても、私自身、「死」は当たり前に訪れると理解しながらも、怖いという感覚は拭いきれません。
「死」そのものよりも、そこに至るまでの経過、それが怖いというのが、私の感覚の正解かもしれません。
今、できていることが、一つずつできなくなっていく
自分の役割を失う(家庭・職場・地域など)
自分の価値を失う(家庭・職場・地域)
自分の尊厳を失う (排泄・保清・認知機能)
これって、「自分自身」の喪失、じゃないかと思うんです。
自分が自分じゃなくなっていく…私はそこに恐怖を感じているのだろう、と思います。
私は、子どもの頃から自己肯定感が低く、ほんの数年前に「こんな私でもいいじゃないか」と思えるようになったんですけど、だからこそ、「自分自身」にこだわるんだろうな、と(自己)分析しています。
生きている限り、死ぬことは避けられない…
死んだ後って、どんな世界なんだろう…
もう、苦しいことってないんだろうか?
「安らかに」いることが可能なんだろうか?
今まで、「お見送り」することはあっても、その後のことは考えたことがなかったのは「他人事」と捉えていたからなんだと思います。
さて、冒頭の「なのか・なのか」ですが、ご存じの方もいらっしゃいますね。七日七日と書きます。
人が亡くなってから、遺された家族が7日ごとに法要を行うのは何故なのか
何の理由があるのか、って気になったので調べてみました。
目次機能などあったので、嬉しげに使ってみたりします。
なのかなのかとは
初七日から四十九日まで、一週間ごとに行う法要のこと
故人は、四十九日まで、冥土の旅をするのですが、その旅路が平穏無事ですように、と現世に残る人たちが祈りを捧げるのが法要です。
私自身は、自分が死んだ後のことなんて、わからないんだから、別に葬儀もしなくてもいいし、法要だのなんだのと、お金もかけなくていいよ…なんて思っていたんですけど、「なぜ、葬儀をするのか」というお話を聴いたとき、涙が止まらなくなって。
だって、「故人の、この世に対する未練と、遺族が故人に抱いている未練を断ち切るためために執り行う儀式だから」なんて言われるんですもん。
そんな悲しいこと、言わないでよ…と思ったんですけど、これはとても大切なことで、遺族がいつまでも故人への未練を断ち切らないままでいると、これから先の自分の人生を生きていくことが困難になります。悲しみから立ち直り、「生きていかなければ」ならないから、葬儀をすることで、故人との「別れ」を実感し、受け入れていく必要があるんですね。
1.初七日(しょなのか)
亡くなってからの最初の7日間。
故人は「中陰」という世界へ入るそうです。中陰は来世への行き先を決めるための裁判が行われる世界とされ、四十九日間続く旅路を「冥土の旅」といい、故人は7日ごとに冥土の王朝の王さまたちから、生前に犯した罪を裁かれるのだそうです。
初めの7日間、故人はとても険しい山道を歩くんだそうです。
その間、「香」を食べて進むとされるので、そのために現世ではお線香を焚きます。行きつく先にいるのが最初の裁判官、泰広王(しんこうおう)です。
泰広王は倶生神(人の両肩にいる神で、片方は生前の善行を、もう片方は悪行を記している)からの報告を元に、無益な殺生を初めとする仏教の五戒に反していなかったかについての審理を行います。また、その死者がどこから三途の川を渡るかを決めるのだそう。本地(本来の姿)は不動明王とされています。
現世の人たちは、恐ろしい顔つきで人間の煩悩などを戒めてくれる不動明王に、よい裁きが下されるようお祈りをします。それが初七日法要です。
2.二七日(ふたなのか)
山を越えるとすぐに三途の川があり、罪の軽い人は橋の上を、それ以外の人は罪の重さに従って浅瀬か、濁流かを渡ることになります。その渡し賃が六文かかるので、棺の中に六文銭を入れるんだそうです。
三途の川の三途とは、「渡り方に三通りある」という意味だそうです。
さて、渡る際にもし、六文のお金を持っていなかったら…?
三途の川には奪衣婆(だつえば)という十王の配下の係員がおり、この奪衣婆に衣服をはぎ取られるということです。
そしてもう一人の係員、懸衣翁(けんえおう)が、奪衣婆が死者から剥ぎ取った衣服を衣領樹(えりょうじゅ)(※三途の川のほとりに生えていると言われる木です)の枝にかけるのです。衣類がかかることで、衣領樹の枝は垂れ下がります。この時の枝の垂れ下がる具合によって、懸衣翁は死者の生前の罪を計ると言われています。
川を渡りきると初江王(しょこうおう)に殺生行為の有無を裁かれます。
泰広王の審理結果や三途の川の係員である懸衣翁などからの報告を元にし、主に盗みに関しての審理を行います。これ以降の審理では、少しでも改心の見込みがあったり、裁きに不完全な部分があったり、現世の遺族側の回向が十分に行われていたりすると、次の裁判にまわされます。本地は釈迦如来。
現世では、どんな人の願いも聞き入れてくれる釈迦如来に救いを求め、お祈りします。
3.三七日(みなのか)
死後二十一日目を担当する三番目の裁判官は、宋帝王(そうたいおう)。
性に関する罪の審理を行い、邪な性に溺れたものや、か弱い女性を欺いたものなどに裁きが下されるのだそうです。男性には猫を、女性には蛇を審理の際にあてがわれ、宋帝王の問いに正しく答えない場合はそれらによる苦痛を与えられます。
本地は文殊菩薩。「三人寄らば文殊の知恵」で知られる文殊菩薩は極楽浄土へ行ける知恵を授けてくださいます。そのため、現世では文殊菩薩に祈りを捧げます。
4.四七日(よなのか)
死後二十八日目を担当する四番目の裁判官は、伍官王(ごかんおう)。人の五官が元となる悪業や罪を審理対象とし、特に妄言(嘘)に関する詮議を行います。その際に故人は罪の軽重を量る秤にのせられ、罪深い人は重い分銅の大石を軽々と持ち上げてしまうと言います。
本地は普賢菩薩。白い像に乗った普賢菩薩は慈悲に満ちており、多くの功徳で悟りの世界へ導いてくださいます。現世では普賢菩薩に祈りを捧げます。
5.五七日(いつなのか)
死後三十五日目の審理を行う五番目の裁判官は、かの有名な閻魔王(えんまおう)です。生前の行い全てを映す水晶からできた鏡を持ち、司録もしくは司命と呼ばれる補佐官を従えています。嘘をつく人の舌を鬼に抜かせてしまいます。十王の中で最も有名であり、これまでの裁きの結果を元に死者が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の何処に生まれ変わるかを決定します。
本地は地蔵菩薩であるとされています。怖い顔のイメージの閻魔王とは正反対の優しいお顔が浮かびますね。現世の私たちは、故人の地獄の苦しみを救ってくれるよう地蔵菩薩に祈りを捧げます。
6.六七日(むなのか)
死後四十二日後の審理を行うのは変成王(へんじょうおう)。六道に振り分けられた死者が、その中でもどのような場所に生まれ変わるかの審理を行います。十王の中では比較的寛容で、故人の意見や願いを聞き入れてくれるとされます。人間の善悪を見破る三つ目の赤鬼と青鬼を従えているそうです。
本地は弥勒菩薩。弥勒菩薩はお釈迦さまの後継者とされ、遠い未来に私たちを救済してくれる仏さまです。自分自身だけでなく、他人の悟りを手助けする術も教えてくださいます。現世では弥勒菩薩に祈りを捧げます。
7.七七日(しちなのか)=四十九日
死後四十九日目に最終審理を行う裁判官は、泰山王(たいざんおう)。
どのような姿で生まれ変わるか、寿命などが決定されます。その決定により、故人は中陰の世界を去り、六道と繋がる道へ旅立ちます。
故人の前には六つの鳥居が示されますが、どれがどこに繋がっているかは分からず、鳥居をくぐって初めて裁きが分かるようになっているそうです。
泰山王の本地は薬師如来。現世では最良の決定がなされるように、と薬師如来へ祈りを捧げます。
8.そして百ヶ日
死後百日目の裁きを行うのは、平等王(びょうどうおう)。平等王は、内に慈悲の心を持ちながらもその形相は恐ろしいそうですが、これ以降の審理は再審で、死者に対する救済措置なのだそうです。
遺族が供養に努めれば、悪道に堕ちたものは救済され、善道に行ったものは更に徳をつめるようになっているといわれています。
「平等王」という名は閻魔王の別名とされることもあるって…えっ?!。
本地は観音菩薩。なので現世では観音菩薩に祈ります。
9.一周忌
死後二年目の審理を行う裁判官は、都市王(としおう)。
故人の死後、1年経ってもまだ行き先が決まらない場合に追加裁判を行う、とされています。
これで喪は明けたとされます。都市王は光明箱とよばれる箱を持ち、中にはありがたい経文が入っているが、悪業の深い者があけると業火に焼かれるそうです。都市王の裁きの場から極楽に行くことが可能だが、その距離は十万億土(一説には三十光年)とされる。
悪行により地獄行きになった場合でも、現世で遺族が一周忌法要を行えば、都市王により再審できるため、都市王の本地である勢至菩薩に祈りを捧げます。
10.三回忌
死後三年目の裁きを行う裁判官は五道天輪王(ごどうてんりんおう)。
十王最後の王。三回忌(死後2年目)の担当で、第七審「泰山王」以後の審判でも罪科の定まらなかった亡者を裁くといわれています。その裁きは、地獄の責め苦が行われている現場のすぐそばで行われるんだそう。
ここまで再審が繰り返されるというのは、現世で大罪を犯しながら遺族から成仏を願って熱心な供養を受けている亡者であることを意味し、ここで五道転輪王は遺族の祈りを裁量し、亡者に反省の色が見えた場合には極楽往生の最後の機会を与えることになります。
道服を着用して合掌した姿だといわれ、詳細な持ち物は不明。その両脇に司録もしくは司命を従えているそうです。
本地は阿弥陀如来。阿弥陀如来は五逆罪(親殺し、僧殺し、仏身致傷、僧たちの和の破壊、の仏教における最重大罪)を犯したものさえ最後には救うと解釈される、無量の慈悲を持つ五智如来の一尊です。
現世では、故人が極楽浄土へ導かれるよう、阿弥陀如来に祈りを捧げます。
一周忌と一回忌の違い
なぜ死後1年は一周忌で、死後2年は三回忌なのでしょうか?
「一周忌」は故人が亡くなってから1年後のことで、「一回忌」は亡くなった日すなわち命日を指します。なので、一周忌は2回忌ということになります。
一周忌の一周には、春夏秋冬を一周したという意味と、一周して元に戻ってきた、という意味があるそうです。
浄土真宗は一周忌がいらない?
浄土真宗では、「亡くなった方はすぐに仏になるのだ」と考えています。
そのため、追善供養としての一周忌は必要としていません。
つまり仏教であっても、浄土真宗では一周忌を行なう必要はないのです。
何かと”忙しい”現代人には、法要のたびに集まることは難しいため、浄土真宗の思想は、現代人のライフスタイルに合わせて、「儀式」として行わなくても、故人は救われるよ、と言っているように思えます。(あくまでも私解釈)
とはいえ、一周忌で喪明けとされるので、現世に残る私たちの節目として、故人を偲び、あちらの世界での故人の安寧を祈り、故人を救済してくださる仏さまに感謝して、手を合わせたいですね。
生きているものは、いつかは当たり前に死ぬもの…そうわかっていたことではあったのですが、大切な存在を亡くしたときには、ただただ悲しく、現実を受け入れることは簡単にはできません。
あのとき、ああしていればよかった…こうしていれば違ったかも…自分たちの決断を後悔し、別の選択肢を選んでいたときの「今」を考えてみたりして、自分を責めたり、他者を責めたりしてしまいます。
けれど、今目の前にある現実は変えようがないんですよね。もう、過去に時間を戻すことはできないんですから。
故人が進んでいく道と、現世に残されたものが行う儀式の意味を、改めて知り、学び、考える機会があったことに、「感謝」です。
*引用参考
十王
大の葬祭
御朱印LOG
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