武術を習って思うこと
花の二十代も最後、人生の節目を感じた。
仕事一途は美談のように語られるけど、組織の束縛から解かれた老後は悲惨な気がする。
仕事とは全く別の場所で、何かしておきたい不安。人生は一度きりだ。
健康への投資と思いジム通いを始めたが、風呂上がり、全裸でポージングするマッチョを横目に、こうはなりたくないな、と思った。焼かれた肌と白すぎる歯に、憧れは微塵もない。
生粋の文化部育ち、青春は芸術に費やした。元々、こういう場所は似合わない。
惰性で筋トレを続けたが、どうせなら、実用に寄りたい。そんな下心で、カンフーを体験。股関節を伸ばして蹴り足を上げると、筋トレよりも遥かに充実感があった。これが中国武術との出会いだった。
道場へ入門すると、屈強な面々を前に戦々恐々としたが、今更、臆したところで遅い。緊張で吐きそうだ。否、恥も外聞も捨ててきたのだ。やるだけやる他、道はない。
号令に従うまま準備運動を終えると、滝汗が止まらない。ハードな内容に精魂尽き果てそうだったが、異様な空気感に誘われ未知数の底力で粘った。ここでへばったら、今日すべてが無駄になる。
先生は時々、技を実演された。先生の手が、触れた、と思った次には、天井を見上げていた。二人で横に並んでいた筈が、足下で仰向けに寝ている。「技をかけられたのだ」と、ハッとした。差し伸べられた手を取ると、腕は木の幹のように堅くしなやかで、指爪は鋼のように鋭かった。柔和な物腰の奥に、底知れない鍛錬の重みを感じた。
その夜は体中が痛くて仕方なかったけど、風呂は最高に気持ちよかったし、メシは格段に美味かった。先生の手の感触を思い出し、高揚していた。満ち足りた日々が訪れた瞬間だった。
ひと月も通うと、過剰な体の痛みは出なくなった。惨い技もあるお稽古は毎回少しの怖さがあったけど、入場したら必ず「怪我しませんように」と道場の神棚に祈った。
縁あって道場に通い出し、そろそろ三年が経つ。運動とは縁のなかった自分が、武術を続けてこられたのは何故だろう。食い扶持にしてきた「書道」に通じるものがあったから、かもしれない。
書道は【目的のための練習】ばかりしていると、上達しない。「真っ直ぐ線を引く練習」とか、「筆の運び方の練習」とか、本来、練習はそうやって「得るもの」を事前に決めてから行うものではない。欠かせないのは、「部分を切り取って練習などしてはいけない」という手本に対する敬意だ。一見遠回りだが、ひたすら手本を見返し、「足りない何か」を追求し続ける。経験上、そういう子が大器晩成する。
「感覚」と「理論」は芸術の両輪だが、理論に依り過ぎると醜さが露呈する気がする。わかった気になれば、そこまでで終わりだ。
武術も書道も、、、もっと広く言えば「東洋の精神性」には、形而上的な要素が多い。「墨汁があるのに、わざわざ墨を擦る行為に何の意味があるのか。」…そういう本質的な問いには、なるべくわかりやすい説明をしてあげたいが中々伝わらない。感覚によって学んだものは、ある程度感覚を通して教える必要がある。分析と言語化に苦心し過ぎると、却って悪循環な時がある。
話が遠回りになったけど、そういう「底知れない奥行きがある」武術に惹かれたのだと思う。たくましい体でいたい、とか、健康でいたい、とか、はじめは打算的な理由で続けていたが、今は少し違って、打ち込むこと自体に意味があると思っている。先のことは見当も付かないが、唯一無二のライフワークは今後も人生に彩りを添えてくれるだろう。
初心忘れず、の気持ちを込めて。折節の備忘録として、ここに記します。