ボーイ・ミーツ・ボーイ (6/8)
6 僕らは二人きりだった、僕らは夢見心地で歩いていた
ヴェルレーヌ詩集より
夏が駆け足で過ぎると、おれたちは飢えた狼みたいに女の子を漁りはじめた。切っ掛けがなんだったのか、聞かれても答えられない。なんとなく、そうなったとしか言いようがない。おれ自身は惰性と欲望の2つ声に従ったと思っているけど、他のヤツらはどうだろう。
みな、似たりよったりだと思う。
ジュンと三輪は別。留学する、しないとグズグズ言いながら彼らは2学期になっても、登校していた。2人はいつも一緒にいて、高い所からおれらを見下ろしている感じだった。
ジュンとおれは互いの存在を無視しつづけた。
遠藤と保田と木村とおれとはマサのコネクションで女の子たちとデートを繰り返した。はじめは合コンのノリで、そのうち個別で会うようになっていった。
怪物と見紛うマサには、女子を引き寄せる何かがあった。
(どないなってる)
だれもが、疑問に思いつつ、これでいいのかとおのおの自問自答しつつ、未知の女の子と不適切な関係を持った。
一応、サキというカノジョらしき存在がいるのに、浮気に明け暮れるなんて要領が良すぎると思いながらもやめられなかった。
水道の蛇口が壊れたようなもんだと思うことにした。
出るものは出すしかないと。
そんなおれを嘲笑うかのように、ケサマルひとり、トレーニングに明け暮れていた。体育科だから、その道一筋が当然なんだけど、クラスの多数は以前にもまして、自分の能力に見切りをつけていた。 潔いと言うべきか、忍耐と根性がないと言うべきか?
吸い込まれるように澄み切った秋空がせつないある日――。
白線がまぶしいトラックを目の前にしてへたっていると、
「やらんのか」
目を上げると、ケサマルの凛凛しい顔があった。
「大学の陸上部から勧誘されたんや。サッカーより向いてるそうや。タニシの目があるから、トラックでの練習はできひんけどな」
「推薦入試か」
記録の伸びないおれには縁のない話題だ。
「ええなぁ。おれなんか、特技いうたら喧嘩ぐらいや。スタントマンなんてどうやろ?」
自分の将来について漠とした不安を拭えなかった。
「文化祭でやる芝居、出るンか?」とケサマル。
あほくさ、と言おうとして口をつぐんだ。
ケサマルの意味ありげな顔付きからジュリエット役をジュンがやるにちがいないと気づいたからだ。
「おれ、出ようと思う」
ケサマルは真剣だった。
「マジか」
「〝ロミオとジュリエット〟だもんな」
毎年、秋の文化祭には、体育科の2年生による仮装大会のような演劇を体育館で催す。
「去年のやつらがやったみたいに、どうせ、お笑いやろ」
「文芸部と演劇部を掛け持ちしてる保田が、演出をやることになってるんや」
「あいつ、どういうつもりで体育科に入ったンかわからん」
そう言って青空を見上げていると、
「おまえはともかく、先に三輪をなんとかせんとな」
ケサマルはいまだにジュンへの夢を捨てきれないのか?
ジュンのジャージィを欲しがったときは、一時の気の迷いだと思っていたが……。
ヒトの心なんて、一瞬、一瞬、その時々の感情で変化し、ひとつところにとどまらない。
ちょっと意地悪を言ってみたくなった。
「タイツ、はくんか?」
ケサマルは唇のはしをわずかに引いて笑った。気障な笑い方だった。ケサマルは時々、ドキッとする表情を見せる。ヤツも三輪同様、女の子と付き合わない。
「目にもの見したる!」
そう言って歯がみするケサマルに、おれは思わす、差し出口をした。
いらんお世話やと思いつつ、
「三輪も黙ってないデ」
「あいつは自分がどうしたいんか、わかってるようで、わかってない。親の七光でやりたい放題や」
「なんで、さっさと留学せんのや?」
「菅谷が同意せんらしい」
「いまさらなんやねん」
「おれはちがう。自分の行く先はわかってるつもりや。三輪のように迷わん。親の言いなりにもならん」
こういう抽象的な表現で、ワルクチが通じ合う間柄になるなんて、思いもよらなかった。
バラくんのおかげだ。
「おれはゼッタイ負けへん。まぁ、見ててくれ」
そう言い捨てると、ケサマルは白線を踏まないようにトラックを斜めに突っ切って行った。たしかに腕の振りが陸上向きだった。
(おれも負けへん)
ちょっと前のおれなら言ったかもしれない。
夕日に向かってひた走るような純情をとっくに見失っていた。
正式にタイムを計ったわけじゃないし、陸上部でもないケサマルと競争しても勝てる自信がない。走る前からヤツのペースメーカーにされる気がしていた。
だから、黙ることにした。
(アホなヤツは無益な試合はせんもんや)
と自らを慰める。
校門を出ると、サキがおれを待ち受けていた。
(なんで、待つんやろお。おれなんかを――)
「ト、シ、オ!」
サキは元気いっぱいに見える。
それが、おれを臆病にさせる。
テキパキとデートの時間と場所を設定し、
「さあ、行きましょう」
と言う。
2、3度、どこかに出かけて、かるくキスしただけなのに、相手はおれを思い通りできると錯覚するのか、若い女性教師そっくりの口調になる。
彼女のペースで進んで、気がつけば真正面に立たされていて、身動きがとれなくなっているというぐあいだ。
それがイヤだから、会ったその日に、セックスをして別れる。
陸上競技のようなセックスが、いい。
全力疾走して、勝っても負けても、自分が自分でいられる感覚。
サキは先週、デートしたとき、
「スポーツじゃないんだからサ、なんていうか、乾いた胸の中心が充たされるような何かが欲しいと思うわけ。トシオはどう思う?」
「べつに」
としか答えようがない。もしかすると、女の子とセックスしたりデートするのって、夢を見ない大人になるためのトレーニングの一種なのかもしれない……。
「聞いたんだけど、文化祭で〝ロミオとジュリエット〟やるんでしょ。? わたし、手伝っちゃう」
ポメラニアンに似たサキは早口だった。黒いおめめをパチクリさせて、まくしたてるのだ。怠け者のチャンピオン=猫族のおれは、話のはんぶんも聞いていない。
「わたしね、トシオのお友達に頼んだの。ゼッタイ、南川くんをロミオにしてって。みんな、びっくりしてたわ。寛大なんだなぁ、て言われたわ」
「なんで、いらんことすンねん」
「だれよりも、トシオが素敵だもの。ジュリエットがだれだっていいの。あんなコ、わたしの敵じゃないもの」
「相手もそう思てるやろな」
「トシオくんて、シニカルね」
「日本語で言うてくれへんか」
「気にしなくていいわ。誉めてるんだから。行きましょ。六甲のおうちが空いているの。そこで、オーデションの練習をしましょうよ」
「あほらし」
「トシオのこと、思って言ってるのよ」
「……」
「なぜ、黙ってるの」
「絶対、やらん」
「だめ! パパやママが見に行くって言ってるの。それにね、大事ィな、大事な、お、は、な、しもあんの」
すったもんだのあげくに、おれとサキは有沢家の別邸に出かけた。バスに乗って、ケーブルに乗って、またバスに乗って……。
(ああっ、メンドくせぇ)
東西に帯状にひろがる神戸の街が、腕の中に抱けるような錯覚に陥るロケーションが眼下に望める。
サキは光の渦に向かって手を差し伸べると、
「ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの」
と絶叫した。
正常とは思えん。彼女はジュリエットのセリフを言って、テラスの手摺りにしがみついている。ロミオ役のおれはデッキチェアにいて、ひたすらミックスピザをパクついている。
「テラスの下にいてくれない? 気分がでないもの。とってもいいシーンなのよ」
唇をとがらせるサキに、おれは言った。
「信じられん」
「何が?」
「やめてくれ。おれが、するわけないやろ」
「わたしの愛を疑っているんだったら、それはまちがいよ」
「思うんやけどな」
おれは切り出した。
「もしも、ジュリエットの目覚めるのがもう5分早かったら、2人は、めでたく駈け落ちしてたわけや。でもって、子供が生まれて、その子が勝手なマネをせんように監視したにちがいないと思わへんのか?」
「夢のないこと言わないでよ。シェイクスピアなんだから」
「芝居やから、2人で死ぬンや。フツーは死なん」
現実を直視せよとおれは言いたい。恋の相手なんて、その気になれば掃いて捨てるほどいるんだから、死ぬヤツはバカだと。
自慢じゃないけど、はじめてセックスを体験した女の子の顔なんて、1週間もしないうちに忘れた。その次の子も同じだった。女の子を目の前にすると、わけもわからず胸がドキドキするが、目的を遂げてしまうと、花火のように跡形なくかき消える。ドキドキしたことさえ、気恥ずかしく思い返されるのだ。
「ロミオとジュリエットの愛は不滅なのよ。死さえ2人を引き裂けないの」
希望的観測で、彼女はものを言う傾向がある。
「トシオも、わたしのために死んでくれる?」
「死ななあかんようなことが、もっぺん起きるとは思われへんけどな」
「もう一回……なんのこと?」
おれは、ビタミンと仲間に、ポリ管で殺されかけた。
「わたしは、トシオのために死ねないけど、きみには死んでもらわなくっちゃ」
サキと交わす会話に、異質な感覚があった。彼女の発する言葉が宙を舞って胸をすり抜ける。この感情を恋だとは思いこめない。
体育科の仲間と話すほうが、何倍もたのしい。サキといると、時間がもったいないと感じる。
しかし、そこそこの容姿の女の子が手の届く距離にいて、しらっとしてるのも時間をムダづかいしてるような気分になる。
「じゃあ、ジュリエット姫の寝室はどこよ?」
胸のうちで叫んでいた。
(おーい、おまえどこへ行く気なんだよォー)
意識下のナイーブなおれは、仮面をかぶったおれに殺されてしまった。
「後悔せぇへんよな?」
「そういうの、男のほうが言うのとちゃうか」
「うん。だって、なんとなく」
「ロミオとジュリエットは死ぬ前にしてるやろ?」
「わたしたちは死なないわ」
「やめとくか?」
おれの声はおれの心を裏切って明かるかった。ほんとうの気持ちを隠して突っ走るほうが気楽だと、18歳になる前に知ってしまった気がする。
サキは眉をしかめると、ドアの前に立った。
「わかってると思うけど、わたし、はじめてじゃないわ」
「そんなん、ゼンゼンオーケー。関係ない。お互いさまや」
「そうよね、関係ないよね。愛に……」
サキは「愛」という言葉を小声で言った。そのことが、おれを憂欝にした。
翌朝、おれはサキが目覚める前に山を下りた。2人の間に起きたことを思い出すと、いたたまれない気持ちになった。
(まさか、おれが、はじめてやったなんて悪夢やろ)
騙されたと思った。
避妊薬を服んでいると言ったので、安心というか気楽にからだを重ねた。
万が一ということがある。
非行に走る連中を、中学生の頃から見てきた。
妊娠して学校へ来なくなった女子生徒が同じクラスにいた。
男子生徒ばかりの高校に入学したとき、ほっとした。
ヤヤこしいことだけはすまいと、心に決めていた。
1回こっきりの相手のときは、ゴムは忘れなかった。
自分から罠に落ちてしまった。
学校に着くと、保田が待ち構えていた。
「朝帰りなんだって?」
「なんのことや……」
うろたえ気味に言い返した。
「いいなぁ、モテモテで」
なぜか、サキと外泊したことが知れ渡っていた。
教室に入ると、マサが恐い顔をしてやってきた。
「見損ないました」
怪物はそれだけ言うと、ぶ厚い唇を突き出した。
「もう先輩は、ぼくらの仲間やなくなりました」
「わかるように言え」
「先輩に青春をささげるつもりでしたが、撤回します」
「おまえなー」
「してええことと悪いことがあります。それが、わからんようではおしまいです。コレとアレとは別ですからね」
マサの言うアレとコレが何をさすのか、おおよそわかっていた。
「カッコわるいですよ」
その言葉はおれを誹謗中傷するというより、反省と悔恨をうながすものだった。
ジュンと目があった。
長い間、ほんとうに長い間、おれたちは目を合わせなかった。その一瞬、眼球が灼熱の太陽で灼かれたように感じた。
何か言おうとしたその時、ジュンの声がおれを震え上がらせた。「まさか、やらないよね」
「えっ」
「やらないよね」
「……」
「ミークンがロミオをやるって、ウワサになってるけど、やらないよね」
「そのことか……」
マサがおれの顔をまじまじと見た。やつの目が、いましかないと言っている。いま、この瞬間に目覚めなければ永遠に眠ったままになると。
「……やるで、おれは」
物事が転がる時って、こういうもんなんだ。サキとの一夜がなければ、けっして口にしなかった言葉だろう。
「おっしゃぁ!」
マサはがっがっがっと笑いながらわめいた。
ケサマルが飛んできた。
「違反やろ、おまえっ!」
「何が?」
「とぼけんなや!」
「まあ、ええやないか」
木村が割って入る。保田はニタニタ笑っている。遠藤はといえば、腕組みをしている。そして、何を言い出すかと思えば――、
「ジュンとおまえがやるんやったら、おれらも出んといかんいうこっちゃな」
「なんでやねん!」
「そらそういうもんや」
と木村がうなずいた。
とたんに、それぞれが声高に言い合った。
「2番目にええ役はなんちゅう名前や」
「ティボルトかな?」と保田。
「それ、おれ」と木村。
「いっぺんでええから男前の役がしたいんですけど」
マサが口をはさむと、
「ヨソのクラスじゃん。ま、いいか。婚約者のパリスやってもいいよ。肥ってるやつは乳母かな。遠藤、やる?」
「ちょっと待て」と遠藤。「おれが女かぁ」
「ケサマルはロミオの親友、マキューシオ。聡明なぼくは、演出家なんだし、ロレンス神父が妥当かな」
保田はまたたくうちに役をふりわけた。
「オーデションやらへんのか?」
と訊くと、
「そんなもん、なんですんねん」と木村。
ケサマルひとりが、不満顔だった。
「おれらはどうなるンやっ」
わめくビタミンを黙らせるためなのだろう、木村は言い放った。
「クラス中が、だれがジュリエットでロミオか、わかってる。そのために決めた芝居や」
「ま、そういうことだな。悔しいけど認めるよ」
保田はうなずくと、おれを見て片目をつぶった。いつも意地の悪い保田がなんでだろお。
(気持ちわるぅ)
彼らはジュンとおれを囲んで、子供のように騒いだ。もしかすると、女の子たちと遊ぶことにそれぞれが懐疑的になっていたのかもしれない。何年も離れ離れになっていた恋人同士が、やっと巡り合った時のように喜びあった。
放課後――。
サキは大股に歩み寄って来た。おれとジュンは肩を並べて校門を出たところだった。
その瞬間、おれは目を伏せた。サキはおれが照れくさがっていると思った。
「気にしてる?」
「まあ……」
ロミオ役になったと言い出せなかった。隠せることでもないんだけれど、言えない。
後を追ってきた三輪が、おれをにらむと、
「どういう手を使ったんだよ」
「なんのこと?」
サキが訊いた。
「彼、ロミオなんだってサ」
三輪はジュンの表情をちらりと見て、答えた。
「ぴったりでしょ。わたしとスタディな彼だもの」
サキはバクダンを投下。
(ああ、なんでだよー。やっと、ジュンと仲直りしたっていうのに) 思った通り、ジュンの顔から表情がかき消えた。
「行こうか、ジュン」
三輪が軽く言うと、ジュンはやつと肩をならべ坂道を下って行った。
(待たんかい!)
そう言えたら……。
かわりにサキが言った。
「練習の成果があったのね。またやろうね。わたし、ジュリエットのセリフを暗記しちゃう」
次の日、どうして仲間が、おれとサキの関係を知ったのか、マサがこっそり教えてくれた。おれがシャワーを浴びている間に、サキはLINEで仲間に報せたのだ。『いまから、サキと寝る』と。
次の週を待たずに稽古がはじまった。
本番はまだ先のことだけど、毎日やると言う。
(あほな。運動部やないねんで。仮装大会に練習がいるんかい!) おれの心の声がみなに伝播したのか、だれもまじめにやる者がいない。ダラけきったところへ、三輪がやってきた。
「シェイクスピアをやるんだよ、キミたち」
「それがどないしてん。文句あっかっ!」
おれは恫喝した。
「芸術をおとしめないでもらいたいね。どういう意図で、演出するの?」
三輪の問いかけに、保田は頭をかいた。
「どういうって、長台詞はむりだしさ」
「覚えさせればいいじゃん。どんなバカでも、ひと月もあればできるさ。できないんだったら、そういうヒトは辞退すべきだよ」
「おれのこと言うてるのやったら、受けてたつで」
「ダブルキャストってのはどう?」と三輪。
ずっと黙っていたジュンが口を開いた。
「わたしきっとなってみせますわ。あの手練手管で、ことさらよそよそしく見せる女などより、もっともっと真実のある女に」
何を思ったのか、ジュンはジュリエットのセリフをなんの感情も交えずに発した。周りにいる者を唖然とさせたが、本人は顔色ひとつ変えない。しかも、だれひとり、言いがかりをつけない。理由は単純明快。ジュンほど美しいジュリエットはいないからだ。
おれは保田の作った台本をつかみ取り、
「ジュリエット、ぼくは誓います。見渡すかぎり、木々の梢を白銀に染めている、あの美しい月の光にかけて」
ジュンに負けないくらい棒読みだった。
「ああ、いけませんわ、月にかけて誓ったりなんか」
「では、何にかけて誓えばいいのです?」
「あなたご自身にかけて、誓っていただきたいのです。あなたこそわたしの神様、あなたのお言葉なら信じます」
「もしもぼくの心のこの思いが――」
おれは絶句した。
「本気でやれよ」と保田。
「ぼくはやってる」
ジュンはそう言って頬をふくらませた。かわゆい。思わず、ゆるむ頬を、おれはひきしめる。
「おまえらやったら、芝居やなくなると思うから選ばれたんや」
木村が言った。木村はいつもそうだ。おれとジュンを心にかけていてくれる。時々、胸が熱くなる。
「それって、きみたちの錯覚じゃないの?」
三輪は徹底交戦の構えだ。
「硬派の南川くんにタイツ姿なんて似合わないよ」
「きめつけるなっ」
おれは怒鳴った。
三輪は咳払いをすると、「足の長さが問題なんだよね」とつぶやいた。
「タイツ、はかんでも、ロミオになれる」
「じゃあさ。なま足でやるの。そのときはスネ毛を剃るんだろ。それはそれで、たのしみだね」
三輪はへらず口をやめない。
「じゃかましい!」
おれは三輪の胸を小突いた。
「ミークン、いやなん?」
ジュンはそう言って、顔を歪めた。
三輪は不適な笑を浮かべると、ジュンの耳元でささやいた。
「バカやってないで、予備校の特講へ行こうよ」
「なんやったら、おれ、ロミオとジュリエットのふた役でもええで」
おれが言うと、三輪はふんと鼻を鳴らし、「見物だね」と言った。
「その高ピーの鼻をむしりとったろかっ。踏みつぶしたろかっ」
みんなはおれたちの険悪な様子を歯牙にもかけない。
たのしんでいる。
初日の稽古は絶好調、ノリノリだった。
明日からもこの調子が続くのかと思うと、勇気リンリン。
帰り道、マサは真顔で言った。
「ドラキュラにかえたらどうでしょう?」
「おまえが主役におさまるんか?」
「先輩がドラキュラやるんやったら、美女の役でもかまいませんよ。おれ、こう見えても、なりきりますからね」
一緒にいた遠藤が、
「このさいや、お笑いもええかもしれんな」
そう言って、おれの肩に腕を回した。
「おれがロミオをやるべきや」
ケサマルが口をはさむ。なぜか、おれたちの輪の中にポメラニアンまでいて、吠えた。
「あんたたちの学校に乗り込むわ」
こういう時、気のきいたことが言えるといいんだけど、おれは不器用だった。
「やめてもええで、おれ」
「アホンダラ!」
保田が関西弁で言った。目が血走っている。おれがどんな思いで、この役をおまえに譲ったかとやつは言う。みな、唖然とする。
「おれの美意識が、おれの自我を抑えた結果なんだ」
「台詞か、それ。おまえ役者やな」とおれは言った。
次の日――。
飽きるほど棒読みの台詞を言ったあとで、
「もういっかい、やろう」
保田が言うと、全員がブーイングを鳴らした。
保田はめげない。怒り狂った顔なんて似合わないタイプなのに、目を吊り上げておれたちに罵声を浴びせた。
「ちょっとは真面目にやれーッ」
おれは台本を手にした。そして、気合いの入らない声と態度で台詞をぶつぶつ言った。
ジュンは黙って聞いていたが、自分が台詞を言う番になると、いきなりおれの手から台本を取り上げ、おれの頭を思いくそ殴りつけた。サキが人目を忍んで見学にやってきたことが、関係しているのかもしれない。
「することないッ」
「やる、おれ」
「もうええッ」
ジュンって、こんなに男っぽかったっけ。
「もっかい、お願いします」
もみ手こそしなかったが、1度も使った記憶のない日本語を口にしていた。他の連中もジュンの逆鱗に触れて、思いの外、生真面目に顔つきになった。
「かんにんしたれ、ジュン」
木村が取り成してくれなかったら、おれは確実にお払い箱だったろう。
ジュンは唇をきゅっと引き締めると、
「ミークン以外は、みんな出てって」
と言った。
サキはおれを一瞥したが、目をそらすと、連中と一緒に出て行った。
教室に人気がなくなると、ジュンはおれをまっすぐに見つめた。「もういらっしゃるの? まだ朝には間がありますわ」
2人が一夜を過ごした後の場面のセリフだった。
ジュンの手に台本はなかった。
「ひばりが鳴いている」
おれはゆっくりとジュンの手を取った。だれにも言わなかったけれど、おれは台詞を覚えていた。
「おびえていらっしゃるあなたの耳に、今きこえたのは、あれはナイチンゲール、ひばりじゃないわ」
それはたぶん、ジュンも同じだった。グランドから聞こえる、運動部の掛け声がおれたちに先を促した。
「いいや、朝を先触れするひばりだった」
「いいえ、ひばりじゃないわ」
「行って命を助かるか、グズグズすれば死があるだけだ」
「あの光、あれは朝の光なんかじゃないわ。だから、まだいいの。行かなくていいの」
「じゃあ、ぼくはもうつかまってもいい、殺されたっていい。きみがその心なら、おれは満足だ。ほんとうだっ」
おれはいつしか、虚構と現実の区別を見失っていた。おれはジュンを両腕に抱き締めた。
突然、三輪が侵入した来た。
「きみたち、ちょっと待て」
「なんやねん。せっかく――」
「いいところだということは、見ればわかるさ。でもさ、スタディな関係にならないほうがいいと思うよ。それって、けっこう、重いじゃん」
「ずっと、軽すぎたんや」
「外野席のおかげで<適切な関係が保たれたと感謝すべきじゃないか。わるいことは言わない。手を離せ。いまなら、まだ取り返しがつく」
「後悔せん、言うとんのが、わからんのかッ」
おれはサキと寝たけれど、アレとコレとはちがうと言いたい。だから、サキとのアレはなんでもなかったと今、はっきり言える。
「これから一生、付きまとう他人の心ない評価をきみたちは引き受ける気があるの?」
「ほんなら、おまえはその気もなくて、ジュンと付き合うてたんか」
三輪はせせら笑うと、
「きみにはない、哲学がぼくにはあるからね。それにもっとも肝心なことは、きみがジュンの本質を知らないことだ」
「三輪くん。もう行ってよ」
ジュンは小さく言った。
「ジュン、きみにプライドがないことはわかっている」
「ミークンのためやったら、ぼくはなんでもする」
「わかった」
三輪はサラサラの前髪をかきあげると、
「キミたちの不幸を笑っちゃうよ」
と言った。そして、彼は永久に消えた。
2人きりになると、特別に話すことなどなくて、ただ見つめ合うしかない。一時にしろ、どうして、ジュンを忘れることができたんだろう。うまく言えないけれど、もう、離さない。
「留学なんか、せんとけ」
「ミークンと一緒にいられるんやったら、どこにも行かへん」
学校の外に世界があるなんて、信じられない。なんだか、とっても、リラックスできた。
おれはジュンの髪に触れ、それから白い頬を両手ではさんだ。
世界でいちばん、きみが好きだと思ったそのとき――、
「ミークン、黒のスカーフ、あずかってくれてるよね。だれにも見せないでね。約束だよ」
ジュンの瞳が怪しく光った。
「どういう意味や?」
「とっても大事なものだから、だよ」
「おまえ、まさか……」
「なんにも訊かんといて、ぼくのこと、信じてほしいねん」
信じると言えなかった。