鬱に風穴が開いた日の出来事
ボレロの演奏に乗って過去の経験達が成仏した話を書きながら思い出した、とある1日があります。
私は21歳から23歳くらいまでの約3年間、鬱病を患っていました。
3年間通院と服薬をしながらの引きこもった生活。
その頃、鬱になった原因を突き止めたくて、精神病について書かれた本を読んだりしながら、よく考え込んでいました。
「自分が厳密には何病なのかつきとめるべきでは」「親や社会の何が変われば治るのか」
「元凶だと思っている母親がいなくなれば解決するのか、、」
どれも答えには辿り着かず不毛に終わりました。
丁度その頃、幼馴染だった元夫にばったり再会したんです。
子供の頃から家族ぐるみで仲が良かった元夫に、母が気軽に「ごはん食べにくる?」と聞いたら喜んで家にやってきました。
久しぶりに友人と話せたのは楽しく、
「ボロいジムニーに乗ってるから今度ドライブにでも行こう」と誘ってくれて、いつぶりか外へ遊びにいくことになったのです。
山岳部だった元夫は、景色の良いところに行ってみようと言い、かなり体力が落ちていた私も助手席に座っているくらいなら外出できるかもしれないと考え、ついていきました。
ところが、元夫は浮かれて(笑)「景色がいいからちょっとあの上まで登ってみよう」と私からしたら立派な「山の上」を指さすのです。
(後から聞いたら、山岳部の元夫にとっては“ちょっとそこまで”の感覚だったそうです)
「体がきついから登れない」というと、ハッとした顔で「ごめん、病気のこと忘れてた!」というので、え、忘れてた!?と何とも言えないおかしな気持ちになったんですよね(笑)
んで、次のプランに行くのかと思いきや「ちょっと上まで行ってくるから待ってて!」とほんのそこまでいくような足取りであっという間に上まで登り、あっという間に降りてきました。
行くんかい!!という突っ込みと、少なくともこの数年、ずっと寝ていた自分の周りにはなかった現象に面食らっていました。
車を移動させ山道を通り抜けていると、ガリガリと音を立てて枝が車体をこすりました。
いいの!?と尋ねるも、車のあまりのボロさに何も気にならないとのこと。
揺られていると、ところどころに
「危険、立ち入り禁止」の立て札があるのが見えました。
すると「行ってみようか」と元夫が言うのです。
立ち入り禁止の場所に入っていこうなんていうことをこれまでの人生で考えたこともなかった私は、びっくりして断りました。
それにもかかわらず、大丈夫だから行ってみようという元夫はさっさと立て札をずらすと、車で入っていきました。
危ないというのに、車がどこかに落っこちたらどうしよう。
自分がルール違反をしているなんてどうしよう。
見つかったらどうしよう。
なんでこんなことするんだろう。
色んな想いが渦巻いて心も体もギューッと緊張して車に揺られていました。
さっきの3倍くらいの勢いと量で車にバシバシ当たってくる木の枝たち。
がたがたなる地面。おっと!っとかいいながら浮かれている元夫。
頭を抱えるしかない事態に、だんだんどうでもよくなってきました。
だってもう仕方ないんだもん!もしかしたら追われて怒られたり、なんならいつか落っこちるしかない事態も受け入れるしかない。
呆れた気持ちは清々しさにも似て、窓でも開けようかなという余裕さえでてきました。林の深いところの空気はさすがに澄んでいて、それがすごい勢いで窓から流れ込んでくる。
そこから不意に枝が襲ってきて「ぎゃあ!」なんて言う。
それを隣で笑う。
そうこうしていたら、数年ぶりかもしれない感覚にポっと火が灯ったのです。
「楽しいかも」
楽しいという感覚も久しぶりだったし、
「だんだんどうでもよくなってきて、なるようにしかならん」と肚が座った感覚も久しぶりでした。
この日を境に、ちょっとずつ鬱病が回復し始めました。
楽しいという「感覚」
まあ、なるようにしかならんかという「感覚」。
家族や病院の先生から、これ以上悪化しないように腫れ物に触るような扱いを受けながら、治る方法や原因を考えまくっていた日々から抜け出して、
”今の感覚のみ”に久しぶりに立ち返った出来事でした。
ボレロを聴いてものすごく興奮して喜んだ「今」
風が気持ちいいかもしれない、なるようにしかならないと思考やコントロールを手放した「今」
解放の糸口はそんな瞬間にありました。