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南ユダ王国の滅亡(6/9)
あらすじ
ハマトで陣を張るネブカドネザル大王のもとへ。魔女と恐れられているアリスと再会。ダニエルは王の信任を得る。ミカエルは神戸に帰ろうとルーシーに言うが、ルーシーは聞き入れない。
15 神界文書
混乱と喧騒ののち、リュックを背負ったわたしとポシェットを肩にかけた秦野とルーシーとドラとはアククゥツにまたがり、ダニエルがいるかもしれないハマトへ移動した。バビロニア軍と捕虜の一行は少なくとも10日近くかかって、ハマトへ到着したはずだ。わたしたちはそれを一瞬で、移動した。時間と空間を飛び越えたことになる。駐屯地の入り口にいた見張りの兵士らは、目の前を通過しても身じろぎひとつしない。エリコで捕縛されたわたしたちは宦官長の命令で移送されたように記憶が変更されているのだという。
「例の無限大のまじないをやったん?」
【あの女が、上書きしたようです。天使長と天使の名代である、われわれとしては魔力を倍増させる黒猫との同行を断固拒否すべきなのですが……現在の状況では致し方ないでしょう。グゥワン】
エリコの族長からもらったターバンを、わたしは頭に巻いているが、瞬間移動したせいか、肌寒い。ルーシーも寒いのか不機嫌だった。
文字盤の針は7分経過し、6時28分59秒。
「一瞬で空間移動もできるんやったら、もとの時間と場所にもどれるゆーことになれへんか。移動するたびに時間がすすんでる気がするねんけど」
【彼女の場合、時間は進みません。あなたの場合は使命を達成する行いをすれば、時は動くのです】
「秦野が上書きしたせいで移動したんやったら、時間を動かしたことになるんやないの?」
【彼女と黒猫がタッグを組めば、起動時に外部からの――この場合は魔界からのサイバー攻撃による妨害が濃厚ですが――魔力によって、われわれのファイアウォールが機能しなくなったのかもしれません。あるいは、キー=配列番号が操作され、アルゴリズムに狂いが生じたか……。ウグゥグゥ。天界の電波管理局にIFFの必要性を申し立てたるべきかどうか迷っています】
「IFFってなによ?」
【敵味方識別装置の略です】
「仮に秦野と黒猫のドラが、アタシらの敵やったとして、それでどうなるん?」
【下位の天使には、派遣先に関する機密事項のごく一部しか知らされていません。言い訳になりますが、大祭司の子が偽物だと気づかなかったのはそのせいです。魔界から送りこまれた彼らはちがいます。この世界の森羅万象を熟知しています。何より、われわれの心さえ操る能力に長けています。そうです。あなたのわたしへの信頼を失わせる企みをつぎつぎと仕掛けてきています。わたしの権限はかぎられていますので、あなたは今後、彼らを遠ざけることに苦慮するでしょう。そうしなくては針は1秒たりとも動かなーい】
「ひょっとしたら、秦野と猫組のほうが、アタシと犬組よりパワーが勝っているのかもしれんゆーことなん? それやったら、アタシだけでもあっちの組に入れるように秦野に頼んでみよっと」
前を歩いていた秦野がふいに振り向いた。
「ミカエルさぁ、丸坊主の頭ってぇ、似合ってるようでぇ、似合ってないんだけどぉ」
「だからターバンをしてんだよ」
「もっとぉ、ヘンよぉ」
【『悪しき者の口は悪をむさぼり食う』箴言19章28節】
ルーシーとのワンワン語は秦野には通じないらしい。
「あのさぁ、いくら兵士にぃ気づかれないからってぇ、しょっ中、ワンワン吠えてるとぉ、余計な人間がぁ、出てくるわよ~ん。黙らしなさいよぉ。ひと思いにぃ殺しちゃえばぁ、どうかしら~ん」
ルーシーは狂ったように吠える。ついでに、頭を無限大の形にふった。
【相殺の担保機能が働いたせいで黒猫を連れているのかもしれません。1995年時点の彼女は、直感力のある右脳が異常に発達している天才であることはわかっていましたが、少なくとも悪魔の手先ではなかった。彼女の脳細胞は悪魔に汚染されている。除染の必要があります】
ウッウッウーッと真っ黒の鼻の穴をひろげて唸り出す。
【天界から遣わされたわたしたち天使組が、魔界から派遣された悪魔組に鉄槌をくださなくてはなりませんワン!】
「アンタや秦野がどう言おうと勝手やし、したいようにしたらええねんけどな、アタシのことはほっといて欲しいねん」
【猫は許容できない! 尻尾に百円ライターで火をつけ、火あぶりの刑に処すべし】
「あっちにいたときのアタシやったら、ヤル気になるかもしれん。けどいまは、お互いに助け合うべきやと思うねん。同じ町内に住んでたんやし」
【甘い! あなたはサバン・秦野の悪徳に侵された本性を知らなーい! 周囲の人間を意のままにあやつる彼女こそ、獣にまたがる大淫婦! 父親さえ惑わされていた】
「あっちで秦野のパパと会うたことないのに、なんでいろいろ知ってるん?」
【散歩の途中でなんどか会いましたからね。わたしの目からのがれられる人間はいません】
疑わしい目をすると、
【あなたが彼女からくすねた石をわたしのターバンの内側に張りつけていることはむろん承知していますよ。それはまあ由としましょう。許しがたいのは、エルサレムの神殿でのことです。お神酒用の神の器もいくつかパクりましたね】
うろたえるわたしに、
【悪魔は美貌に宿ると言います。青あざがあり、出目で口裂け女のあなたは大丈夫ですが、かつて美女の誉れ高かったわたくしは魔猫に取り憑かれる恐れがあります。グゥワン。天使派遣法の詳細を記した〝神界文書〟の機密事項の漏洩がやはり大きい。悩みがつきない。ウーッ、ウーッ】
「神界文書とかあるん?」
無限大のまじないが消えたのだろう。秦野が唐突に口をきいた。
「坊主頭にターバンを巻くよりぃ、金髪のほうがぁ、ミカエルらしい気がするのよぉ。ドラちゃんにたのんでぇ、もとにもどしだげるぅ」
黒猫がわたしの足元にきた。
【ああっ】とルーシーは大げさに嘆き、【なぜ、このような苦難にいくどもめぐりあうのか……。神の御光がふりそそぐ天界は多忙でしたが、部署によっては快適でした。だれあろう、このわたくしルーシーは、本部総括管理官のご命令でGLWZ=天界において、第一秘書官をつとめた時期もあったのです。懐かしいワン】
「ついさっき、煉獄にいたような――」
ウッー、ガゥゥとルーシーは噛みつくような唸り声をあげて黒猫を抱きあげたわたしを黙らせた。そして、たたみかけるように、秘書官室には金細工のほどこされた脚の長いテーブルがあり、神戸牛と高級ワイン、ゲーム盤が常に用意されていたと言い、
【選びぬかれた家具に美味な食事。しかし、幸せな時間は長くつづきませんでした。汚れきった現実世界には、心を安堵させるものは何ひとつなーい。悪臭のする猫と同行するなど今世紀最大のピンチ。グゥワン。神よぉー、裁きを!】
秦野が腰に手をあてて、「やかましい犬ねぇ。アリィ、ぶちキレそぉ」
「キレる前に、みんなでいっしょに神戸に帰ろうよ。このさい、秦野とでも我慢するわ。瞬間移動できるように上書きしてよ」
「帰るのはだぁーめ。ダニエルのいるハマトにきちゃたんだしぃ」
「ダニエルを知ってるのか?」
「あっらぁ! もうすぐぅ、マドンナなみに有名になるわよぉ、美少年くんは」
ハマトの荒野には見渡すかぎり、黒い天幕が建ち並んでいる。バビロニア軍のテントは同一規格らしい。おびただしい数の篝火が漆黒のテントの入り口を照らしだしているが、異様に静かだった。黒い天幕の群れに兵士の影は見えない。
「行くわよ~ん」
秦野のひと声で、ダニエルが囚われているという天幕へむかう。
「ダニエルと会ってどうするつもりなんだよ」
「も・ち・ろ・ん。殺すのよぉ」
「ルーシーの言うとおり、敵なのかも……」
つぶやくと、
「だってぇ、アリィはぁ、有能な魔女よぉ。ダニエルったら、世界が終わる預言をしておいて、2500年以上も経ったのよぉ。アリィはぁ、ダニエルのぉ、生きてるこの時代に世界を木っ端微塵にしたいわけぇ。もちろん、ミカエルとぉ、協力してよ」
「そんな予定は立ててない」
「アリィの魔力を信じてないのねぇ。わかったわぁ、頭を触ってみればぁ?」
ターバンの下の頭に手をやると、数ミリしか髪が生えていない坊主頭だったが、ウニくらいのイガイガ頭になっている。
「えーっ! まさか!」
「犬がぁ、その場しのぎにやった小細工とは大違いよぉ。こんどこそ正真正銘の金髪なんだからぁ」
【ああっ。あなたはこれで悪に染まってしまった】とルーシーは嘆く。
「金髪になって、どうなんかなぁ……。いまとなっては似合う気がせん」
「だまってぇ!」
八角型のひときわ大きな天幕の前で秦野は立ち止まった。2階建ての高さがあり、てっぺんに旗がひるがえっている。ここでも警護の兵士らの目にわたしたちは映らないようだ。
「本気でダニエルを殺すつもり気なのか?」
「疑うのぉ?」と秦野は言って、人差し指で首を斬る真似をした。「ほっておくとぉ、〝神の杖〟になりかねないからぁ」
「神サンは杖をついているのか?」
ルーシーはギャンギャン吠えているだけ。もしかして、秦野の魔力に負けているのかも。
「バビロニアを滅ぼす元凶となるダニエルにはぁ、来たるべき神の王国を後世の人間にぃ、知らせる役目があるのよぉ。新約聖書の『ヨハネの黙示禄』には、終わりの日にぃどんなふうにぃ、人類に災厄がふりかかるかだらだら書いてあるわぁ。だからさぁ、エルサレムにぃ、何かあるたんびにぃ、聖書を知ってる人たちはぁ、恐がるのよねぇ。とうとう裁きの日がくるってぇ。そーゆーの、ウザくない?」
万有引力の発見者ニュートンは晩年、ダニエル書の解読に熱中したという。〝終わりの日〟がいつなのか、知りたかったらしい。
「近代科学の祖と言われたのにぃ、冷酷でぇ嫉妬深い神サンをぉ、信じてたのよねぇ。びっくりぃ。暗黒の中世が終わってぇ、近世になってもぉ、いったん宗教にぃ侵された頭はぁ、そうやすやすとぉ、変わらないのよねぇ。人類のほとんどが死ぬ日を計算して待つなんてぇ、ひどいと思わない? ダニエルを抹殺しなくちゃ。でね、わたしとミカエルが、先手を打って、この世界をぶっ壊すのよぉ。ぞくぞくしなーい?」
ルーシーの目が怒りに燃えている。
「ネブカドネザル王が秦野を見限ったから言ってるんだろ? 殺しあいがフツーの世界で、もめ事は起こすべきじゃないと思う。しつこいようだけど、いますぐ神戸にかえろうよ」
「先に、石を返しなさいよっ」
秦野が要求すると、ルーシーが怒鳴り散らす。
【魔の手からダニエルさまをお守りするために、わたしたちは派遣されているのです! 魔女や魔猫と行動をともにすることが、どれほどの罪科と苦悩をもたらすのか、ゴボテンのあなたには理解できなーい! ダニエルさまに危害をくわえる企みをもつ魔女を、ただちに消去し、ゴミ箱に捨てるべきです。でないと、天使長の使命は果たせません! もとの世界にもどれません!】
秦野はわざとらしく肩をすくめると、
「この犬、狂ってるぅ? こわーい。狂犬病の予防注射、受けてるぅ?」
ルーシーが跳躍し、秦野に飛びかかった。
秦野が悲鳴をあげた。
「大げさだろ」と言いつつ、ルーシーの背中を抱きしめる。
「アリィを取るか、犬を取るか、どっちかにしてよっ」
「フツーにしゃべったほうが、聞き取りやすいな」
「どっちなのよっ」
「犬に決まってる」
腕の中で暴れていたルーシーは、静かになった。そして、わたしの頬をペロペロとなめた。顔中が唾だらけになる。
「ド変態!」と秦野はわめいた。
「もともと人間が苦手だからさ」
「わたしは魔女よ。犬以下の扱いには耐えられないわ」
「こっちは魔物なんだからさ、魔女のご機嫌をとる気なんてこれっぽちもないんだよ」
秦野は肩を上下動して息をしていたが、わたしが彼女にむかって人差し指で五芒星を描こうとすると、顔色を変えた。
「わかったわ。いまはまだダニエルを傷つけないわ」
隅々まで見渡せない広さの天幕の中に入ると、天井の高さに驚いた。
高価な馬が盗まれないためのようだ。
アククゥツは当然のように水桶に首をたらし、水を飲んでいた。
【ハカシャ……】と、ルーシーは安堵したように鳴いた。
異様な風体の2人と2頭の出現にハカシャは一瞬、緊張した様子だったが、すぐに平静になり、口をひらいた。
「ご無事でしたか?」
「ダニエルや他の者たちはどこに?」
訊き返すと、ハカシャは黒衣の秦野をなるべく視野に入れないようにして言った。
「ダニエルさまは、髪を乱し、頬を汚せば下働きの侍童で通るとおっしゃり、大祭司のアザリヤさまのもとへ、みなと行かれました。わたしは留守役を仰せつかったのです」
「あっらぁ! 置き去りにぃ、されたのねぇ。足手まといになるってぇ、思われてるんだぁ~」
「そんな……」とハカシャの顔色が変わった。
「捕虜はどこなんだ?」とハカシャにたずねる。
この場所はハマトとリブラの中ほどにあり、大祭司ら捕虜はハマトに近い荒野にいるという。急ごしらえの囲いに入れられ、飲みものも食べものも与えられていないそうだ。
歩兵と弓兵は監視役なので、ここに残っているのはわずかな警備兵らしい。
「わたしたちはこのように遇されていますが……わが家の召使や不自由民らはあちらです」
「なんのために大祭司のもとへ?」
「3カ月前と同じように、バビロニア王がつぎの王を決めるさいに、油そそぎの儀式を行なえる大祭司に用があるようです。当の大祭司は、陛下とともにエルサレムに戻らなければ儀式はできないと言ってきかないのだそうです」
「大祭司を宥めるために、シャムライたちも一緒に行ったのか?」
秦野は赤紫色に染めた長い髪をいじりながら、ハカシャの話す様子をじっと見つめている。彼女の瞳には不可思議な色が宿っていた。緑色に朱が交じっている。
ハカシャはいたたまれない様子でうつむいた。
「明朝、捕らえられたユダの戦士の処刑があると聞きました。大祭司は、ネブカドネザル王を呪咀し、王の目の前で死ぬつもりです」
「死にたい人はぁ、死んでもいいんじゃないのぉ。エジプトのファラオにぃ密書を送ったのはぁ、若い王ではなくってぇ、下っぱの祭司に命令された誰かさんだと思うからさぁ」
秦野はこともなげに言った。
「そんな勝手なことをする者がいるのか?」
ハカシャはわたしの問いには答えずに、
「わたしたち捕虜は到着したばかりなので、バビロニアの王は、ダニエルさまのお顔を知りません。万が一のときは、わたしはダニエルさまの身代わりになるつもりです」
天幕の外から野太い声がした。
「陛下のお呼びだ」
「着替えてすぐまいります」とハカシャが答えた。
「黒猫の魔法で、アタシをダニエルに似せてよ」
秦野に頼むと、
「いくらなんでも会ったことのないのにぃ、ミカエルをダニエルに変身させられないわよぉー」
「ダニエルを知らないのか?」驚きを隠せなかった。「知らない人間を殺すつもりなのか? なんでも知ってるわけじゃないのか?」
「わたしのことは気にしないでください。家族が殺されたときからいつかこうなると覚悟していました」
健気なハカシャの決心に水をさすように、秦野は、「こうなるとぉ、わかってついてきたんだからぁ、いいんじゃないのぉ」と言った。
「薄情すぎるだろ」
「もといた世界でぇ、アリィがぁ、助けを求めたとき、ミカエルはぁ、アリィを見捨てたじゃないのぉ。友達じゃないって」
「いま、それ言うか」
あの日、魂と魂がぶつかった瞬間に感じる大切な何かにわたしは目をつぶったのだ。
【余計なことは考えなーい!】
ルーシーはまたもや頭を無限大の形に振った。秦野とハカシャの動きが止まった。
天幕の外で待つ兵士も停止しているだろう。
【天界と魔界は不測の事態を避けるための交流機関というか、最悪の場合を想定して、双方のトップ同士が話し合いをする窓口はありますが、地上で偶然に遭遇した相手に関する情報を得るには、あらゆる事象の記載がある神界文書のサイトにアクセスしなくては判明しません】
ルーシーにペットボトルの水とのど飴3個を提供する。
たちまちダニエルのホログラムが出現した。
秦野とハカシャが動き出した。
「あっらぁ!こんな顔なのぉ。ダニエルってぇ、ビジュアルがぁ、涼子先生の描く厩戸皇子さまと似てるよねぇ~。とくに妖しい目の感じがぁ。ねぇ、ねぇミカエルも思うよねぇ。ほんとうは策士かもぅ。身代わりになったら殺されるかもよぉ」
ハカシャはダニエルのまぼろしを見て、涙を流した。
「近しい親族はみな死にました。ダニエルさまだけが希望です」
ルーシーに訊く。「アンタ、ほんまは神界文書にアクセスできるんやろ?」
ルーシーはのど飴でふくらんだ頬をさらにふくらませて、
【なんのお話でしょうか?】
「さっさと変身させてよ」魔女の秦野をせかす。
「ミカエルの目は妖しいと言っても、キモい感じだしぃ、むりかもぉ」
「わかってんだよ、そんなことはっ。アタシは、呪術師のミカエルとして行くことにしてんだよ」
「どうしてぇ、身代わりになりたいのぉ?」
「自分でもよくわからないんだけど、ネブカドネザル王に会ってみたいんだよ。アンタは会ったんだろ?」
「ちょっと待ってぇ。お化粧したげる」
秦野は肩に斜めがけしたポシェットの中から手探りで化粧品を取り出す。
「下地を塗ってぇ、デコレーションケーキみたくファンデーションを厚塗りしてもぉ、土台が土台だからぁ、よけい、ぶさいくになるだけよねぇ」
「アイシャドウを塗って、付けまつげをつければ――なんとかそれらしく」秦野の手は忙しく動く。「三白眼のゾンビにしか見えないわよぉ」
秦野はそう言うと、ホログラムの映像に自らを重ねた。
「代わってあげたいけどぉ、サイズだってゼンゼンちがうしぃ。肌の色だってえ、あっちは象牙色を白くした感じだし、アリィはアーリア系だからぁ、透明度が高いのぉ。わかるぅ? この違い?」
ハカシャは秦野を押し退け、
「ダニエルさまに代われる者などこの世にいません」
「容姿ならぁ、いくらでもいるわよぉ。神にぃ、選ばれたってぇ、大祭司が格付けしたからぁ、輝いて見えるのよぉ」
「神は傲慢な者を、もっとも疎まれます」とハカシャは言い返した。
「バッカじゃないのぉ。美しさの基準なんてぇ、個人の感性で決まるものなのよぉ。アンタは頭だけじゃなくってぇ、視力まで洗脳されてるのよぉ。アリィは、そういうの、いちばんきら~い」
秦野とはじめて意見があった気がした。
「まあ、そうだよな」
わたしが同感すると、秦野はハカシャの肩をつかんで一回転させた。すると、ハカシャはダニエルと見紛う容姿に変身した。
「気が向いたときだけぇ、いろいろできちゃうのよぉ。うふっ」
「さいしょっから、なんでやらないんだよ」
ハカシャは、「ただいまより、ダニエルさまの身代わりになると、ダニエルさまにお伝えください」
代われる者などいないと言ったはず。小柄で胸幅の狭いハカシャを見ていると、感電したような気分になる。養護施設でひとりぼっちでたたずんでいたときの記憶が鮮明によみがえる。だれでもいいから、助けにきてくれと願っていたころのわたしに似ていた。
天幕の入り口のたれ幕を引き上げる者がいた。
呼び出し役の兵士かと思ったが――、顔を出したのはデイオケスだった。
彼の第一声は、「どうしてここに?!」だった。
「すぐに再会できると申し上げましたわ」と秦野は答えた。「先に陛下ともお近づきになりましたのよ」
「祖父もほどなくこの地に移動してくるはず――」
デイオケスはアククゥツを見た。
「なぜ、祖父の愛馬を連れているのだ?」
「実はさぁ……」
わたしは迷いつつ、フラワルティ総参謀長の死をデイオケスに告げた。総参謀長にそのように頼まれていたのだ。
「祖父がっ!」デイオケスはわたしの胸ぐらをつかんだ。
「宦官長の手先に殺されたんだ」
と言うと、
「なんと!」
デイオケスはこぶしで胸を叩き、
「かねがね宦官長は信用ならぬと、祖父は申していたが、やはり……。無念だ。仇はかならずとって見せる」
デイオケスはアククゥツの手綱をとり、「馬を届けてくれたことには礼を言う」と言って天幕の外へ消えた。
【ああ、わが唯一無二の友、アククゥツと引き離されるとは!】
ギャンギャン吠えるルーシーの頭を撫でる。
秦野はアシュペナズからプレゼントされたという赤めのうの指輪をいじりながら、「これだから男なんて、信用できないのよ。せっかく再会できたっていうのに、復讐のほうが大事になるんだから……」
「デイオケスが好きだったのか?」
「ミカエルったらぁ、お芝居にすぐひっかかるんだからぁ」
ハカシャは秦野の手鏡に見入っている。
「アリィの石はいつ返してくれるのよぉ~ん」
「なんの話してんだよ」
「アリィのほんとの名前、知りたくな~い?」
「ない」
「二宮巳玉ってゆーのぉ。巳玉の巳は12支の6番目の巳さん」
やはり、ヘビ女だったのか……。
「ほーんとはね、ミカエルといっしょなのよぉ~ん、もとは捨て子だったのぉ。白ヘビをお祀りしている神社のぉ、宮司さんに拾われたのぉ。でねぇ、すごーく色白だからぁ、竜神さまをお守りする白蛇にちなんで巳玉になったらしいのぉ。だからぁ、これからはぁ、ミタマって呼んでよね」
「外来種にしか見えないけどさ」
「世界を壊すのがイヤだったらぁ、石を使ってぇ、革命を起こすのはどお? おもしろいかもよぉ~ん。んでぇ、クレオパトラみたく女王にぃなるなんてぇ、どうかしらん。やっぱりぃ、クレオパトラはやめとくわ。ヘビの毒で死ぬなんてヤだもん」
「石がなくたってなんでもできるんだから、勝手にやればいいじゃん。なんでそうしないんだよ?」
【わたしに事情があるように、彼女にも事情があるんですよ】とルーシーは言う。
「もおぉ、石はいずれ取り返すからぁ、覚悟してなさーい」
「革命なんて、『ベルバラ』の読みすぎなんだよ。アンドレとオスカルみたく死んでもいいのかよ」
「アリィねぇ、ほんとはぁ、とっーても悪い子なのぉ」
秦野はそう言って下唇を赤い舌で舐めると、黒猫を抱きしめた。
「わざわざ言わなくたって、脳天を殴られる前からヤなヤツだとわかってたよ。何をいまさら」
そう言って魔術を封じるために口の中で、木・土・水・火・金の順に唱えながら五芒星を指先で小さく描く。背中をむけて、印を結び、「去れ」と言った。ふりむくと、秦野はその場に座りこみ黒猫を抱いたままうとうとしはじめた。効き目はうすいのかもと不安を感じていると、なぜかハカシャまでが眠りに落ちた。
【王に拝謁してきてください】とルーシーは言った。【命を使う使命を果たすときですワン】
「ヴィジョンのネブちゃんと本物とどう違うか、知りたい」
【ダニエルさまのお命を救うために行くのです。事と次第によっては、王を暗殺してください。わかりましたかーっ】
「そんなことしたら、ダニエルはバビロニアで、えらい人になられへんやないの」
【王には数人の身代わりとなる者がいます。相手がもし本物でないとわかれば、殺してください】
「わけがわからん」
【宦官長は、本物を殺して、偽物を王に仕立てて、バビロニアを牛耳る魂胆でいます】
「アタシはただのアオガエルやから、暗殺なんてできる器やありません」
と言ったあと、わたしは、わざとらしくルーシーに両手をすり合わせて懇願する。
「さっきは気紛れで、ハカシャのかわりに行くようなことゆーたけど、あれはさ、いっときの気の迷いやったわ。ガブリエル天使の名代のルーシーさま。いっしょに逃げてください。ネブちゃんて恐そうやもん」
こわがってみせると、
【悪魔憑きの魔猫のせいで帰還計画の行程が大幅に狂いました。あなたに急かされ、効率化を追求しすぎたせいです。何事も手っ取りばやく片付けようと焦ると、よい結果を生みません】
「あんたも秦野といっしょで、もとの生活にもどりたないんや。そやから、わざと帰らへんように企んでるんや」
こんどは拗ねてみせる。
【友誼を誓った友を疑うのですかーっ】
「知的な犬材が、活躍できひんあっちの世界は悪魔をのさばらすことになって、地上は近日中に廃園になると思うわ。そやから1日も早ように帰るべきやって――そのほうが、天使長として活躍の場があると思うねんけど」
【適切な造語を思いついたと得意満面ですね。ただし、多くの人は頭の中で、犬材を建材と廃園を肺炎に変換して聞くでしょうから意味不明ですよ。グゥフフフン。わたしは手始めに、悪魔の手先を地獄へ送り返してやりますワン。ヘビ女は、わたしたちを毒殺するようにアシュペナズに命令されているはずです。彼女の指輪の中には酸化銅が入っているワン】
秦野の指から指輪を引き抜き、自分の左足の中指にはめる。彼女は幾何学模様の敷物の上に丸まって寝息をたてはじめた。長い枕もあって快適なようだった。
天幕の外に出ると、姿を消したはずのアリオクが待っていた。迎えにきたという。以前のようにユダヤ人とかわらない布製の平服ではなく、皮製のベストにズボンと靴をはき、ひもで結わえた短剣を腰に携えていた。
「ダニエルではなくわたしをか?」
「おまえは、ナイードのしたためた通行証を所持している」
「黄金の被りものは失ったが、いいのか?」
「わたしの裁量に任されているので、おまえでいい。ただし、余計なことを口走れば命はないと思え」
「何が余計なことなのかが、わからん」
そのときルーシーの声が聞こえた。
【わたしは王の前に出ることは許されません。どうか、あなたとわたしに課せられた使命を果たしてきてください。注意事項その1.ダニエルさまの名をかならず王に印象づけてください。でないと、あなたはもとの場所に永遠にもどれません。その2.希代の英雄ネブカドネザル王のことは、敬意をこめて陛下とお呼びするように。たとえ、身代わりの王であっても、暗殺するさいは、陛下、お命をいただきますと言ってください】
時計を見る。時間に変化はない。アリオクの用意した馬に乗り、松明をかかげた護衛兵のあとについて、土を踏み固めたような道をすすみ、リブラ市内にむかった。
アリオクは何を企んでいるか? おそらく彼は、護衛長の職にある一方で王の密偵なのだろう。
城壁の輪郭が闇に浮かびあがる。
男たちの騒ぐ声が聞こえた。騎兵ら上級兵士の大半は町に繰り出している気配だった。
先導するアリオクに従って城門横の通用門から町に入ると、ひと目で見渡せない広場は興奮の坩堝と化していた。
広場の至るところに篝火がたかれ、真昼のように明るい。酒場と思われる場所からはみだした男たちは、嬌声をあげる女たちをはべらせ、そこら中に座りこみ、酒盛りをしていた。
彼らはわたしたちに目もくれなかった。
「かつてのリブラ(現リブレ)はダマスコ王国の都だった。いまとは比較にならぬほど栄えていた。美しい都だったと聞く」とアリオクは言った。「アラム人の建てたダマスコ王国はアッシリアの王に税金を課せられても聞き入れなかった。リブラはシリアのハマト、フェニキア、ダマスカス、エルサレムを結ぶ街道に位置し、隊商や軍隊が水と食料を補給しなくてはならないオアシスだった。繁栄したリブラは反アッシリア同盟の旗頭となった。同じように税を拒む北のイスラエル王国やフェニキアの名だたる都市国家と手を結び、アッシリアに対抗した時代もあったのだ。それがいまではバビロニアの支配下にある。強国となる国はめまぐるしく変遷していく――月も日毎に形を変え、星の位置さえ変わる。太陽は変わらぬが――神も」
今宵は星月夜だった。
漆黒の天空を埋めつくす星々だけはもといた場所にないものだ。敷石で囲われた公共の水場=オアシスがあり、町全体を見下ろす高い塔が行く手にそびえていた。塔は石造りの堅牢な建物群を守っているように見えた。
喧騒から遠ざかるにつれて灰色の町並みを縦横にめぐる石畳の道が月あかりに映えてきらめき、夢の中の迷宮をさまよっているようだった。王の宿泊する建物に近づくにつれて、アリオクは、くれぐれも失礼のないようにと言った。かつてのダマスカスの君主・シドンが所有していた建物を王は気に入っているという。
煉瓦造りの門前には、ものものしい出で立ちの王の親衛隊が警護していた。
門をくぐると、静寂な闇がひろがった。
彼の後について兵士の立つ門を通りぬけると、厩があり、厳重に警備されていた。
建物の内部に入る前に、武器の有無をたしかめられた。
アリオクに促され、王のいる部屋に通されると、透けて見えるカーテンのむこうにいる王はありふれた木の椅子に座っていた。背後に天蓋(屋根)つきの寝台が見える。扉の前には若い兵士が直立不動の姿勢でいる。部屋の隅には床に座し、竪琴をつまびく侍童がいる。2人とも表情を消しているが、どこか不安げだった。
筒型の帽子をとり、いっさいの装飾品を外し、グレーの平服姿の王はひと回り小さく見えた。足を組み、背中を丸め、両腕を重ねてひざにのせている。20代半ばのはずだが、謁見の間にいたヴィジョンで見た王とは著しく印象が異なっていた。
「どうか王よ、とこしえに生き永らえますように」と、低頭し、教えられた通りのあいさつをした。
灯りは、椅子のそばの陶器に見えるランプが1つ。薄闇の中に王ひとりが浮かんで見える。戦闘意欲にあふれ、エネルギーに満ちた姿は影をひそめ、感情や思考を停止したような無気力な気配が全身をおおっていた。
ルーシーにもこのヴィジョンが届いているだろうか……。
わたしは急いで、五芒星の結界を張った。なぜか、そうしなくてはならないと思った。身の危険を感じたからではない。室内に嗅いだことのないにおいが満ちていた。ハーブを焦がし、アルコールを混ぜたような強いにおいがした。頽廃とはどのようなものかわからないが、王から感じられるのは魂を失った脱け殻だった。
「陛下、ナイードが推挙いたしました呪術師がまいりました」
アリオクが声をかけると、王は夢から覚めたように面をあげた。カーテンごしであっても憂い顔が見てとれた。
「おまえはだれだ? 何を言いにきたのだ? ほっておいてくれ。眠らなくてはならんのだ。からだに塗る沒薬が足りぬ」
「陛下がお召しになられました呪術師にございます」とアリオクが言葉を添えた。
「呪術師……余を呪いにきたのかっ。下がれっ、下がれっ」と王は激怒した。「異様な風体でパレスチナに現われ、世迷い言で余を悩ませるのは目的あってのことだ!ハランの地を支配するナイードは信をおけぬ。どこの国のだれの手先かは知らぬが、ヤツは余にうまく取り入ったつもりでいるのだ。ヤツめの住むハランには、月神シンを祭った地下の洞窟があるらしい……」
王の声は次第に小さくなり、王にしか見えない宙にうかぶ何かを手ではらいのけようとしている。
「陛下……わが君」
アリオクは王を落ち着かせようと、カーテンに近寄り、ひざまずいた。
「陛下の忠実なしもべ、アリオクでございます」
ヴィジョンでは気づかなかったが、王の頭髪もあごひげもわずかしかない。帽子と付けひげで、王は帝王を演じていたのか?
それともヴィジョンの王は偽物だったのか?
王は顔をおおった。「信義などいくさの口実にすぎぬと……機を失ってはならぬと父上は……父上は……わたしは強くない……」
アリオクは手招きし、わたしを自分のそばにひざまずかせた。
「陛下、この者は父君ではございません」
王は顔をあげると、両手でわたしをはらいのける仕草をした。
「こんどは、この者が余の身代わりとなるのか」
王は首を横にふり、いやちがうと小声で言うと、放心したように両腕をだらりと下げていた。突然、思い当ったように両の手を打った。
「8カ月間、バビロンを留守にするなというナイードの警告を聞き入れなかったことへの小言をのべるためにこの者をよこしたのなら、もはや手遅れだ。おまえの主人、ナイードに伝えるがいい。バビロニアの王はまがまがしい悪霊の虜になっておると……」
アリオクは王のそばに控える侍童に目配せした。
侍童は小さな壷から粘り気のある白い液体をスプーンにたらし、それを王の口元に運んだ。
王がそれを飲み下すあいだ、アリオクは王に言った。
「陛下、父君のナボポラッサル王は冥界の神シャマシュの身元にて、陛下を悪霊から守護されておられます。天上界の覇者マルドゥク神の御手をとられて即位された陛下こそ、すべての王の中の王たるお方にございます」
王はアリオクの説得に感じるものがあったのか、腕組みをし、虚空にむかってうなずいた。
「父上は余を守ってくださっておられるのか……厳しいお方であったが……」
王はようやくわたしに目を止めた。
「なぜ、黙っている。言いたいことがあれば言うがよい」
「陛下がおっしゃっておられる。思うところを申せ」
アリオクがわたしを促した。彼は、このような王のありさまにも動揺しない。
わたしは大きく息を吸い、「信じられないと思いますが、わたしは友誼を誓った犬とともに、およそ2600年後の世界から、陛下のいる時代にまいりました。来たくて来たわけではありませし、通行証にあるナイードという人物にも1度も会ったことはありません。それにわたしは物知らずなので、陛下の名すらここにくるまで知りませんでした」
「何を言っているのだ、この者は?」
王はあらぬ方を見た。
「この者の申すことは、不可解で信じがたいことばかりでございます」
「あまたいる、予言者の1人か……くだらん」
「他の者と異なることがございます。遠い未来の話をします」
そんな話をアリオクにした覚えはない。ダニエルに従っている者のうちのだれかが告げたのだろう。
王は侍童を呼び、カーテンを引き開けさせた。
「申せ」ヴィジョンの王の声だった。
迷いを払拭するために、もう1度、深呼吸をした。
「後の世では、バビロンの名は巨大な都市の代名詞のように語り継がれます」
「余の意志が王都を形づくっているのだから当然であろう」
「人びとの記憶にのこる、いにしえの都市は数多くありません」
「いにしえ……?」
王は燭台の明かりに目を止めた。
「何を言う。広大なユーフラテス川をまたぐ不滅の王都だぞ。余はバビロンの再建に力を注いできた。いまもバビロンの規模は年毎に拡大している」
自分自身を偽ることに飽きていたのかもしれない。
「わたしたちの時代の、わたしの国の大都市もバビロンをなぞって〝東京バビロン〟と呼ばれることがあります」
漫画家集団のペンネームだと知ったら、王は激怒するだろうか、笑いだすだろうか。
「世辞か? くだらん」
ダニエルの名をとにかく出さなくてはならない。
「陛下がこれから出会うユダの民の少年、ダニエルが語られるとき、陛下の名も常に語られます」
「なぜだ?」王の声の調子がわずかに変わった。
「少年が神の言葉をあずかる預言者となり、見聞きしたことを書き記すからです。その書物は世の隅々に伝わり、陛下とバビロンの名は後の世の人びとの知るところとなります」
王は鋭い眼差しでわたしを見つめた。
「余はまだ30歳に満たぬが、すでに1000年、生きたような気がしてならない。時は一瞬で過ぎゆくというが、余にはどうしようもなく長く感じられる。13の歳のときから父とともに戦い、18歳で即位した。王位について8年、一時も休むいとまもなく兵を率い、戦いつづけた。きらびやかな王宮で寛いだ日々はわずかだ」
「陛下が時代の覇者となられることはまちがいないでしょう。かつて存在したどの国の王よりも、陛下の名は空中庭園とともに後の世の人びとに知られます」
「何が欲しい?」
「わたしの用はこれですみました。あとは2592年後の世界にもどるだけです」
王の頬がわずかにゆるんだ。
「おまえのいた世界で、わがバビロニアは平安なのか?」
「陛下の国バビロニアはこの先、何度も戦火に見舞われます。残念ながら、わたしの住む時代のバビロニアは平穏ではありません。世界の経済を左右する資源がありながらも」
王はしばらく目を閉じていたが、
「鉱石のことか?」
「ムシュフシュと呼ばれている〝燃える火〟のことです」
王の手はひざを打った。
「やはり、そうか!〝燃える火〟を目にするたびに、炎のあげていない状態で汲み上げ、道の舗装やミイラの防腐剤に使っているが、それ以外の使い道がないものかと思案していた。余の国には、武器をつくるのに必要な鉱山がない。そのせいで、戦いつづけている。黒い油のかたまりのようなものが役立つ日がくるのか……」
「気づいておられたのですか?」
「なぜ、子孫は〝燃える火〟がありながら、帝国をつくれないのだ。少なくとも、余の時代より、民は裕福であろうな?」
ジグソーパズルのピースを見つけるときのように言葉をさがす。
「上層の1部の人びとは裕福でしょうが、多くの民はそうではありません」
「どういうことだ?」
「バビロニアは陛下が統治した時代が、もっとも栄えたのです。バビロンは東方世界の中心でした」
「この程度がか? 民の中には、妻や子どもを借金のカタに売る者もいる。飢えていない兵士を探すほうがむずかしい。飢えを満たすためにいまも戦っておる。これからもだ」
「遠い未来の国々も、貧しい家の子どもは、高額な馬の万分の一以下で売られています」
「ベルマルドゥク神は役に立たぬということか……」
「わたしはいかなる神も信じていませんが、人間の所業は1000年たっても、2000年たっても変わらないことだけはたしかです」
「どうすればいい? 世人は、メソポタミアひろしといえども、他国を圧する王は余ひとりであるかのように噂するが、そのように感じたことはただの1度もない。王笏を手にしようと、黄金の玉座に座ろうと、虚しさがつのるばかりだ。おまえの言う1部の人間とは、余に近しい者らのことか? 彼らのほうがよほどおのれの力を誇示している。それをただそうと思うが、どうにもならん」
何かで読んだことがある。権力は個人の中にではなく、システムの中に存在すると。いま王は、そのことを言っているのだ。
「遠くまできて、わかったことが1つあります。人それぞれに為すべきことがあって、それから逃れようとしても逃れられないということです」
王はゆっくりとうなずき、「父にならい、近隣のどの国よりもバビロニアを豊かにしようとおのれを顧みず奮闘してきた。しかし後の世では、すべて無に帰するのか……予感していたことだ……ハーレムの女たちはマルドゥク神より、ハランの月神シンを崇める者がいく人もいる……皇太子はマルドゥク神の手をとらぬのかもしれぬ。後継者に恵まれておらぬことはすでにわかっていたことだ」
王は下がれと、手の先で報せたが、ふいに「待て」と言った。
アリオクは先に後ずさっていた。王の前からしりぞくとき、背を向けてはならないからだ。
「ダニエルという少年の名はアリオクからも聞いた。護衛長、そうであったな?」
アリオクは平身低頭し、「申し上げました」と答えた。
「うさぎの耳をもち、犬の鼻をもつ護衛長が心惹かれたというなら、その者に並はずれた何かがあるということだな。呪術者と称するおまえもそう思うのか?」
一瞬、答えに窮したが、
「その者を食卓にはべることをお許しになれば、後世の人びとに広く知られる王となられるでしょう」
「遠ざければ、どうなる?」
後ろに立つアリオクの息遣いがわずかに早くなった。
王の面前で殺されることはないだろう。
「わたしには予測できません」
歴史が変わることを、どう説明すればいいのか……。
「ダニエルという少年を遠ざければ、バビロニアの書記官の綴る書字板にのみ名が残るということか?」
「いまから265年後、ギリシアの北の国マケドニアの若き王が王都バビロンにのぼってきます。そして、そのときから約100年後、ニネヴェが灰塵に帰したように、バビロンもまた廃墟と化します。建造物の煉瓦は付近の住民に持ち去られ、書字板は朽ち果てます」
王の肩の力が一瞬で萎えるのが、わかった。
「ギリシアのマケドニア……いつか、そのような日がくると予感していた。それ故に、フェニキアのティルスを攻め落とさねばならぬとみなに言いつづけてきたのだ。ティルスの進攻にさいして、事あるごとに、エジプトに秋波をおくるユダ王国が邪魔になる。油断すれば背後を突かれるからだ。なんども廷臣どもに話したが、やつらの頭にあるのはおのれの欲だけだ。いくさが賭けだということさえ理解せぬ。賭けなければ、勝利もない」
「フェニキアのティルスを攻め落とすのは、マケドニアの王です」
「おまえはなんということを!」アリオクは激怒した。「ナイードの入れ知恵かっ。陛下、この者はただちに下がらせます」
王はアリオクを制し、「賭けに勝利するのは、マケドニア人か……」
「陛下、そののち、メソポタミアの国々は、あまたの国によって荒らされます。それぞれの国に与えられた運命を、変えることはだれにもかなわないかもしれませんが、もしかすると聡明な陛下には、それが可能なのかもしれません」
「アリオク、例のものを持て」と王は命じた。
アリオクが下がり、待つ間、王はかすかに微笑むと、「おまえは魔女の友か」と訊いた。
「のちの世で出会ったときは、敵対していました」
「国が違ったのか?」
「同じ国に生まれましたが、あの者は美しい故に傲慢で、仲間と語らってわたしを晒し者にしたからです」
「おまえの話はとりとめもないが、興味ぶかい」
アリオクが木製の自転車をかついでもどってきた。
驚くわたしに、彼は得意げに言った。「形を復元するのはさほどむずかしくなかった。ただし、動かぬ」
「これはなんだ? 話せ」
「移動するときに使用していましたが、役に立ちません」
「かつての王国シュメルでつくられた車輪は、木であった。いくさであっても、荷馬車のような戦車を牛が引いていたのだ。これもそのたぐいか」
首を横にふり、
「わたしの国では、シュメルの国々より古くから農具は鉄でつくられていました」
縄文時代の日本には文字があり、鉄の農具があり、優れた土器があったことは古書店めぐりが趣味のわたしはすでに知っていた。日ユ同祖論などその最たるものだった。訪れたことは1度もないが、パレスチナとメソポタミアの文明はわたしの心の深いところでくすぶりつづけたものだった。そのことを養父母に知られたくなかった。むろん、ルーシーにも――。
嘲笑されると思ったからではない。自分の身が危険にさらされると予感していた。理由は簡単だった。彼らの言う神を、唯一の存在だと信じられないからだ。
「2600年後の世界では、先進的な国々の学者は、鉄や黒い油に変わる兵器を創り出そうと躍起になっています」
「他国を圧倒するためか?」
「ご推察のとおりです」
「この世を終わらせるほどの武器がつくられるというのか?」
「生きとし、生ける者すべてを消滅させる兵器は数十年前につくられました。その武器を使えば、どのように繁栄した国も一瞬で滅びます」
「のちの世のいくさは、いまとは異なり、一瞬で終わるのか?」
もしかすると、聖書に書かれている〝1つの石〟とは、究極の新兵器のことなのか?
「わたしの知識では正確な答えにならないと思いますが、指導者はこの世を滅ぼす最終兵器を使用することにためらいがあるようです。最終兵器を所有する強国は互いに牽制し、小国を援助し、その地で小競り合いをつづけています」
「いまと変わらぬな。戦術に変化はあるのか?」
「地上戦で用いられる兵器は鉄製の武器と火薬が使用されています。近い将来、光によって、多くのことが成し遂げられるでしょうが、戦術に大きな変化はないように思います。陛下のような英雄によって局所的には変化はありますが――」
「火薬とは、光とはなんだ?」
「この地は現在、石を熱して、破城槌車で敵の城塞に投げ入れていますが、2000年後、白人によって火薬が発明されます。硫黄と木炭と硝石などを混ぜてつくられ、衝撃によって爆発する武器です。そのときから、ほとんどのセム族と黒人は彼らに領土を奪われ、多くの者が奴隷となります……」
「蛮族と侮られている者らに、われわれは敗北するのかっ」
王の語気が強まった。
「陛下、黒い油の用途がわかるのは、まだまだ先です。しかし、鉄はのちの時代においても重要な資源です。用途は多岐にわたっています。船も兵器も鉄なくしてつくれません。空を飛ぶ乗り物も」
「空を飛ぶ……鳥のようにか」
うなずくと、ネブカドネザル王は、
「余は先の世を見たい。どうすれば行けるのだ」
「それがわかっていれば、すぐに帰るのですが……」
ダニエルと行動をともにする連中より、王と話すほうがわかりあえる気がした。
「陛下、未来永劫、ティルスに手出ししてはなりません」
「なぜ、そう思う」
「戦費がかかりすぎます」
「アッシリアがそうであったように戦いつづけねば、兵力を維持できぬ。メディアもリュディアも隙あらば、反旗をひるがえす」
「陛下のおっしゃるとおりです。しかし、バビロニアの将来を憂慮されるのであれば、なんびとが何を助言しようと、ティルスを攻めてはなりませぬ。国境の防備を固めることが肝要かと存じます」
それで広大なメソポタミアが守られるのかどうかわからないが、
「陛下のご存命中に、太陽が陰り、真昼が夜になる日が訪れます。これを不吉な出来事が起きる兆しだと述べる占星術師の助言で、敵対するリュディアとメディアは和平を結びます。陛下の国、バビロニアをくわえた3カ国は婚姻関係を結び、メソポタミアはいっとき平安を得ます」
「そして、余はティルス攻めを決断するのだな?」
わたしは黙ってうなずいた。
「長くかかるのか?」
もう1度、うなずいた。
「勝利したのち、余はようやく眠りにつけるのか……目覚めることのない眠りに」
返事をしないでいると、
「おまえは言ったではないか。人それぞれに為すべきことがあって、それから逃れようとしても逃れられないと」
「陛下……ティルスと手を結び、後世のセム族のために、マケドニアに対抗できるよう近隣諸国と同盟を結ぶべきかと……何より軍船を建造なさることをおすすめします。陸路を制する者より海路を制する者がこののち時代の覇者となります」
「難攻不落の港湾都市ティルスを攻め落とすことは、即位したときからの夢であった。ティルスを下し、軍船で大海に乗り出したい。それを成し遂げねば、余は父王を越えられぬ」
「陛下亡きあと、バビロニアが滅ぶとわかっていても……」
黙って聞いていたアリオクが呻くように言った。「陛下はすでに、逝去されたナボポラッサル王に勝っておられます」
「ユダの王エホヤキンはどうなのだ?」と王は静かな声で訊いた。
答えられないわたしに代わって、アリオクが王にたずねた。
「どうとは、いかなることでございましょう?」
「先の王と同じように槍で突き、城壁に吊すか、あるいは捕虜にするか……どちらが余にとって益するのだ?」
わたしが口を開く前に、アリオクは言上した。
「現王エホヤキンを処刑なされば、ダニエルは陛下と敵対する者たちに加勢する怖れがあります。その場合は、陛下の後を継ぐ皇太子殿下の御代が乱れるやもしれません。わたしめの考えですので、確たる証しはございませんが」
アリオクはダニエルを王に近づけようとしている。なんのために? もしかすると、アリオクは王の側近でありながら宦官長、あるいは神官長の手の者なのか?
「何事も陛下の一存で決まります」と、わたしは思わず言った。「バビロンが滅ぶという預言に惑わされてはなりません。陛下がご自身のお考え――意志でティルス進攻を思いとどまれば、バビロンの建造物を後世に残すことが可能となります」
ダニエルを遠ざけて欲しいという願いをこめて言ったつもりだった。ダニエルが『ダニエル書』を記さなければ、バビロンはいまの姿をとどめられるかもしれない。
「余の意志……そんなものがあるのだろうか……ひたすら闘ってきた……闘うことが余に課せられた使命だと思ってきた……おまえを召し抱えれば、余と皇太子は無事に過ごせるのか……?」
「そのような力は残念ながら、わたしにありません」
王はこんどこそ、下がるように言った。
「陛下の栄華が永遠につづきますように」
「永遠などこの世にない」と王はひとこと言った。「すべては儚い」
王のもとを去りぎわ、アリオクがわたしに言った。
「今夜のことは何人にも口外してはならぬ。見ての通り、王は気欝を患っておられる。おまえの呪術でなんとかならぬかと思ったのだが、浅はかな考えだった。やはり、人並みはずれた知見をもつダニエルでないと陛下の御心に安寧をもたらさぬ」
「陛下はすべてご存じだと思います。わかったうえで、何事も選択されるでしょう」
その夜、アリオクの計らいで、わたしと秦野とルーシーとドラはリブラの宿屋に泊まることになった。アリオクにともなわれてやってきたルーシーは開口一番、なぜ、通信を不可能にしたのかと詰め寄った。
「結界の効き目を確かめてみてん」
【まさか、ダニエルさまをどうにかしようという算段を、王に進言したのではないでしょうね?】
「秦野とダニエルは鉢合わせしなかったん?」と話をそらす。
「ダニエルさまは大祭司の長子であるヨザダクさまを、お助けしようと出かけられていたので、魔女とは顔を合わせずにすみ、ことなきを得ました」
黒猫のドラを抱いた秦野は上機嫌だった。修学旅行みたいだと言うのだ。
「ほんもののぉ、女子高生みた~い」
そう言われれば、自分を女子高生だと感じたことがなかったと思い出す。秦野もそうだったのか。わたしたちは階下が酒場の階上のひと部屋で、ひとかたまりになって眠った。
怒号のとびかう喧騒はまったく気にならなかった。
こんな日が毎日だといいのに……。
ルーシーが寝息を立てはじめると、黒猫のドラはそろりそろりとルーシーに近寄り、小さな頭をルーシーの脇腹にもたせかけた。
時よ、止まれと心のどこかで念じていた。
世界に時間は不要だった。
東の空が茜色に染まりはじめた頃、ヤディを従えたデイオケスが宿屋にやってきた。
祖父の死を疑っていないので彼の顔には憔悴の色がありありと見えた。
秦野への関心もなくしたようだ。
「ネブカドネザル王がユダの王と一族、戦士らの処分を当地の広場において裁定される」
秦野は、振り向き、「たのしみぃ~い」と、ヘビの子孫らしく身をくねらせる。
「魔物と魔女も立ち合うようにと、陛下の仰せだ。王子が厭われるので犬と猫は同行してはならぬ」
ルーシーは唸る。謁見の前にレクチャーしておくと言うのだ。
「はしょって話してよ」
【ハマトの地に近いリブラの南に位置するフェニキアの諸都市、ティルスやシドン、ビブロスを牽制するためにこの地に陣を張っていることくらいわかってますよね?】
「なんべんも聞いた」
【くりかえしますが、いくさの多くは砂漠のオアシスである都市と都市をつなぐ隊商路の獲得が主なる目的なのです】
「帰る方法しか、アタシの頭は獲得できん」
秦野は身繕いに余念がない。髪の色を赤一色にすべきどうか迷っている。
「金粉のぉ、メッシュをいれたいのぉ。どうかしら~ん」
長身にまとったピンクベージュの衣は生地をふんだんに使ってあるので波型の飾りじわのあるイブニングドレスのようだ。胸元と腕が剥き出しだが、腰に巻いた帯と裾のフリルをローズ色でそろえている。下品な感じはしない。一方のわたしはいえば、着たきりスズメなので、黄金色のイガイガ頭がなければ物乞いに見えなくもない。
【ウォッホン!】
「何よ?」
【古来より、嫉みは人の目を曇らせます。ヘビ女は魔女です】
「羨ましがってないで。あんな派手なドレス、似あわへんもん」
秦野が歩くたびに衣ずれの音がする。
【グゥワン! あらためて、リブラの解説をします。隊商路のオアシスとして栄えたリブラは常に強国に脅かされ、現在もキャラバンや旅人の支払う通行税をバビロニアに収めています。シドン王の時代にアッシリアに破壊された現在のリブラはいくさをせず、帝国の要求をのんだせいで死と破壊をまぬがれましたが、バビロニア軍の駐屯費用を、住人は税金の名目で支払わなくてはなりません】
「それがどないしたんよ。アタシらが払うわけやなし」
【反乱を扇動したユダ部族の要人や将校らを、この町で処刑する目的はリブラに住む人びとへの見せしめです。いつの時代も、勝者は敗者をもっとも惨酷な方法で裁くのです】
「神サンもバーベキューにするんやからおんなじとちゃうのん」
【You idiot!】
「ドライヤーがないからぁ、染めた髪をドラちゃんの息で乾かわしてもらわなくちゃ、だから待ってぇ」
秦野の関心は身仕度にしかないようだ。
「どんな頭でもええやん。魔女の仮装大会やないんやし」
「ミカエルって、関西弁だった? もとから?」
「今頃、気がついたんかい?」
「急げ」とヤディが言った。「王は短気だ。けっして歯向かうな」
ルーシーの声が背中で聞こえる。
【昨夜もとても心配したのですよ。事なきを得たようですが、わたしとしては、とてもじゃないけれど、神界文書に記録できるような行動や発言があったとはどうしても思えないのです。けれど、もしかすると、あなたにはわたしが感知できない未知の領域があるのではないかと……】
「頭の回転が遅いことは、アンタが1番、知ってるやん」
【わたしをそのへんの犬だと思っているんですかっ。ギャワン。ガブリエル大天使の名代なのですよ!】
ヤディが横から、「犬の餌が足りてないのか? 後から用意させよう」と言った。
奥の部屋にいた秦野の声が重なった。
「支度ができていないのぉ、先に行っててぇ」
頭に縞模様の布を巻いたわたしは、デイオケスとヤディについて篝火の消えた広場に向かった。西の空は青みがかった紫色だった。彼方に明けの明星も見える。東の空との色分けが美しい。
「何が起きても取り乱してはならない」
ヤディはそう言うとわたしをにらんだ。デイオケスから、監視役を仰せつかったようだ。彼の目に、わたしは危険人物とうつるらしい。
「民は恐れながら、血を見ることを心のどこかで愉しんでいる」
デイオケスは怒気のまじった声でつぶやいた。これからはじまる処刑の見物人のほとんどはリブラに居住するアラム人とシリア人だという。キャラバン隊を率いるアラビア人も混じっているそうだ。アリオクの姿は見えない。どこへ消えたのか?
16 王の裁定
広場の正面に急遽、桟敷が設営されていた。
神妙な顔つきの側近らはすでに勢揃いし、壇上の後方に控えていた。その中に見覚えのある顔がいた。ビジョンで目にした献酌官だ。雰囲気は異なるが容貌がアリオクと似通っている気がした。
ラッパの音が響き、ネブカドネザル王と皇太子のアウィル王子が桟敷に姿を見せた。
側近らは拝礼した。
王は黄金の冠をかぶり、黄金の笏状を手にし、胸当てと脛当てを身につけていた。
王から疲労や気欝の気配は微塵も感じられない。
陽の昇らない早朝とはいえ、武装したバビロニア軍の将兵は桟敷の両翼に整列していた。残りの大軍は万が一にそなえてハマトに近い荒野で陣を張っている。
王は桟敷の中央に立ち、居並ぶ兵士を見下ろした。
兵士らは王を讃えて歓声をあげた。
王の発するオーラが広場の隅々まで行きわたる。対照的に、色白の王子ははかなげだった。ネブカドネザル王の後継者となるには覇気が足りない。戦闘に耐えられない、華奢な体型をしていた。
王と王子が着席すると同時に、ラッパの音はやんだ。王の椅子はバビロンの王宮にあるような黄金をふんだんにつかった代物ではなかったが、象牙の浮き彫り細工の椅子は覇者がふんぞりかえって座る価値があるように見えた。
日差しはないのに、大柄な白人奴隷が日除けの傘を捧げもち、侍童が3人がかりで大きなうちわを持ち風を送った。
わたしはデイオケスに属するメディア軍兵士のいる桟敷の正面に近い位置に連れて行かれた。
王とわたしたちとの距離は100㍍以上あった。
まず2人の祈祷師が、彼らの守護神であるベル・マルドゥクに祈りを捧げた。つぎに2名の歌手が、王を讃える歌を朗唱した。
その声は静まり返った広場に響きわたった。
王の足元に這いつくばるようにすり寄った宦官長のアシュペナズは鹿爪らしい顔つきで、「総参謀長は死の間ぎわに、陛下のために魔物を献上してくださった」と感極まった声で伝えた。
そして何事か、王に耳打ちをした。
口元をほころばせながら、「魔物を生かすも殺すも陛下のお望みしだいでございます」とつけ足した。
わたしのことを言っているらしいが、他人事にしか聞こえない。しかし、宦官長のアシュペナズはいきなりわたしを指差した。
王の前へ進み出るように兵士に促された。
ネブカドネザル王は昨夜とは打って変わり、王冠と付けひげと鎧のせいか、声に張りがあった。
「面妖な姿のおまえが、総参謀長を殺めたと報告があった。まことか?」
宦官長が王に耳打ちしたのはこのことだったのか。
「そのような力があれば、この場にいません」
「力がないとは言わせぬ」と王は言った。
メディア軍の最前列にいたデイオケスが足早に進み出てひざまずき、この者が祖父を殺めたことが事実なら、いまここでこの者を成敗させてほしいと王に願い出た。
彼は総参謀長が存命だと知ればなんと言うだろう。
「まぁ、待て。せくな」と王は言って、わたしとデイオケスを桟敷の前に立たせた。
桟敷の隅にいた宦官長は勝ち誇ったようにわたしたちを見下ろした。
「魔物にたずねる。総参謀長の死因は毒をもられたそうだな? いま毒を所持しておるか」
わたしはうなずいた。
「おまえはっ」デイオケスがわたしにつかみかかろうとした。
「待てと申すのがわからぬか!」王はデイオケスを一喝した。
わたしはその場にしゃがみこみ、足の指にしていた蓋つきの赤めのうの指輪を外し、デイオケスに手渡した。
「この指輪は、魔女と呼ばれているミタマから盗んだものです」
「なんてことすんのよぉー! ドロボー!」
広場中に響く声だった。
振りむくが、姿は見えない。
「ミタマがっ、祖父を――」と、デイオケスは殺気立っている。
「彼女は宦官長からもらったと言っていました」
すかさずわたしが言うと、「この者らは結託し、わたしを陥れる魂胆でございます!」
宦官長が甲高い声で喚いた。
「彼女がエリコへ来たのはたしかに総参謀長の亡くなった日です」とわたしは言った。「しかし、ミタマやわたしが食べ物に毒を入れる時間はありませんでした。それに総参謀長は毒殺されたのではありません。どこのだれとも知れない者に斬り殺されたのです。首謀者は取り逃がしました。エリコの守備隊長にたずねてもらえば明らかになるはず。一瞬のことだったので、わたしやミタマを王に献上するなどと言い残すいとまはありませんでした。わたしたち2人は宦官長の命令で捕らわれ、この地へ移送されたのです。このことも守備隊長、あるいはわたしたちを捕らえ移送した警護兵におたしかめください」
「おまえは祖父の死を目のあたりにしたのかっ」とデイオケスに訊かれたので、「偶然だったけど、そういうことになるのかなぁ」とあいまいに答える。
デイオケスは肩を落とし、アシュペナズを凝視した。
「その話はもうよい」と王は言った。「だれがじかに手を下したのか、いまとなってはさだかではない。エリコの守備隊長から書面が届いておる。変死をとげた総参謀長は手厚く埋葬したとある」
「知ってんだったら、最初っから言えよ。訊くなよ」
口の中でつぶやくと、王の口元に微笑がうかんだ。
デイオケスとわたしはメディア兵士のいる場所までしりぞいた。
そして――、
「はじめよ」と王はしずかに言った。
シデオン将軍が待ちかねたように命じた。
「捕虜を引き出せ」
西側の紫色の空が次第に赤く染まっていった。乾期が間近いことを告げる、乾いた風が広場を吹きぬけと砂塵が舞った。ついさっきまで薄暗かったので、捕われた人びとがバビロニア兵の背後にいることに気づかなかった。ユダの主立った者、王族と氏族につらなる戦士と彼らの家族だ。逃げ遅れたために城内で最後まで戦った戦士らは前列に押し出されても無駄口をきく者はいない。負傷しているうえに鉄の鎖で手足を拘束されている。鎖はつながっていて、先頭の者を引きずりだせば、全員が同じ行動をとならくてはならない。
瀕死の者の鎖は外された。
「余は、公平と正義を重んずる」と王は言った。「兵站の食糧を盗む傭兵部隊の兵士らがいると耳にした。その者らから処罰する」
司令官の1人が、数人の兵士に命じて傭兵3人を王の面前に引き出した。王がうなずくと同時に、兵士らは手首を切り落とされた。絶叫と同時に噴水のように血が流出した。乾いた大地が瞬時に飲みこんだ。
「ユダの王、エホヤキンを引き出せ」
シデオン将軍がそう言って片手をあげると、痩身のエホヤキン王がバビロニアの兵士に両脇を抱えられて広場の中央に引き立てられてきた。人びとの視線は、鉄の鎖で両手両足を拘束された若い王に注がれた。若い王のあごひげに汗がしたたっている。
玉座から立ち上がったネブカドネザル王は、近隣諸国を掌中に治めた為政者らしく、その場にいる者たちを睥睨した。昨夜とは別人かと見紛う、肉厚の体型とあいまって、その一挙手一投足に威圧感があった。
「これより裁定を行なう!」
王の力強い声は広場のどこにいてもとどいただろう。
宿屋で待っているルーシーにも聞こえたはずだ。
「エホヤキン、おまえは、だれのおかげで、王位についたと思っているのだ」
王の口調は辛辣だった。
「なぜ、城が包囲されたとき、そなたの書状にあるように、エジプト王に内通していないのであればただちに城門を開け放たなかった。あいまいな対応が国運を左右すると知らぬほど愚かではあるまい。一国を治める王は自国の民の命運を決めるのだ」
エホヤキン王はネブカドネザル王が話すあいだ、死人のように硬直した顔をうつむけていた。
「なぜ、何も言わぬ!」
「……」
言葉が通じていないと悟った王は、通訳と思われる者を呼び出した。アラム語をヘブライ語に訳させた。
若い王は細い声で弁明するのが精一杯のようだった。
「わたしはいかような罰も甘んじて受けます」
善良な人柄であることは、だれの目にもあきらかだった。
「どうか、どうか……」
エホヤキン王は両ひざを地面につくと、鉄の鎖で拘束された両手を重ねあわせて、囚われている将兵と民と親族の命乞いをした。
「陛下のご温情におすがりするしか、いまのわたしにできることはございません」
ネブカドネザル王は口元に冷笑を浮かべながら、手招きでシデオン将軍を呼び、何事かささやいた。将軍はエホヤキン王の眼前に歩み寄った。太陽は昇っていないので、肌寒いくらいだったが、恐怖のせいか、ユダの若き王の衣服は冷汗で濡れているように見えた。
将軍は詰問する口調で言った。
「おまえは身のほど知らずにも、1度は陛下に臣従を誓ったにもかかわらず、わが帝国に対してよからぬ企てを試みただけではない。勝てもせぬいくさを仕掛けた。愚かにもほどがある!」
通訳を介してのやりとりであっても、ネブカドネザル王の怒りはエホヤキン王につたわったようだ。
「誤解です。いくさを企むなど毛頭考えておりませんでした」
エホヤキン王は小刻みに肩を震わせていた。
「真意をおわかりいただくために陛下に書状をさしあげたのです。何事も穏便にすませたいと――」
ネブカドネザル王は急ごしらえの玉座に揺らし、「アラム語の書状一通、おのれでしたためられぬおまえには、臣民を従わせる能力がない!」と言い放った。
エホヤキン王は、わが身を恥じるかのように身をよじった。
「バビロンの書記官はおるか」とネブカドネザル王は言った。
2人の若者が桟敷下に走り出た。「御前に」と声をそろえて答えた。
「バビロニアの王、このネブカドネザルのもっとも重要な責務はこの世の秩序を糺すことである。余は即位にさいして、マルドゥク神の御手を取り、誓ったのだ。メソポタミアの地に安寧をもたらすとな」
王の言葉は神の声のようだった。口を差しはさむ者はだれひとりいない。
「大いなる神々から世の平定を託されている身である証〝天命の書板〟の第1から第7までを読み上げよ」
書記官2人は、後世に『エヌマ・エリシュ』と呼ばれる7枚の書板を交互に音読した。それは天地創造神話からはじまり、聖なるアプス=深淵から生まれた父神エアからマルドゥクの称号が与えられるまでが語られた。
私語する者はいなかった。
父神エアの言葉で書板は終わる。
「父祖らの栄光を背負ったこれらの名前をいただいたわが子。彼こそ、余の指揮すべてを執行すべきなのだ」
赤い太陽が東の建物から天上にむかって登りはじめた。
「おまえたちの力なき神など何ほどのものか! 頼みとする神に力がなくば、この世では強国の支配を受けねばならぬ」
「わたしの不徳のいたすところ……」エホヤキン王は唇を噛みしめた。
「おまえの父エホヤキムは余との契約を破り、エジプトを頼みとした。自らの誤った裁量が、自国の民に災禍を招いたのだ」
「わたくしは王位に就いて以後、エジプトやティルスに秋波を送ったことなど1度たりともありません」
「しかし、争いをそそのかす者らを抑えることができなかった。そのような者が国のつかさと言えるか!」
ネブカドネザル王は、エホヤキン王をひたすら眺める捕虜の群れに向かってたたみかけた。
「これから起こることは、おまえたちの信ずる神の審判だと思うがよい」
「……なにとぞ、お慈悲をもって……わたくしひとりの命で、わが民をお許しください」エホヤキン王は地面に頭をこすりつけた。「せめて幼き者らだけでも」
「こやつの妻子を余の面前に連れ出せ」
王は司令官に命じた。
司令官は捕虜の中から総勢10人ほどの女と子どもを桟敷の前に引き出した。みな、バビロニアの王の顔色をうかがうこともできないでいる。妻や側女らは幼い子らの手を握りしめ、声にならない声ですすり泣いている。
「余は公平であることを、常に心がけてきた」
王は告げると、笏状の先で桟敷の床を叩いた。
「何者であろうと、余をあなどった罪は死をもってしても免れぬ」
抜き身の剣を持った兵士らが、母親の手からエホヤキン王の子らのうち男子のみを引き離した。そして、その首を片端から刎ねていった。ある者は刀剣がそれて瞬時に絶命せず、地面に血溜りをつくってのたうち回った。
母親と女きょうだいらは絶叫した。
エホヤキン王は声を放って泣いた。医師が呼ばれ、死骸の山をかきわけながら、真剣な眼差しで王の子らの生死をたしかめた。
妻と側女、女子らは奴隷としてバビロンに送られる。若く美しい女はバビロンに住む男らが所有し、他の女や子どもは離れ離れになりバビロン近郊の町に送られるという。将兵らは労役を科されるか、辺境の地の兵士となり家族とは2度と会えないと将軍は告げた。
エホヤキン王は半ば、意識を失ったように、地に伏している。
女子らは茫然自失の母親にとりすがり泣き喚いていた。
バビロニアの兵士は女と子らを広場から追い出した。
城壁の外に作られた囲いの中で移動の時まで待たされるようだ。
この場は、捕虜となった者たちの運命が定められる終着点だった。
ネブカドネザル王は薄笑いを頬に張りつけたまま、気を失ったエホヤキン王を見下ろした。冷徹であることを、王は、自らの使命と考えているようだ。
ネブカドネザル王は、エホヤキン王の弟を引き立てるように言った。
風采のあがらない男が引き出され、死人同様のエホヤキン王の隣に立った。 眉の薄い男のひげは、まばらで生えそろっていない。
「マッタニヤ、おまえは母親は異なるが、ユダの現王の弟としての務めを果たさず、ろくでもない友らと自堕落な生活をつづけていると聞く。しかし、それで満足すればよいものを、兄を王位からしりぞけようと企んだ。大局を洞察する能力に欠けるばかりか、わずかの分別すら持ち合わせぬ愚か者だ。おまえが、エジプトのファラオに密書を送ったことは、すでにわかっている」
「いくさをしようとしまいと、隷属させられるのだっ」マッタニヤは喚きちらした。「われわれは、このリブラの民のように従わぬ」
「恩知らずめが!」
王の怒号はその場にいる者たちの胸を恐怖で刺し貫いた。
「放蕩者のおまえではなく、兄のエコニヤにエホヤキンの名を与え即位させたのはなぜか、わかるか。わかるまい。長子だから王位に就けたのではない」
王はそう言って破顔した。そして、ふいに険しい顔つきになると、「大祭司はどこだ」と言って頭をめぐらした。
長身で肥え太った男が捕虜の間から進み出ると、背筋をのばし、両軍の将兵の前を悠然と歩いた。高く巻いたターバンをかぶり、筒状の衣に上に四隅に青い裾かざりのある白衣を身につけ、胸に12部族を象徴する異なる12個の宝石を縫いつけた正方形の前たれをつけていた。長い顎ひげは焦げ、顔面の火傷のあとも痛々しいが、堂々としたその体躯はユダ王国のまことの王のようであった。
ネブカドネザル王はあくびをし、「なんという名だ」と訊いた。
「アザリヤである」と大祭司とアラム語で答えた。
「大祭司には、王を即位させる権限がある。マッタニヤに慣例となっている油を注ぎ、王位に就かせよ」と命じた。
マッタニヤは目を見開き、歓喜の表情をうかべたが、アラム語を解する大祭司は、
「エホヤキン王こそユダのまことの王」
と言って取り合わなかった。
「3カ月前、おまえの前任者のヒルキヤの願いを聞き入れて、エホヤキンを王位に就かせた。ヒルキヤは家族ともどもバビロン城外のニップル(現ヌッファル)で平穏に暮らしておる。おまえもマッタニヤに油をそそぎ、後任の者にその地位を譲り、処刑をまぬがれた多くの者らとともにヒルキヤのもとに行くがいい。異論はないな?」
正気をとりもどしたエホヤキン王はうずくまると、両の耳をふさいだ。
アザリヤはネブカドネザル王を直視すると、「閣下であられる王が、勝者であらせられることは肝に命じて存じております。わがユダ王国は長く、アッシリアの属領でありました。宗主国のアッシリアがバビロニアに敗れたのちは、閣下の足下にひざまずくことはやぶさかではありません。しかし、わが王エホヤキンの弟と称するマッタニヤは、ダビデ王の血を受け継ぐ、先の王エホヤキムの子であると正しく認知されておりません」
マッタニヤが悲鳴のような怒声を発した。
「わたしこそがダビデ王の血族だ。おまえごときに侮られるいわれはない!」
ネブカドネザル王は2人の話すヘブライ語を、頬に口の端をあげて見比べていた。
「大祭司よ。アッカドとシュメルの王にして、バビロニアの王である、このネブカデネザルが命じているのだ」
大祭司は、このような場所で儀式は行なえないと返した。
「祭司の長であるアザリヤ」と王は静かに声をかけた。「おまえが捕らえられたのは、神殿の広場で、おまえたちの言葉でいう犠牲(生け贄)を捧げている最中だったと聞く。バビロニア軍に災いが降りかかるという神託はなかったのか」
アザリヤは鋭い眼光で王の顔をまっすぐに見つめた。
「祭司は神殿に奉仕するのが役目である。神の言葉を預る預言者ではないし、律法の師であるラビ=律法学者でもない」
王は、次席の祭司を呼び出すよう司令官に命じた。
次席の祭司は広場に引きずり出されるやいなや、歯の根が合わないほど怯えていたが、大祭司が、「恥ずかしくないのか」とひと言もらすと、震える声で大祭司をののしった。
「何もかもおまえのせいだ。大祭司しか入ることを許されない至聖所に部外者を入らせたせいで、神の怒りをかったのだっ」
捕虜の将兵の間から驚きの声があがった。みな口々に、神殿が汚されたと嘆き、憤りの言葉を放った。そのとき、白髪が胸にとどく老人がゆっくりと前に進み出た。
自分が律法学者であると老人は言った。
ネブカドネザル王は微苦笑し、ラビに問うた。
「おまえなら、儀式を執り行えるのか?」
ラビは答えた。「わしの務めは、モーセのしたためた神の音信を、ユダの民に教え諭すことだ」
王は次席の祭司に王弟に油をそそぐように命じた。次席の祭司は激しく首を振った。大祭司にしか許されない儀式は行なえないし、自分にその権限はないと。
「余はネブカドネザル。偉大なる王、ナボポラッサルの子。マッタニヤに告げる。おまえは明日から、いやただ今よりゼデキヤと名を改めユダの王となるのだ。おまえたちの神の掟に忠実でない大祭司に任ぜられる必要はない」
王の声に逆らえる者はいないかのように静まり返っていた。
「ゼデキヤとは、ヘブライ語で〝神の義〟を意味する。ユダの民の信ずる神の名にかけて、おまえは国の柱石となり、領民に恐れられる王となり、宗主国バビロニアに忠誠を誓う諸王の1人となるのだ。ユダの地に住む者や祭司にわが神ベル・マルドゥクを信仰せよとは言わぬ。両国で交わした協定を遵守し、信義を重んじよ。貢納を怠らぬと誓約できるか。余に歯向かうことがあれば、ユダの地から、生き残ったユダの民をこの地から一掃し、神殿を破壊する」
通訳が訳す前に、マッタニヤはひざまずき、アラム語で応じた。
「諸王の王であらせられる陛下のご命令に従います。この場にて、わたしはゼデキヤを拝命し、即位いたします。わたしは父王亡きあと、この日を長く待ち望んでおりました。陛下の忠実なしもべとなり、信義を重んじます」
アザリヤが一喝した。「おまえは王の名に価しない!」
「神の御手によって建てられた聖所を、おまえは汚したのだ」とゼデキヤは反駁した。「民を裏切ったおまえは、もはや大祭司ではない」
「アザリヤ、おまえは、民に見捨てられたのだ」
ネブカドネザル王はそう告げると、「子羊を用意せよ」と言った。
2人の腸卜僧が子羊を従え、恭しく王の前に現われた。
王は彼らにユダ王国の未来を占わせた。
腸卜僧は子羊の腹を切開した。子羊の絶命する声が広場に響きわたった。
腸卜僧の1人が、「陛下の憂慮は現実のものとなりましょう」と震える声で伝えた。
もう1人は、「北はシリアの都市国家ティルスとシドン、東はモアブとアンモン、南はエドムの国が反乱をうながす使者を、新王に送ってきます」と言上した。
王は膝をゆすって聞いていたが、「定まったことを覆すことはだれにもできぬ」と吐きすてた。
背筋が凍りついた。
王は何もかも承知したうえで、それでよしとしたのだ。バビロニアの未来に暗雲がたちこめようと、王は自らの夢を諦めないと決心したようだ。もしかすると、のちの世において英雄と称される人物は、自らの行く末を感知していても運命に従うのかもしれない。
大祭司のアザリヤは新王のゼデキヤに諭すように言った。
「バビロニアの王は、シリアとパレスチナの地を餌にしてエジプトやティルスを誘い出す魂胆があって、おまえを王位に就かせるのだ。早晩、ユダの民は聖なる都から追放されるだろう。近い将来、流浪の民となり果てるのだ。そのとき、おまえは辱めをうけ死する」
「もはや大祭司でない者に、わたしは惑わされない」新王は居丈高に言った。「わたしはユダの新たな王なのだ」
「年長者とは小うるさいものだ」王はそう言って、いきなりわたしを指差し、「こちらへ」と命じた。
神官長のレソンの表情に嫌悪の色が浮かんだ。むろん、腸卜僧の顔にも――。
踏み出すわたしの目の前に、ボロをまとい、物乞いに見紛う女が現われた。腰を曲げ、足元もおぼつかない。
兵士が老婆に近より、うしろへ下がるように言った。
老婆は腰をのばすと、頭にかぶったボロぎれを首のうしろへやった。その場にいるだれもが、「ああ!」と驚きの声をあげた。
17 複製人間VS天使
秦野だった。
深紅に染め、金粉を散らした髪は人びとの目を一瞬で引き寄せた。
「魔女だ」と見物人は騒いだ。
秦野は意に介さず、王にむかって深々と頭をさげて、「陛下のご尊顔を拝す機会をふたたび得ましたことに感謝いたします」と述べた。
「やはり、おまえだったか」と王は笑った。「変幻自在だな」
秦野はボロを脱ぎ捨てると、だれも目にしたことがないような華美なドレス姿を誇示するように王の前へ進み出た。
胸に右手をあてがい、こうべをたれた。「1度は、陛下に疎まれたこの身、お目を汚す無礼をお許しくださいますように」
王はたずねた。「腸卜僧は、ユダの新王は裏切ると予見したが、星を見るおまえの見解はどうなのだ」
「災いをもたらす麗しき者らを、お側近くにお召しかかえにならなければ、陛下の憂慮は杞憂におわりましょう」
「杞憂に終わると申すのか。余にとって、何が憂いとなるのか、おまえにわかるのか?」
「王宮において平穏に日々を過ごされることと存じます。はじめてお目通りさせていただいきましたときより、お心に添わぬ予見であることは重々、承知いたしております。陛下は戦いつづけることでバビロンを守護できるとお考えです。アッシリアの末路を見るまでもなく、いくさによって自らの帝国を守護すべきは自明の理です」
「知っておって――なぜ?」
「閣下である陛下におかせられましては、人知を越えた予見を希求されておられると推察し、その危うさを申し述べました。戦いつづけることは肝要ですが、のちの世に報いがおとずれます」
王ははじめて苦汁の表情を見せた。
「麗しき者らとはこの場にいる者たちの中にいるのか?」
「御意」と秦野は即答した。
影のように、王の背後に控えていたアシュペナズは壇上を降り、少年らの中から選りすぐりの容姿の数人を選び出し、兵士に命じて桟敷の前に押し出した。ユダの男たちの間に動揺が走った。自らの子弟がいる者もいたのだろう。
「王の家系につらなる王族の子弟にございます」
宦官長は王にむかって問うた。「お気に召す者がこの中におりましょうや?」
少年らの表情は恐怖で強ばっていた。王と宦官長の交わすアッカド語がわからないので余計に恐ろしいのだろう。
切断された手首とエホヤキン王の息子らの亡骸は野ざらしになったままだ。
流れた血は砂地に染みこみ、地図のように彼らの足元に広がっていた。
生臭い臭いが広場をおおっている。
王は眉をしかめ、少年らを凝視する前に顔の前で手を振り、面倒だという仕草をした。
「見飽きたような面立ちばかりだ。既存の知覚を越える者、人あらざる者でなくては食卓に侍らす気にならぬ。この者らは下働きの宦官にせよ。宦官でよい」
王は最後のひと言をヘブライ語で言い放った。
少年らは宦官のひと言でさらに顔つきを硬直させた。これで命がないと思ったようだ。宦官になるための施術で死亡する者が多数いたからだ。
王はまたもや哄笑した。
「助けてやってもよい。なんなら、バビロンの民の召使に下げわたしてやろう。機敏な者は騎馬軍団の兵士に取り立ててやってもよい」
ただし、と王は言った。「おまえたちの信ずる神を見限り、名を改め、われわれの信ずる神ベル・マルドゥクを崇めなくてはならぬ」
それまでどこに隠れていたのか、群衆の中に紛れていたダニエルが、肩にとどく漆黒の髪をとかし、金糸の縁取りのある白い衣で歩み出た。うしろに輿を担いだシャムライらを従えていた。おそらく輿の中に隠れていたのだろう。
ダニエルの前を、靄のような白い影がよぎった。
そのことに気づく者は1人もいない。
ダニエルは王に拝礼し、透き通る声で述べた。
「どうか王よ、とこしえに生き永られますように」
メソポタミアの共通語であるアラム語でなく、アッカド語だった。
「なるほど、おまえが麗しき者か。幼いながらわが国の言葉が話せるのか?」
「ユダの民の中に、陛下に災いをもたらす者などおりません。ユダの民は身分の上下を問わずエホヤキン王のもとで、先の王がご逝去される以前から懸命に国を建て直してまいりました」
「それを、余が損じたと申すか」
「エホヤキン王は正式に即位してわずか3ヵ月と10日しか経ておられません。反乱を企てるいとまなどどこにありましょう。恐れながら、陛下に従う大軍は、ユダの町や村を掠奪し、焼き払ったのちにエルサレムを包囲しました。兵と民は聖都を守ろうとしたのでございます。かの地には、神の宮がございます。バビロニアの商人も住んでいます。彼らの中のいく人かはユダの女を娶っております。彼らは、最後の砦となったエルサレムを守護しようと、われわれとともに城壁内に立てこもったのです。われわれユダの民は自らの妻子を守るために致し方なく戦ったに過ぎません。そのことはだれよりも、陛下がご存じのはずと存じます」
平静を保っていた将兵らの態度が一変した。彼らの中にアッカド語を解する者がいて、要約してみなに伝えたのだろう。将兵らは頭髪をむしり、血で汚れた衣服の袖を引き裂いた。怒りとも喜びともつかない感情が噴出しているように見えた。
「静まれ!」王はアラム語で恫喝した。「妻子を骸を城壁にさらしてもよいのかっ」
そのとき、次席の祭司が声を上げた。
「わたしは、この目で、こやつと、こやつに従う者らが聖なる器と聖櫃を盗むのを見た」
「嘘だ!」ユダの将兵はののしった。「祭司らの仕業だっ」
「しずまれっ」王は騒ぎを静めると、魔物を呼べと命じた。
わたしは舌打ちし、進み出た。わたしをハデス(地獄)に住むサタンだとののしる者がいた。ヘブライ語とアラム語とアッカド語が入り乱れて、皆、互いの言っていることを理解している気配はなかった。
ネブカドネザル王はダニエルを見やりながら、「おまえは、この異形の者とエルサレムの神殿にいたのか?」
「いいえ」とダニエルは答えた。「この方は、ユダの民ではございません」
「相違ないか」と王はわたしにたずねた。
黙ってうなずいた。
「神の箱=聖櫃はどこだ?!」側近の神官長のレソンがダニエルに問うた。
ダニエルとわたしは同時に首を横に振った。
「知っているはずだ。知らぬとは言わせぬ」
宦官長のアシュペナズは言い放つと、媚びるような目つきで神官長のレソンを見た。頭髪を剃り落とした神官長に畏怖の念を抱いている目つきだ。
「恐れながら陛下に申し上げます」とアシュペナズは言上した。「新王のゼデキヤはともかく、エホヤキンとこの者らを処刑しなくてはなりません。神官長もわたしめも、ユダの民が、神の箱とやらを奉じて、いずれバビロニアに叛く恐れがあると案じております。この者らを生かしておくことに不安を覚えます。腸卜僧2人も同じ思いでありましょう」
「神官長、宦官長、おまえたち2人が、余の亡きあと、皇太子の後ろ盾となり、実権を握るつもりでいることは存じておる」
「何を仰せに!」神官長のレソンが王の前に倒れこんだ。「陛下は、わたしの忠誠を疑っておられるのでございますか!? いますぐ、わが命を、忠誠の証しに差し出します」
「芝居がかった振る舞いを、マルドゥク神は喜ばれまい」
王は神官長を黙らせると、大祭司のアザリヤにたずねた。
「聖なる櫃と言われている、神の箱はどこだ!」
「残念ながら」とダニエルは言った。「ユダの民の多くが異教の神、バアルやモレクを信ずるようになったとき、神は激怒され、聖櫃を隠されました」
王はアザリヤに向き直り、「神の箱がないと知っていて、自国の民に勝利を信じさせたのか? その結果、城門を閉じさせ、死なせたのか。おまえたちの神はそのような無慈悲なものなのか?」
アザリヤは言った。
「イザヤは、かつてのユダの王・ヒゼキヤに神の言葉を伝えた。『すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日にまでに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残る物はない。また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの宮殿において宦官となる』と」
王は呵呵大笑し、「残念だな、エホヤキン王の子は宦官にならず、息絶えた。予言ははずれたな。神の箱を紛失したのなら、余と余の兵士に災いをもたらすこともできぬということだな」
「バビロニアの王よ。われわれユダの民が、東のアッシリアびと、西のペリシテびと、そして貴国のカルデアびとに食いつくされるのは神の怒りに触れたゆえである。すべて創造主たる神のご意志であり、王の力に屈したからではない」
「おまえが、われわれの信ずるマルドゥク神を崇めるなら命までとるまい。証しとして、余をマルドゥク神と思い、拝礼せよ」
アザリヤはまばたきすらしなかった。
神官長の口元に笑みが浮かんだ。
「宦官長の選んだ少年らに大祭司を処刑させてはいかがかと」
「名案だ」王の声が弾んだ。
兵士がアザリヤを少年らの前に立たせた。アザリヤを目の前にすると、少年らは蒼白になり、立っていることもできないほどに全身を震わせた。
「大祭司とともに死ぬか、おまえたちの神を棄てるか、どちらかを選べ」
王の言葉を通訳が告げると、少年らは悲鳴をあげた。
ダニエルは微動だにしなかった。
「万軍の主は定められた滅びを全地に行なわれる」と、大祭司アザリヤはふたたび預言者イザヤの言葉を告げた。「『暗やみの中を歩んでいる民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った』」
「おまえたちの手で、大祭司を石打ちの刑に処せっ」とネブカドネザル王は命じた。「2度と光を見ぬようにな」
少年らは声を放って泣きながら、「神がお許しにならない」と声をそろえて言った。
「死にたくなくば石を投げよ。大祭司はおまえたちと民を惑わしたのだ」
「陛下、わたしが代わってやります」と秦野が申し出た。
うしろから彼女のドレスを、引っ張った。
「悪魔の手先である邪悪な者に、わたしは倒されぬ」と大祭司は言った。「おまえの汚れた魂は永遠に救われない」
「えらそうなヤツを見てるとムカつくのよ。殺してやりたくなるよ」
秦野は吐きすてると、大祭司に近づいた。
ダニエルは秦野の目の前に立ち、両腕を横にのばし行く手を阻もうとした。
大祭司はダニエルの背にむかって魔女に近づいてはならないと命じた。
「王と幼きの者らとともに生きることが、おまえに課せられた使命だ。産まれたときからの定めである」
王はいらだちを隠さなかった。「余が見飽きぬうちに早く、殺れ!」
秦野はダニエルの広げた腕の下をくぐり、兵士の用意したこぶし大の石の山から1つを手にとると、眉ひとつ動かさず大祭司に向き合い、肩の上に自分の腕を大きく振りあげた。いつもの彼女ではない。緑色の目が充血し、眉が釣り上がっている。光沢のある衣が彼女を一層、この世の者ではないように見せる。
【Stay away!】
ルーシーは警告したが、わたしは五芒星を大きく描き、5つの元素を唱え、印を結んだ。
大祭司は響きわたる声で言った。
「主、万軍の主は定められた滅びを全地に行なわれる。亡国の民となる道を、わたしはえらばぬ」
広場は靄に包まれた。変装シールドをまとった複製人間、表情のない運転手が靄の中から現われた。
行く手を阻むように、十字架を首にかけ、白衣に身を包んだ黒人が複製人間の前に立ちはだかった。忘れもしない。黒豹のような初瀬セラーファだ。
複製人間の顔面が一変した。「セラーファ、やはり、おまえが真の敵だったのか。アオガエルじゃないとわかっていたよ」
その声は安曇亮子だった。長外筋のリョウは身じろぎひとつしない秦野の手から投石用の石を手に取り、腕をブンブン振り回したかと思うと、大祭司にむかって投げつけた。
彼女の手から放たれた石は大祭司の眉間に命中した。
「願わくばわれをかくれたる罪科から解き放ちたまえ……」
大祭司は呻き声とともに聖句を発し、一瞬ののちに、大地にのけぞり倒れた。
ユダの女たちは耐えられず、腰まであるスカーフの裾で顔をおおった。
この場にいる人たちの目には、秦野が石を投げたように見えたはずだ。
秦野は手を叩いて、喜んだ。秦野家の運転手を複製人間だと思っていたわたしはめまいを起こしそうになる。
なぜ、この世界で彼女らに出会うのか?
リョウとセラーファは向き合ったまま、宙に浮き上がると、わたしの頭上でかき消えた。
【けっして動いてはなりません】ルーシーの声が耳元で聞こえた。【この瞬間に限って言えば、あなたにしか見えない、2人がここにいる理由を見せましょう】
初瀬セラーファは地震のあった日、商店街が炎上し、早朝から店舗に出向いていた父親が被災し、彼女は父親の安否をたしかめようと燃え盛る建物に飛び込み焼死していた。一方の安曇亮子は自宅が倒壊したさいに、頭部を強打したせいで病院のベッドでいまも昏睡状態がつづいている。
【秦野亜利寿がこの場にいる理由も見せます】
白日夢のような幻影が眼前に広がった。喪服姿の秦野はサバイバルナイフを振りあげ、なんども振りおろし、父親の顔だと判別できないほど切りつけた。血しぶきが秦野の顔に飛び散っている。焦点の定まらない目の秦野の胸元に何者かの手がのびた。父親のものではない、その手には、父親の襟元から引き抜いたネクタイがあった。紙のように白い顔の秦野はネクタイを受け取ると、レコードプレイヤーのふたをあけた。
思わず自分の腰帯に手をやった。秦野は手持ちのネクタイを引き裂いて、腰帯の作ってくれた。それが何に使われたものか、はじめて知った。
蝶々夫人のオペラ『ある晴れた日に』のレコードをかけた秦野は笑顔になり、ネクタイをドアのロックにかけて結び、首を差し入れた。そして、父親を刺し殺したサバイバルナイフを自分の胸に突き立てた。彼女の死を見届けた正体不明の何者かは、はじめからいなかったかのように煙のように消えた。
この人物に、わたしたち4人は操られているのではないのか? なんのために?
【すべて神界文書に記されています】
秦野の足元には、大祭司が仰向けに倒れている。声を発する者はいなかった。
「生殺与奪の権は余にある」と王が宣言した。「自らを預言者と称する者からはじめる」
バビロニア兵によって、蓬髪の男が引きずり出された。裸足で腰布だけをまとい、半裸に近い。
ネブカドネザル王は問うた。
「おまえは物乞いか」
「神の言葉を預かる者だ」と物乞いにしか見えない男は答えた。
宦官長が言った。「この者は、わが軍がエルサレムを落城させる以前に、抵抗をやめろ、降伏しろと門前で叫びつづけたそうにございます」
「預言者とは、ユダの民を鼓舞するのではないのか?」
「万軍の主はこう言われる『見よ、わたしはこの民の前につまずく石を置く、人々は父も子も共にそれにつまずき、隣り人もその友も滅びる』」
大声で告げる男の目は強い光を放ち、バビロニアの王を前にしてもたじろぐことがなかった。
「おまえは自国の民の滅びを預言するのか?」
「神は、エルサレムを荒れ塚とし、山犬の巣とされる。またユダの町々を荒らして住む人もないところにされる」
「あらたにユダの王となったゼデキヤはこの先、どうなるのか予見してみよ」
「主は言われる。『バビロンの王はつるぎの刃にかけて、ユダの王ゼデキヤとその家来たちとこの町に残っている民を撃つ』」
王は、この男を放免するように兵士に命じた。しかし、言葉を継いだ。
「おまえは大祭司の骸を目にしても哀れに思わないようだな。これも、おのれの神が科した刑罰だと思っているのか……」
バビロニアの王は不思議そうに言った。
「主は言われる。『70年の終わったのちに、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデアびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする』」
男は、2人の兵士に引きずられながら叫んだ。
「おまえの目に、大いなるバビロンは永遠に映らぬ。おまえの預言を信じずに、最後まで戦った兵士らを先導した者らはいまからひとり残らず串刺しの刑に処す。命を永らえたことを喜べ」
この男がだれにむかって叫んでいるのか、だれにもわからなかった。
王は、「黙らせろ」と短く言った。
為すすべのないユダの兵士らを、バビロニア軍の兵士らの剣がおそった。武具を取り上げられた兵士らは抵抗しなかった。断末魔の悲鳴や呻き声がやむと、血の海に横たわる兵士らは先の尖った棒で刺し貫かれ、リブラの城壁に吊された。肉と骨のきしむ音しか広場には聞こえなかった。その様子を眺める王の目は冷ややかでありながら、どこか寂しげでもあった。全身に血しぶきを浴びたバビロニアの兵士らは異様な眼差しで、残された獲物であるエホヤキン王とダニエルらを取り囲んだ。
エホヤキン王は覚悟しているのか、目を閉じ、死出の旅を待っていた。桟敷の下に控える新王のゼデキヤは兄の処刑を待ちわびているのか、上体を前後に揺らしていた。
神官長のレソンは宦官長のアシュペナズの耳に口を寄せた。何事かささやいたあと、宦官長が人垣のうしろに隠れているわたしを一瞥した。
「陛下、魔物に尋常ならざる力があるのかどうか、お試しになってはいかがでしょう?」
王はそれには答えず、デイオケスに視線を転じた。
「近くへ」
「はっ」デイオケスは短く答えると、王の前に進み出た。
「祖父のフラワルティは智者であり、勇者であった」と王は言った。「かの者の死を余は惜しみて余りある」
「いくさしか知らぬ武骨者の祖父でしたが、陛下のお心を知ればいま少しお役に立ちたかったと黄泉の国で嘆いておりましょう……」
声がかすれて聞き取りにくい。デイオケスの額には玉のような汗が吹き出し、鎧の胸元に流れ落ちている。様子がおかしい。
「いく人処刑しようと、総参謀長を喪った余の目を愉しませぬ」
王はそう告げると、わたしを再度、呼び寄せた。そして、わたしの顔をしげしげと眺めた。
「亡き総参謀長の戦利品であるこの者の妖術をこの目で見たいと思う。巨大な黄金の像だったと申す者もいる。ユダの者らの言うようにサタンかもしれぬな」
「噂にすぎませぬ」デイオケスは平伏したまま告げた。
王の表情がみるみるうちに変わった。憤怒で赤黒くなった。
「見せてさしあげますわぁ」
秦野のゆるい声が広場に流れると、緊張の糸がプツンと音を立てて切れた気がした。
いつのまに持ち出したのか、わたしの折畳み傘をさした秦野は、桟敷の前に進み出ると、刃のないカッターナイフをちらつかせた。
養母から盗んだシャネルの5番も役立ったのかもしれない。
香水と血のにおいがただよう彼女の背後に、リョウがいる。
「魔物と闘ってもぉ、かまいませんわぁ」
「それは一見に値する!」
王は秦野の美貌もさることながら残酷な所業をものともしない性癖が気に入ったようだ。
「お待ちください」
どす黒く変色した血の跡の上に立つダニエルはネブカドネザル王にむかって拝礼した。そのダニエルの背後には、彼を守護するように白衣のセラーファがいる。
リョウもセラーファも、わたし以外の者の目には映らない。
リョウは秦野のかたわらに立ち、ダニエルを指差した。秦野は操り人形のように腕をあげた。
そのとき、「陛下の長命を願い、陛下の信ずる神をわが神といたします」とダニエルは言った。
「その言葉に偽りはないか? ヘブライ語であっても、同じことが誓えると申すか?」
「広場に運び入れました輿の中をご検分くださいませ」
「何が入っていようと、エホヤキンとおまえたちの命はない」
ユダの女たちのあいだから悲痛な声がそこかしこからもれた。
リブラの住民のあいだにもどよめきが起きた。
王は満足気に笑い、ふと思いついたように秦野に、「おまえのいう麗しき者とはダニエルのことか」と問うた。
「仰せの通りでございま~す」
秦野は歌うに言ってドレスのすそを両手で持ちあげて腰をかがめた。その声はいまにも笑いだしそうだった。咲き誇る赤いダリアのようだった。
「サタンの娘だ」「魔女」だとささやく声が、あちこちからあがった。
群がり出たバビロニア軍の兵士らは、秦野とダニエルの周囲に大盾で壁をつくった。
彼女は傘を閉じると、先端をダニエルに向けた。黒い雲の塊がダニエルにむかった。
セラーファは胸をひらき、両腕を肩のところまであげた。
ダニエルが、「神はともにいまし、このほかに神はなく、ひとりもない」と言った。
そのとたん、光の輪がダニエルの全身をおおった。
ネブカドネザル王ははじめて光輪を目にしたのだろう。言葉を失ったようだった。兵士ら驚きのあまり盾を支えられず投げ出し、その場にうずくまった。
シャムライらは秦野に襲いかかった。
ルーシーの名を呼ぶ前に、すべてが静止画像になった。
【Quickly!】
ルーシーは急かしたが、おそれおののく兵士の間をくぐりぬけるのに手間取った。
セラーファが宙を飛び、接近するやいなや、リョウの眉間を押した。
彼女は空気のぬけた人形のように地中に吸いこまれた。
わたしは秦野に近寄り、握りしめた傘を取り上げ、たたんで懐に隠した。
人びとがもとの状態にもどった。毅然としたダニエルを前にして、呆然とたたずむ秦野を目にしたユダの男らの安堵した声がさざなみのように広がった。
「小賢しいこわっぱ1人に勝てぬとは、役に立たぬ魔女だ!」と王は立腹し「斬り殺せ!」と命じた。
兵士の1人が秦野の胸に剣を突き立てようとした。剣を持つ兵士の手にわたしは咬みついた。骨が砕ける音がした。
デイオケスが兵士の剣を奪い取り、あっという間に兵士をねじ伏せた。彼は取り囲む兵士らを見渡し、「下がれっ」と大声で言った。
「魔物と魔女を斬れーっ」王は絶叫した。「世迷い事を言い散らす者を生かしておけぬ!」
デイオケスはひざまずき、「陛下、この者らをわたしにお預けください」と願い出た。
「ならぬ!」と王は言った。
「今後、陛下のいかなるご命令にもしたがいます」
「なによ、それ」と秦野はつぶやいた。
わたしはデイオケスの隣で身構えた。メディア兵はデイオケスを守ろうと押し寄せてきた。数で勝るバビロニア兵はメディア兵の前に壁となって押し返した。
それが合図のように秦野のドレスの裾に潜んでいた黒猫が現われ、背中の毛を逆立てて、「ニャンニャンフーッ」と鳴き、立ちふさがる兵士らを威嚇した。
絹糸のような黒い毛がいく本も矢のように飛び、兵士らの顔に突き刺さった。剣を構えたまま、バビロニアの兵士は声もなく倒れた。
「生死を確かめよっ」と王は命じた。
「絶命しております」シデオン将軍は驚きの声で伝えた。
王は立ち上がり、「魔物も魔女も許すわけにいかぬ!」
秦野は声を上げて笑いながら、「どうしたのぉ~、ドラちゃん?」喉を鳴らす子猫を抱きあげて頬ずりをした。「もっとやるぅ?」
人びとは、恐怖の眼差しで秦野とわたしを見つめた。王も同じなのだろう。唇が変色し、わずかに震えている。ダニエルが光輪に包まれたとき、人びとは聖なるものとして畏怖し崇めたが、黒猫の所業は悪魔の為せるわざと見たようだ。
「兵士は気を失っているだけです」とダニエルが言った。
シデオン将軍がダニエルの言葉を遮ろうとしたそのとき、兵士らは目を覚まし、立ち上がった。みな、周囲を見回し、何が起こったのかわからず、互いの無事を確かめあった。
「陛下、ご容赦ねがいます」デイオケスはふたたび剣を後ろ手にひざまずいた。
王はそれには答えず、ダニエルにむかって、「ただいまより、ベル・マルドゥク神にあやかり、ベルテシャザルと名乗れ」と命じた。
そして、王は問うた。「ベルテシャザル、おまえの名は、アッカド語で〝王を守る者〟という意味だ。この者らの力は魔界の王の力によるのか」
「取るに足らぬ、まやかしの呪術にすぎません」
答えるダニエルの瞳には翳りも動揺も見えない。輝くばかりに美しい面立ちを心持ちかしげ、桟敷と向かい合う位置に静かに立っている。シャムライらはその後ろに身を低めていた。ユダ族の少年たちも、名も知らぬ優美な同胞の背後に身をひそめ、息を殺している。みな、華奢な少年のそばから片時も離れまいとしている。
「ベルテシャザル」と王はふたたび声をかけた。「ユダの民であったときの名をみなに告げよ」
「ダニエルと申していました」
見物人は、ダニエルという名を口々につぶやいた。目の前の美童がエルサレムで育ったことを知る者は少年らと祭司らの他にいなかった。
「ベルテシャザルと名を改めた故に、ベル・マルドゥクの霊力を得たのだな?」
「陛下が定めのない時まで生き永らえますように」
ダニエルは王の問いには答えずに型通りのあいさつの言葉を述べた。
振り返り、シャムライらに、輿の中から貢ぎ物を取り出すように命じた。神殿にあった黄金の器の数々だった。
「これらの什器は、フェニキアのティルスの王にかつて仕えていたヒラム・アビブが手がけたものでございます。神の宮はもとより、広場に建つ、精銅製の2本の柱や手洗い台もヒラム・アビブが設計し、彼のもとで働く職人によって作られました。名高いソロモン王は、ティルスの王の力を借りて莫大な富を築き、エルサレムに壮麗な神殿を築きました。それらのすべてを陛下に献上いたします」
「ティルスはユダと異なり、いまも栄えておるな」
「陛下のお力をもってすれば、都市国家にすぎないティルスなどなにほどのことがありましょう」
「メソポタミア広しといえども、ベルテシャザル、そなたのような麗しい者はおらぬ。それ故だろうな、捕われた少年らのうちで美しき者たちが従っている」
「姿かたちの美しさなど、天の神による配剤に過ぎませぬ」
王は皮肉な笑みを浮かべた。
「そなたの口にする神とは、わが神ベル・マルドゥクのことであろうな?」
「王よ、あなたは王の中の王になられるお方です」
「メディア、リュディア、エジプトがわが国と並びたつ中で、余を最強の王だと申すのか? 先程の男は、バビロンは永遠に滅びると申したぞ」
「陛下が王の中の王となられることは、わが神、ヤハウェの御心にございます」
「いま余の目にしたすべてのことが、おまえの神の力だと申すのかっ」
「陛下の栄光を、義なる神が告げておられます」
「天使と悪魔の子のぉ、戦いだったのにねぇ~」
秦野は子猫に話しかける。「ドラちゃんにだって、ウソとホントの見分けはつくのよぉ、ねぇ~」
王は秦野とダニエルを見比べながら、
「正直に申せ。余はこのところ、心にかかる夢を見たがどうしても思い出せず、バビロンから腸卜僧らを呼び夢の内容を問いただしたが、返答できる者がだれひとりおらぬ。処刑せよと命じたところ、アリオク護衛長から書状が届き、ダニエルと申す者なら解き明かせると伝えてきた。さきほどから、そなたに魅入られた王子の頼みがなければおまえは死んでいただろう、黄金の器を差し出す前にな」
「アウィル王子に御礼申し上げます」とダニエルは応えた。
皇太子ははにかんだ。
「聖櫃と呼ばれる神の箱はどうした?」と王はたずねた。
「亡くなられた大祭司の言葉に偽りはございません。聖なる櫃はユダの民のもとを去り、神のお手元にもどりました」
どよめきが大きくなった。
「たったいま、献上いたしました品々は、神の宮の什器でございますが、それは、陛下にお預け致します。いずれ、わが民にお返しいただきとうございます」
「そなたは、余をだれだと心得るのだ!」
「アッカドの王にして、四周の王であらせられるネブカデネザル陛下におわします。陛下の父君、ナボポラッサル王の治世43年の最後の年に、皇太子であられた陛下はエジプト軍征伐の指揮官として勝利され、そののち、陛下は、負けしらずにおわします。この先、50年は、バビロニアにいくさを挑む者などおりません」
「50年か――余が、四周の王であるのは――」
王は立ち上がった。
「陛下は権勢を誇ったアッシリアを滅ぼし、この世界を統治される権限を掌中にされました」アシュペナズが口添える。
王は真剣な眼差しになった。
「ベルテシャザルに訊く。これからわが帝国の命運はどうなる?」
「陛下の治世は永きにわたり、栄えましょう。のちのちの世の人々にも、バビロンは栄華を誇った大いなる都として、陛下の御名とともに記憶されます。青いイシュタルの門や空中庭園とともに」
「ぜんぶぅ、なくなるのよねぇ~。縁もゆかりもない西の国でぇ、イシュタルの門の一部がぁ、再現されるけどぉ。ほんものとは、比べようがないわぁ」
王はこぶしを握り、ふくれっ面の秦野の独り言を打ち消すようにダニエルに問いかけた。
「エジプトとは、どうなる?」
「こののち、陛下のご威光を怖れたエジプトのファラオは陛下の帝国に足を踏み入れることはございません。陛下の治世は長くつづきます。すべて陛下の御心のままに」
「まことか!」
王は歓喜し、すぐに、「どの国ともいくさはないと申すのか」
王の声に不満がにじんだ。
「陛下の欲する隊商路の終着地は、上の海を自由に航行する船団を擁するティルスをおいて他にないものと思われます」
「なぜ、ティルスだと思うのだ」
「ソロモン王の時代がそうであったように、フェニキアの諸都市の中でも、ティルスの交易による富は群をぬいております。鉱物を筆頭に象牙、油、貴金属、良質の杉、わけてもアッキ貝で染める赤紫の織物は他の国にないものにございます」
「攻略はたやすいか」
「いくさに関しましては、総司令官の将軍におたずねになられたほうがよいかと存じます」
「シデオン」と王は呼び、ふたたび腰をおろした。
「御前に」ひざまずく将軍の声は硬かった。
「述べよ」
「半月、いえひと月で落としてみせます」
「亡き総参謀長の後継者、デイオケスはなんと心得る?」
デイオケスは王の前に進み出ると、片膝をつき、途切れがちの声で述べた。
「ティルスは大海に隣接する地形を生かし、沿岸部の陸地に堅固な防護壁を築き、さらに浅瀬の近海に浮かぶ島に橋をかけ、その島にも防護壁を築き、他国の侵略があった場合の避難場所としております。従って攻略には短くて数年、長くて10年を要します。その間、属国との間でいくさがあれば、状況は悪化するかと……財政も……」
「副官の慎重さは祖父ゆずりだな」王は眉間を寄せた。「いつになったら船団で上の海に乗り出せるのか、ギリシアの諸都市と戦えるのか」
「ティルスを攻めるとき、シリアを横断しなくてはなりません。パレスチナの反乱に留意せよと、祖父は申しておりました……とくにユダの民には……」
デイオケスは肩で息をしている。
「こたびの捕囚で、エルサレムは余の意向にそむく者はいなくなると思うが、そうではないのか?」
「ユダの民の意志をくじくことはかなわぬと、祖父は申していました」
「なぜだ? 栄華を誇ったアッシリアの民は、国が滅びると同時に胡散霧消したではないか」
「ユダの神は安寧を約する神ではなく、民をいさめ、復讐する神でもあります。他国の神を信仰することを、けっして許しません。陛下もご承知のはず。ユダの民の中には、何者にも屈することなく、生涯をかけて彼らの神から課された使命を果たします……」
デイオケスの声は次第に小さくなった。
「ティルス攻めの前にパレスチナを叩けということか。あいわかった。今宵、ユダの神を棄てたベルテシャザルと従者を余の滞在する屋敷に招く」と王は告げた。「そなたも来い」
デイオケスはネブカドネザル王にむかって低頭した。それから、ゆっくりと後ろにさがった。
「みな、下がれ」と王は言った。
ダニエルは捕虜となった将兵と向かい合った。ダニエルはひと言ももらさなかった。ユダの民もひたすらダニエルを見つめるだけで何も言わない。
彼らの間に無言であっても、互いの思いを伝えあっていた。
ダニエルはきびすを返し、立ち去ろうとする王にむかって平伏し言上した。
「陛下、囚われた兵士の手を借りてエホヤキン王のご子息および大祭司の亡骸を城壁の外へ葬ることをお許しください」
「逃亡できるとは思っていないだろうな」
「陛下から名をたまわったわたしは、すでに陛下のしもべでございます。この者らも同様にございます」
「エホヤキンは処刑しない」と王は言った。「獄につなぐ。それでよいか」
「ご温情に感謝いたします」
桟敷からネブカドネザル王とアウィル王子の姿が消えると、側近らは急ぎ足で後を追った。エホヤキン王につらなる貴族や商人、それに自由な身分の寄留民の職人らはすでに野営地で捕われているようだ。バビロニアの兵士の一団は黄金の器を回収し、数人の兵士を残して広場からいなくなった。
ダニエルはわたしに向き直ると、感情のない声で言った。
「あなたのおかげで、わたしはバビロニアの王の信頼を勝ち得ました。こうしてみなとともに、生きのびることもかないました。エホヤキン王は捕われの身となりましたが、王の子孫はやがてかけがえのないお方の祖先となられます。わたしはいつの日か、神の啓示を得て〝終わりのはじまりのとき〟を書き記すでしょう」
はじめて会ったときのダニエルといまのダニエルとはあきらかに異なっている。
わずかな時間で変容したとしか考えられない。
ダニエルと少年らは野ざらしの死体を兵士の力を借りて片付けると、うずくまるエホヤキン王を抱えおこし、神殿の什器を運んだ輿へ運び入れて広場を後にした。
メディア軍兵士は、地面に両膝をつくデイオケスを抱えて広場を去ろうとしたが、デイオケスは先に兵舎にもどるように命じた。
殺伐とした静寂が訪れた。
秦野はドレスの埃をはらいながら、「ダニエルに、いいとこどりされちゃったわぁ~。デイオケスに教えてあげる。王さまなんて、耳触りのいいことしか聞かないのよぉ~。ダニエルを真似しなきゃ、出世しないわよぉ。王サンたらぁ、破滅させられるのにぃ、自分からぁ術中にはまるんだものぉ」
「ダニエルさまは神に選ばれし者」少年の中で1人残ったシャムライが怒鳴る。
「大祭司を亡き者にしたこの女を、おれは許さない!」
「彼女じゃない」と思わず言った。
もしかすると、セラーファとリョウはわたしの意識の生み出した存在かもしれない……。
「おれはこの目で見たのだ、この女が石を投げるのを」
石を投げたのは、わたしなのか……。
「ダニエルはねぇ~。都合の悪いことはぁ、けっして王さまに言わないんだものね~。この先、王子の養育係になってぇ、宰相にもなるわ。そしてぇ、バビロンを内側から腐らせてくのよぉ。それが正しい行いだとぉ、信じて疑わないからぁ、余計に恐いのよねぇ。謎々のようなおそろしい預言を書き残して、後世の大勢の人を恐怖に陥れるわぁ。ヤになっちゃう。ミタマはぁ、認めなーい。そうそう、あんたたちが保護した大祭司の子、ヨザダクはめでたく大祭司になるわ。バビロンでだけどね」
シャムライは秦野の顔を食い入るように見つめた。
「おまえは何者なのだ……大祭司をたった1つの石で殺したおまえは何者なのだ」
「こっちの世界にきて気がついたのぉ。預言ってぇ、みーんなの頭を狂わすためにあるんだってぇ。ミタマはぜった~い、騙されないわぁ。とんでもない預言のせいで、復讐はいつまでたっても終わらないのよねぇ。まぁ、預言がなくったってぇ、復讐はぁ、なくならないけどねぇ。このわたしだってぇ」
「おまえはいつの日か、ダニエルさまを殺める気なのか!」
シャムライは剣のつかに手をかけた。
「男子ってぇ、単細胞だからぁ、短気なのよねぇ。うんざりぃ」
「なんだとお!」
「ほらぁ! いまさぁ、歴史の転換点にいることさえ、わかってないんだからぁ。バビロニアが滅んでぇ、このあと、どうなると思ってるのよぉ。あんたたちのたった1人の神さまに対抗するためにぃ、あんたたちの書いた巻き物を真似て、ヨソの国の民がぁ、たった1人の神さまを発明するせいでぇ、たった1人の神さまが合計で3人になってぇ、どれだけの人が拷問されたり、殺されたりするのか、あんたわかってないでしょ? いまガザにいるペリシテ人とあんたたちは長く争ってきたけどぉ、2000年たっても、3000年たっても争いはなくならないのよぉ。まぁ、表向きはカタチのない神さまのために戦うなんてぇ言ってるけどぉ、ほんとはぁ、土地をめぐっての争いなんだけどね。バカらしいと思わないんだからぁ」
シャムライは剣を抜くと、秦野に斬りかかった。「その口で、われわれを惑わすなっ」
「魔女だからぁ~、ダニエルのように嘘がつけないのぉ。ほんとのことしか言えないんだもの」
「おのれっ、殺してやる!」
殺気立つシャムライを、ヤディが、はがいじめにした。
「女を殺してなんになる。おまえは、おまえの信じる者を守ればいいだけのことだ」
秦野は、「あっらぁ~ランラン」と笑い、シャムライを見つめた。「どうしてぇ、残ってるのぉ? わたし、そんなにきれい? 地獄のプリンセスだものねぇ、見惚れて当然よぉ」
「おまえら異形の者を、おれはいつかかならず倒す」
「さっさと殺しなさいよっ」秦野の口調が変わった。「1度が2度になったって、どうってことないんだからさ。その剣で、胸の真ん中を刺し貫きなさいよっ」
秦野は胸を叩き、吐きすてると、いきなりシャムライに抱きついた。
「化け物め、汚らわしい」
シャムライは彼女を突き放した。
「あんたたちダニエルのお付きはバビロンには行けないわぁ。いい気味ぃ。だれかさんのためにぃ命を捧げるなんてぇ、おバカのすることよぉ」
そのとき、青白い顔で立っていたデイオケスが嘔吐し、その場にくずおれた。
「先程から気にかかっておりました。お具合がわるいのですか」
ヤディがたずねると、デイオケスは首を振ったが、我慢の限界だったのだろう、気を失った。
「毒を盛られたみたいね」と秦野は言った。
「だれに!?」
「わたしたちじゃないわ」
「宦官長か……やはり」
「下働きの女に気をつけることね」と秦野は言った。
ヤディはデイオケスを背負うと立ち去った。
「生きようと死のうとたいしたことじゃないわぁ。ミタマはぁ、したいようにぃ、するだけぇ」
死を決意したときに、自ら死を選択するという意味なのか。
「あ~あ、たいくつぅ。わたしってぇ、簡単に殺されちゃたから、男という男に復讐しないと気がすまないわぁ」
秦野は自分が殺されたと思い勘違いをしているのか?
性格を考えれば、加害者となっても被害者になることはないと思わないのか?
何があっても、彼女自身の個性が揺らぐことがない。
秦野は、刃のないカッターナイフをわたしに差し出した。
刃がもとにもどっている!
腕時計を見る。1時36分6秒。見直す。
「……もしかして、7時間と7分と7秒、動いたということなのか……7が3つ……」
おそらく、エホヤキン王とダニエルの命が助かったからだ。ということは、命を使うわたしの使命が終わったのだ!
わたしや秦野にその意志はなくても、ダニエルの言ったように、ネブカドネザル王は聖書に記述されているように行動する結果を招いた。王はバビロニアが滅びると知りながらティルスを攻める。兵士を動員すれば、国内が疲弊し、混乱するし、他国の台頭を許すことになるが、王は自らの野望に勝てないのだ。
嵐になるとわかっていても、王は船出を望んでいる。
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ワイン用の陶器が映っています。