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物語の作り方 No.9

第4回  誰の目で書くか  

1)一人称と三人称の違い

 物語を書くと決めて頭を悩ますことの一つとして、一人称で書くべきか、三人称で書くべきかという問題に突き当たります。心にある思いを文章という道具で表現しようと思えば、どちらかを選択しなくてはならない。これは一見、技術的な課題だと解釈されがちですが、実際は、自分自身の心の揺れがそうさせている場合がほとんどです。ありのままの「個人」でいいのか、虚実を交えた「第三者」であるべきなのか――と迷う。

 表現したい自我と、他者の目に晒されたくない無意識下の自己の狭間で書き手は葛藤します。
 なぜか?
 一人称と三人称の違いを虚と実の相違と理解しがちだからです。
 一人称を実(事実=ノンフィクション)ととらえ、三人称を虚(偽り=フィクション)ととらえてしまうのです。どちらの技法で書いても、自らの深層意識に内包されている「自己」を客観視する作業の結果が、小説あるいは自分史という名の表現形式なのですから差異はないと思っています。
 端的に言うと、どういう形式の物語であれ、人や事物を誰かの目で描写する以上、虚であろうと、実であろうと、視点という観点から考えるなら、観察の有無しかない。すなわち、「見る」と「見られる」の関係をどう書き表わすかということに尽きます。

 今回から、視点の分類をおおまかに説明したいと思います。

2)一人称……私、僕、俺、など個人をさす呼び名で書かれた作品をさします。ノン

 ノンフィクションのジャンル(自分史をふくむ)。他者の目を拒み、自らの目で事物を「見る」作品をさす。

〈書簡〉
 このあいだ急に君を振り切って別れたのをあやまりたいと思う。この手紙でまずそれを果たして置く。是非トルストイの〈ロシヤ伝説〉を読むといい。先日話したドラクロアについての記事を、すぐ見つけよう。
 「ゴッホの手紙

 ゴッホは、弟テオ宛に膨大な量の手紙を書いています。理性的な文章は死の間際までかわりませんでした。狂気の末に自殺したとは考えにくい文章力です。

〈日記〉
 ヘンリーはわたしがもちつづようとしている叡知、真実に対する情熱(ジェーンが美しく、情熱に値することは真実なのだ)の邪魔をする。彼は温和さを信じず、爆発性のほうを好むのだ。わたしがいつも浮かべている微笑に挑戦するのだ。            
 「アナイス・ニンの日記

 アメリカを代表する作家ヘンリー・ミラーは妻とともにヨーロッパを旅します。そのとき、裕福な夫のいる魅力的な女性アナイスと知り合います。才気活発なアナイスはヘンリーと彼の妻ジェーンの双方と性関係をもちます。

〈伝承・伝記〉
 昔は東京にも、たくさんの珍しい伝記がありました。その中で、皆さんに少しは関係のあるようなお話をしてみましょう。
 柳田国男「日本の伝承

〈旅行記〉
 金をやる気になれなかった。この老人に渡したら、これから先、同じような目に遭うたびに、いつでも金をやらなければならなくなりそうだ。金が惜しいのではない。このような脅迫的な方法がいやなだけなのだ。
 沢木耕太郎「深夜特急」          

 柳田邦男先生はもとより、沢木耕太郎氏の文章には「私」が省かれています。翻訳されたアナイスの文章と比較すると、よくわかります。「ゴッホの手紙」が読みやすいのは翻訳者が主語の「私」を省略しているからです。
 外国映画を観ていて感じる方は多いと思いますが、字幕のほうが内容が短いと感じませんか?
 翻訳者でも言語学者でもありませんので、断定はできませんが、日本語の文章に「私」は不要とまではいわないまでも、多用すべきではないと思っています。
 なぜか――。
 音読するとわかりますが、耳障りになります。明治時代の文豪夏目漱石は「日本人には自我がない」と、苦しみました。アナイス・ニンのように、「わたしが」「わたしが」と連発する人が当時は少数派てあったのではないかと愚考します。

 気紛れな猫気質の漱石先生は英国に三年間留学し、いまでいうノイローゼ=欝にかかり、下宿屋にこもりきりだったと言われています。帰国後、小泉八雲に代わって帝国大学の英文学教授に任ぜられますが、ほどなく某新聞社の執筆者となり新聞小説を書き、ベストセラー作家となりますが、欝症状は改善しなかったようです。
 胃潰瘍に苦しみつつも、英国から取り寄せたジャムを家族には食べさせず、自分一人で毎日、ひとビン食していたそうです。もしかすると、くしゃみ先生の自我は強靭ではなかったのか?
 日本社会に閉塞感を抱いていた先生の沈んだ心を救ったのは、日露戦争で名を馳せた乃木大将とその妻の殉死でした。「自我」がないからこそ、「自己犠牲」が可能なのだと文豪は思い至ったようです。私個人の見解ですので反論も多々おありだと思います。お腹立ちの方は速攻で、読み捨ててください。

 フィクションのジャンル。個人の目で、自己あるいは他者を「見る」。私、ぼく、おれなどで書かれた作品

〈自伝的小説〉
 四月のあの日、ほんとうならぼくは学校にいなくちゃいけないはずだった。だけどぼくは、古い鉱山の近くにある丘の上にいた。ふもとにはうちの農場がある。         
 ロバート・N・ベック「豚の死なない日

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終抑えつけていた。焦燥といおうか、嫌悪といおうか――酒を飲んだあとに二日酔いがあるように、酒を毎日飲んいると二日酔いに相当した時期がやってくる。
 梶井基次郎「檸檬」                                       

「豚の死なない日」は子供の視点で描かれています。従って、「檸檬」にみられるような観念的な心理描写はありません。回想形式でないかぎり、一人称の子供の視点をつかうときは要注意。

 その頃のことはうっすらとした記憶しかないが、やがて遠い親戚の家へと引き取られてからのことは、はっきり覚えている。私はそこで何度殴られ、蹴られたかわからない。殺されることもなく生活をやり過ごすことが、希望だった。              
 中村文則「土の中の子供

 芥川賞受賞作の当作品を自伝的小説とするかどうか迷いましたが、回想形式にすることで、少年時代であっても観念的な言語の使用が可能になっている例としてここに取り上げました。

〈書簡体小説〉
 やっとこれであなたもご安心になり、そしてとくに、わたしの真価をお認めになるでしょう。そして、もうわたしを他の女たちと混同なさらないでください。       
 ラクロ「危険な関係

 この小説は、複数の視点をつかわずに、主要な登場人物の手紙で構成されています。内容は、フランス版「源氏物語」といってもよいかと思います。源氏との違いは、作者が男性であるせいか、女性のエゴとあやうさが余すところなく描かれている点です。

〈物語小説〉
 婦人は目を据え、口を結び、眉を開いて恍惚となった有様、愛敬も嬌態も、世話らしい打解けた風は頓に失せて、神か、魔かと思われた。
 泉鏡花「高野聖

 旅の道連れとなった上人から「私」が耳にする世にも恐ろしい物語です。一人称であっても作者の体験ではなく、豊かなイマジネーションによって創作されています。 次にあげる遠藤周作の作品も、一人称の視点ですが、戦時中の生体実験が題材です。彼の思想がベースとなった作品だと思います。

 本能的にぼくは大人たちがぼくに期待しているものが、純真であることと賢いこととの二つだと見抜いていた。あまり純真でありすぎてはいけない。けれどもあまり賢すぎてはいけない。     
 遠藤周作「海と毒薬
   
 他者の目を通して、自己の分身(自己投影された存在)を「見る」

 あわただしく、玄関を開ける音が聞こえて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのままだまって寝てしまいました。
 太宰治「ヴィヨンの妻

 泥酔の夫が太宰本人をさし、「私」は彼の妻です。自伝的小説ですが、現実をありのままに表現したのではないことはたしかです。

 動物や物などを通して、事物を「見る」。

 吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。      
 夏目漱石「吾輩は猫である

 漱石先生は、猫の目を通して、自身を滑稽に描き、世間の目を欺く諧謔趣味があったようです。

 物を通して、物語る小説を読んだ記憶がないと知人に話したところ、ライトノベルの小説を教えてくれました。いまも連載中で、アニメにもなっているそうです。自販機に転生する物語だと言ってスマホを見せてくれました。
 タイトルが長い! 作家名は昼熊さんです。

  「自動販売機に生まれ変わった俺は迷宮を彷徨う

  プロローグ

「俺たち、死ぬのかな……」
「そんなことはねえっ……って言いたいところだが、無理だろうな」

2)二人称小説……あなた、きみなどの相手をさす呼び方で書かれた作品。きみという存在を、書き手である自分自身が「見る」。

 きみはそんな男ではない。
 夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない。しかし、いまきみのいるのは、間違いなくこんな場所なのだ。
 ジェイ・マキナニー「ブライトライツ・ビック・シティ

 後にも先にも、二人称小説を読んだのはこの一冊だけです。作者のマキナニーは、「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーの再来と謳われました。映画も観ました。ビック・シティとはもちろんニューヨークをさします。大都会の片隅に生きる青年の孤独と諦念が描かれていました。
 二人称小説を書くことはほぼないと思います。なんの参考にもならない。ただこの小説にかぎって言えば、自分自身を「きみ」と呼びかけることで、孤独感が一層つよく感じられる不思議な小説です。80年代の小説ですが、いま読んでも、新しい。そういう点で、「ライ麦――」と同質の作品だと思います。時代背景を描きながらも、時代を越える普遍性がある。そんな小説に出会うこともまた生きるよすがとなる気がします。

課題①一人称小説を書いておられる方は、ぼく、わたし、おれなどのところに一括変換で、名前に変えて読んでみてください。そして、もとにもどしてください。ほぼ変わらないことがわかると思います。 

 作家の伊藤整氏は、原体験を虚構化して、はじめて小説になると書いています。「嘘から出た実」ということわざもあります。物語るという作業は時の流れに小さな杭を残すことではないかと、思っています。胸に沈殿した重いものを、言語化することは生易しい作業ではありませんが、書かずにはいられないことが、だれにでも一作はあるはずです。
 次回は、三人称小説を解説します。

 ここまでお目通しいただき、ありがとうございます。


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