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日々のこと:考えの前提とは。ーゆるすことと、自由ー

※散文のフィクションです。自分自身と、他者との間で、考えを交える際の「前提」のようなことを、つらつらと考えています。考え途中の自分への語り掛けです。


例えば、職場の先輩から、所属部署の職員全員の前で、次のようなことを話されたとする。

「私は、あおまるさんのためを思って、今、話してるんだよ。あなたは、この前、〇×△をしたよね。それは非常識で、おかしなことだったと思うよ。みんな同じこと言ってる。今後のために、もう少し、常識を身につけた方が良いんじゃない?」


例えば、それに対して、私(あおまる)は、次のように答えたとする。

「ご指摘ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。善処致します。」

そして同時に、心の中では、次のように考えていたとする。

  1. なぜ、今、その話をされているんだろう。

  2. 事前に、上司に相談・確認の上、〇×△をしたんだけどな。〇×△の実施後に、上司にその旨を報告した際は、苦言?を呈されなかったと思うが…?

  3. ”みんな”って、どんな規模感だろう。全世界のすべての人?、日本人全員?、社内の人全員?、所属部署の人全員(上司を除く?)?、それとも、先輩と仲が良い職員全員(2~3人)?

  4. ”常識”って、どの常識?世界の常識?、日本社会の常識?、社内の常識?、それとも、先輩の常識?

  5. 1は伝えても良いかもしれないが、2と3は、先輩の反感を買いそうなので、今話すべきではないな。

  6. 今、私は、先輩からのご指摘に混乱している。ただの”ご指摘”なのに、キツい話し方だなぁとも感じている。真摯に受け止められていない状況だ。このようなときに、多くを語ることは得策ではない。失言する。

  7. 兎にも角にも、私にとっては、この状況が穏便に、且つ早く終了することが先決である。とりあえず、感謝と、謝罪と、善処で答えよう。


そんな私(あおまる)の返答に、職場の先輩は、次のように更に言葉を重ねるとする。

「善処しますって、どういうこと?なぜ、今、私がその話をしているか理解してる?理解してないよね。」




私は、私が、心の中だけで、”どのように考えているのか”等を含め、「考えること」を、ゆるしている。それは自由だ。

そして、その「考え」を心の中にとどめておくのか、そのまま全てを、又は、より丁寧な言葉に置き換え(るように努め)て全てを、又は部分的に、実際に口に出して、又は書いて、又は自分なりの方法で、相手に、又は第三者に伝える等、5W1Hのような、いつ・どこで・だれに・なにを・どのように伝えるのか伝えないのかについても、自由だ。

それは、例外なく、すべての人が、自身が「考えること」をゆるしており、その「考え」をどうするかは自由なのだ、とも考えられるのではなかろうか。

確かに、法の下など、何等かの範囲や基準が決められているような場等では、明らかに、言って良いことと悪いことや、やって良いことと悪いこと等があり、完全に自由なわけではないかもしれない。

…。

(ああ、うまく考えをまとめることができません。)


例え話の中で、私(あおまる)が、”私は、なぜ、今、職場の先輩に、その話をされているんだろう。”と(疑問に)考えることはゆるされ、その考えを、心の中を留めておくことは自由だ。

そして、同様に、職場の先輩が、「私が、なぜ、今、あおまるに、その話をしているのか、あおまるは理解していない。」と考える(感じる)ことはゆるされ、その考えを、実際に本人に伝えることも自由だ。

例えば、この先輩の考えに対し、私が、”指摘された内容は理解している。そう考えないでほしい。”と、心の中で考えたり、「ご指摘の内容は理解しています。そのように考えないでいただきたいです。」と、口頭で伝えたとする。

「あおまるは理解していない。」という、先輩自身の考え(感じたこと)を再考する・しないを含め、その行方は、先輩のみにゆるされている。そして、それを、心の中に留めるのか、口頭で伝えるのか等も、先輩の自由なのだ。

同様に、”なぜ、先輩はその話をされているのだろう。”という、私の考えを、再考する・しないを含め、その行方は、私のみにゆるされている。そして、それを、心の中に留めるのか、口頭で伝えるのか等は、私の自由なのだ。


考え途中で、今後、この考えがガラリと大きく変わる可能性がありますが、自分自身と他者との間で考えを交える際の「前提」について、考えていました(す)。


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