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【長編小説】北イスラエル王国の滅亡 (後篇)       

あらすじ(後編)

 記憶の蘇ったテリトゥは、キャラバンを率いる、ナバテア人のネルに助けられる。砂漠を本拠地とする彼らとともに、アッシリアの聖なる都アッシュルにむかう。その地でハキームと再会。参拝中のアッシリアの若き王シャルマネセルをテリトゥは殺める。
 三年後(紀元前七二一年)。
 王位を継いだアッシリアのサルゴン王はエジプトを攻略するため、進軍をさえぎる北王国イスラエルの本拠地、サマリア城に総攻撃をしかける。
 指揮官のジグリを筆頭に死を覚悟した兵士らの中に十七歳になったテリトゥと一群の傭兵がいた。テリトゥはジグリに勝ち目のないいくさをやめ、砂漠へ逃亡するようにすすめる。怒り狂うジグリ。兵士の間に動揺が広がる。

登場人物

    テリトゥ……シュメル王家の末裔。
          竜神に守護されている。
          隻眼で頬に切り傷がある。

    ネル……キャラバンを率いるナバテア人の男。

    サルゴン2世……アッシリア帝国の110代の王

    ジグリ……エフライム族の指揮官

    ハキーム……テリトゥを慕う少年

    ゾーヤ……バアル神を崇める巫女(13歳)。ジグリの妹

    神殿の偽祭司長……アッシリアの密偵

    シャダイ……アッシリアの密偵

    黒衣の男……テリトゥの義兄。テリトゥに復讐を企む

    ガディ……低位の祭司、テリトゥの兄を名乗る。   


第八章 七つの神の力〝メ〟


 雨期の終わりを告げる、荒れすさぶ熱風と砂嵐(シャマール)。果てしなき荒涼に、テリトゥの魂は消えかかっていた。
 ツノクサリへびが足元を這う。
 赤みがかった砂塵に青い稲妻がいく筋も走る。
 砂にまみれた太陽は沈みかけて沈まない。
 巨大な波のような灰褐色の砂がテリトゥに襲いかかる。
 マントを頭から被り、うずくまり、砂の渦の流れに身をまかせる。

 とぎれとぎれに声が聞こえる。遠くから、自分を呼ぶ声が……。

 大つむじの風のごとく、狂気と災いをもたらし、光と闇をつらぬく者となれ!

 なんど太陽を見失っただろう。

 砂嵐がやみ、薄暮に揺らぐ彼方の陽炎に黒い点が一つ、隻眼(片目)が視界がとらえる。
 少しずつ、ほんの少しずつ、何かがこちらにむかってくる。
 テリトゥは空腹と喉の渇きで、いつ息絶えてもおかしくない状態にあった。
 ヨルダン川の東岸は西岸と異なり、牧草地はわずかしかない。
 眼前に広大な砂漠が広がっている。

 幻影に見えた黒点が、次第に形を取りはじめる。

 まだら模様の意識に、言葉の断片がとぎれときれに浮かんでは消える……。

 黄金の鍵……養父……大祭司……ホセア王……タボル山……ハキーム……。

 わたしはエズレルの谷でイスラエルの弓を折ると王は言った。

 自分はどこからきて、どこへ向かおうとしているのか……。

 カルカル……あの黒点は……カルカル……漆黒の名馬……。

 テリトゥは起き上がった。記憶が雪崩のように甦る。

 カルカルのうしろに、キャラバン(隊商)の一行が見え隠れする。

 テリトゥはよろめきながら乾き切った左目に涙を溢れさせた。カルカルを目にしたとたん、苦痛と恥辱は彼方に消え失せた。
 ふたたびカルカルと巡り会えた奇跡は、南北両国の民の崇めるヤハウェの恩寵でもなければ、アッシリア人の崇めるアッシュル神の恩寵でもない。
 テリトゥの意識を喚起する何者かの声の励ましがあればこそ、記憶を取り戻すことができた。

 カルカルはテリトゥのそばにくると、いななき、頭を上下した。
 黒い瞳を縁取るまつげや鼻の穴にも砂埃が付着している。脇腹にあばら骨が浮き上がっている。

 長い首を抱き締める。「カルカル……生きていたのか……おまえさえいれば……生きていける」

 ひとこぶラクダを率いるキャラバンの隊長は、低く巻いたターバンの下の顔は乾燥し、無数の皺が頬骨に貼りついている。ネルと名乗る男は手入れをされていない髭を生やし、年齢が読めない。
 ラクダから下りると、後につづく者たちもならった。死者の祭儀に必要とされる没薬(医薬品)と香料(化粧品)を運んでいるという。

「この馬が砂漠をさすらっていたので、連れてきたんだ。まさか、主人(あるじ)を捜しているとは思わなかった。ひづめを痛めているのに、おれたちを、おまえのもとに導いたのだ」
 ネルはテリトゥの白濁した目や頬の傷跡を見ながら、
「どこの国の民だ?」
「わたしはどこの国の民でもない」
「同じだな。ナバテア人のおれたちも強国に属さない。砂漠を棲家するおれたちの根城を襲う部族はいない。ハゲタカのベドウィンでさえな」
「砂漠が棲家……」
 ネルの言葉をテリトゥは繰り返した。
「ネゲブ砂漠のワジ・アラバの西に岩山ばかりの荒地がある」

 ペトラ遺蹟で知られるナバテア文明を築いたと言われるサバ・ナバテア人は紀元前(B.C)七世紀から紀元後(A.D)八世紀までの一千年にわたって、アカバ湾にむかってのびる広大なネゲブ砂漠に居住していた。

 「おれたちは家を建てず、ワインを飲まず、木を植えないと部族の異なる遊牧民に言われている。そんなことはない」と、ネルは言った。「雨期に雨水を貯めている。この胡椒もおれたちの植えた木の実だ」

 誰も棲みたがない砂漠になぜ住むのかと、テリトゥはきいた。答えは想像がついていた。自由に生きたい者にとって、都市は息苦しい。

 ナバテア人は高度に発達した農業システムと水供給システムを保持していたので、ローマ帝国さえ踏み込めなかった。彼らは砂漠に棲み、自由に生きることに固執した。

「さあな」と、ネルは口元をゆるめて答えなかった。
 彼らはこれまで出会った部族の者たちと異なっていた。
「水が飲みたいか?」
 うなずくと、立っている場所から離れるように言った。
 テリトゥの足の下に、枯草がひと固まりある。
 男たちは数人かがりで、穴を掘った。次第に砂が黒っぽくなる。水が滲み出た。
 真っ先にカルカルに飲ませた。
 水溜まりに口をつけようとするテリトゥに、ゆっくり飲めとネル
は言った。かぶ飲みすると、命を落としかねないと。

「町に定住する人間は、水を捜せない。おれたちは道しるべのない砂漠の道を通ってどこへでも行く。地中にしみ込んで水を見つけて、目印を残してな。おれたちだけが知る目印だ」と、ネルは言った。「アイン・アラブ(シリア北部)から西の紅海、東の下の海(ペルシア湾)まで砂漠を越えて行く。おれたち独自の砂の路だ」

「遊牧民でないなら、なぜ、交易路を避ける?」

「アッシリアは品物に関税をかける。そのうえ通行料を取られては儲けは出ない。だから、砂漠の道を行くのさ。アッシリアの兵士は、砂漠には踏みこんでこない。たちまち干上がるからな。ネゲブ砂漠を己れの領土だと勝手に決めている、ユダ王国の兵士も同じだ」
「都市に住まないのか?」

 都市に定住すれば、貧しい者は賦役奴隷になるか、小作奴隷になるしかないとネルは言う。

「北のイスラエルを見ろ。メギドに立てこもったところで、あっという間に蹴散らされた」
「メギド要塞は陥落したのか?」
「雨期と乾期の端境のさなか、第一三の月(うるう月)に逃げ出したんだ」
 いまは、王都のサマリア城で籠城しているという。
「追っ手はかからないのか?」テリトゥは立てつづけに、たずねた。「捉えられなかったのか?」

 一度目は、ヨルダン川東岸のルベン族、ガド族、半マナセ族が捉われた。二度目は、メギドを攻められる直前に北のダン族、アシェル族、ナフタリ族、ゼブルン族、イッサカル族が捉えられた。
 壮年の男子は貴族や祭司もふくめ、アッシリア帝国の属国メディアのゴザン川のほとりに強制移住させられた。一方、若い女の大半はアッシリア内の自由民の奴隷となっていた。

「サマリアで、戦いは始まっているのか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
 ネルは、アッシリア軍はサマリア城を包囲し、兵糧攻めにするつもりらしいと言ったあと、
「雨期が明けて、大麦や小麦を収穫する時期にならないと、本格的な戦闘にはならん」
「どうして?」
「兵站の確保ができん」
 そんなことも知らないのかとネルは嗤ったあと、
「おまえは傭兵にでもなるつもりか?」
 テリトゥは首を横にし、
「アッシリアの王都、アッシュル(現カラト・シェルガト)へ行きたい」
「なぜだ」
「大きな都市だと聞いた。片目のわたしにもできる仕事があるかもしれない」
「アッシュルは王都ではない。王都はニネヴェ(現モスル)だ。大門のすぐそばに、人の頭で翼をもつ巨大な雄牛の像がある(ラマックス像)」

 アッシリアの王都・ニネヴェはアナトリア(トルコ)のトロス山脈のふもとから水路を引き、壮麗な寺院、パピルスや羊皮紙の巻き物、何十万点もの粘土板書籍を有する大図書館、きらびやかな宮殿、花々の咲き乱れる庭園を水で潤しているという。

「王冠のきらめく宝石とも栄華の都とも讃えられている」
 羨ましいと思ったことはないがとネルは言った。
「羊飼いの一家は〝流血の都市〟と恐れていた」と、テリトゥは独りごちる。「ニネヴェに行くべきなのか……」
「捕虜を処刑するとき、目を刳り出し、生皮を剥ぎ、串刺しにする。それを戦勝の記念碑として壁画にしている。連中には、いくさは神の敵を排除する神聖な行いなのだ。イスラエルも同じように考える者が多いはずだ」
 思わず、たずねた。
「神の加護があれば、どのようないくさにも勝利できるのか?」
「どの国の王もそう思っている」
「しかし、敗ける国もある」
 テリトゥが言うと、
「神の加護なき王は、民と兵士から見離される」
「アッシリアは、最強の国なのか?」
「永遠に栄える国など、この世に存在しない。現にいま、王位をめぐって兄と弟の争いがある」
「兄と弟の間でか?」
「先の王ティグラト・ピレセル(第108代)が病死したのち、正妻の子シャルマネセルが王位についたが、父王のように有能ではない」
「有能……?」
「いくさに適していない。兄はアッカド人の血をひくので王位につけないが、軍人としては優れている」
「無能な現王のせいで、サマリアは落ちないのか?」
「戦わずして勝利する魂胆なのだ」
「そんなことができるのか」
「高地にあるサマリア城を攻め落とすには、相応の戦略がいる」
「工夫のことか?」
 ネルは黙ってうなずき、「しかし、現王にその才覚がない。アッシリアで、かならず争いが起きる」と言った。
「どうして?」
「なぜ知りたい?」
「……いくさの成り立ちが知りたいのだ」
「読み書きができるのか?」
 うなずくと、まずメシを食おうとネルは言った。
 テリトゥはすすめられるままに、彼らと輪になって座った。
「いいか。戦闘に文字はいらん。目にし、耳にしたことを逐一、記憶するのだ」

 男たちは手分けして、ラクダの皮の天幕を張る。
 天に月と星が現われる頃、静寂が訪れる。
 周囲にあるのは、永遠の沈黙。
 ネルは小刀と矢じりで火花を散らし、油の染みた小さな布で火をおこした。
「どちらも火打ち石で作られている」とネルは言った。「鋼鉄よりも固い石だ」
 乾燥したラクダの糞を燃料し、火が焚かれる。火にあぶった固い肉がテリトゥにもふるまわれた。熱い。マントで受け取る。牧羊者の一家には一人一人の器があった。彼らは器を使わないようだ。来る道で摘んだという青草を添えて食べろと言う。皮袋の水を飲めとすすめる。ひと口飲むと、目が覚めた。口の中がしびれる。胡椒を混ぜているという。

「空腹を押さえられる」とネルは言った。「小麦のパンでなくとも旨いと思える。おまえがいま口にしているのは、死んだラクダの肉だ。ラクダは馬のように忠実ではないが、水のない砂漠を行くのに適している。わざわざエサを用意しなくてもなんとかなる」

 テリトゥは話を聞きながら、歯の折れそうな肉をかじる。長い間、小麦のパンを口にしていない。大麦と小麦では価格の開きが大きかった。小麦の価は大麦の三倍だった。牧羊者にもらった金は、大麦のパンを何度か買うとなくなった。
 はじめて食べるラクダの肉は旨かった。
「ふしぎなヤツだな」と、誰かがつぶやいた。「何者なんだ?」
 水をたっぷり飲んだカルカルは、大麦の粒をもらい、食べつくすとラクダといっしょに野草を捜して、遠くまで出かけたようだ。
 焚火のむこうにいたネルがいきなり炎をまたいで襲いかかってきた。

 とっさに反応し、飛びのいた。

 ネルはテリトゥの顔に小刀の切っ先を突きつけた。武器をもたないテリトゥは死を覚悟した。砂漠の禿げ鷹と呼ばれるアラブ人の物盗りの一行だと思わなかったが、彼らは、交易路をゆく通常のキャラバンではない。
 自分を殺したところで、得られるのはカルカルだけだ。しかし、「なぜだ?」とは訊かなかった。
 灼熱の苛酷な世界では、殺すのに理由は必要なかった。他の者たちは、警戒する目つきで、テリトゥを遠目にながめている。気づかなかった者も中にはいる。頬のひげをかきながら干した獣肉が焼けるのを待っている。

「勘は悪くない」とネルは言った。「名はなんという?」
「テリトゥ」
「シュメル王家の末裔か?」
「捨て子だったそうだ」
「顔の半分は神のみ使いだが、もう一方は悪鬼だ。女にも男にも見えるが、男とは異なる匂いがする。もしかして女か?」
「わからん」と答えると、みな、声をそろえて笑った。
「われわれの祖先、サバ人は、太陽のしもべだと名乗る女王を崇めていた。黄金と宝石を携え、ソロモン王のもとを訪れた女王をヘブライ人(ユダヤ人)はシバの女王と呼んだ」

 ネルは短剣を手にしたまま、しばらく考えていたが、もとの場所にもどり、腰をおろすと、「おれはヘブライ人の神など信じない。しかし、おまえは、七つの神の力〝メ〟をもっているかもしれない」と言った。
「カルカルの他、わたしには何もない」
「おれの名は、シュメル語で、敵を破壊するという意味だ」とネルは言った。バビロンで書記官だった祖父から伝え聞いたという。

 ネルはシュメル人の神話を語った。

 上なる空が、まだ人の口にさえのぼらず、下なる大地がの名が、まだ思いつかれもしなかったときに、原初の川の水の神と、海の水の神、ティアマトが交じり合って、雲の水の神ムンムが生まれた。
 これらの三神が融け合った混沌の中から、最初の神アン(父神)が生まれた。次に地の神キ(母神)が生まれた。
 アンとキは、天と地を結ぶ紐帯の神エンリルを生んだ。
 エンリルは力をつけ、アンとキを引き離した。
 エンリルは風と嵐の神となり、空の闇を照らす月神シンを生んだ。
 シンは昼を照らす太陽神シャマシュを生んだ。

「それがなんだ?」とテリトゥは言った。「ヘブライ人の書物のようだな」
「おまえはいつか、太陽の神となる」
 ネルはそう言うと、身を乗り出し、
「天の神は七つの主たる神を創世した。第一に天の神、次が天と地の間を支配するエンリル。第三が大地と水の神であるエンキ。第四が月神シン。第五が太陽の神シャマシュ。第六がおまえの名の由来となる暁の明星である女神イナンナ(イシュタル)。第七にニンフルサグという女神だ。イナンナは、ウルク市の主神だった」
 空腹が満たされると、まぶたが重くなる。
 ネルは咳払いをした。「全知の神エンキは、この世秩序の源となる律法〝メ〟を掌握していた。しかし、イナンナ女神は、ウルク市を世の中心にしたいと思い、エンキ神の都エリドゥへ出かけた。大宴会の席で酔ったエンキは、〝メ〟をイナンナにやってしまった。イナンナは〝天の舟〟に〝メ〟を積みこみ、ウルクへ持ち帰ったそうだ」
「メ……?」
「おまえが、新しい世をつくるのだ。ディムルンと呼ばれる、海を渡った地上の楽園、太陽の昇る土地。なんの不足もない風と緑の島。死さえもないそうだ」
「馬鹿げている。〝メ〟は不死だと言った者もいるが……」
 ネルは黒ずんだ顔をゆるめると、「秩序の源は不死だ」と言った。
 そして、シュメル神話の洪水伝説を語った。

 天空の奥底から黒い液が昇り、つむじ風が吹き出した。だれも対抗できない猛烈な氾濫。それは天を震わせ、大地を轟かせる。海が逆巻き、天にとどく高さになり、猛烈な勢いで母と子を飲みこんだ。
 七日七晩、洪水が町を野を暴れ過ぎていった。

「つむじ風……」テリトゥは口の中で繰り返した。砂漠で気を失ったとき、耳鳴りがし、たしかに聞こえた。狂気と災い、光と闇。あれはなんだったのか。

「おれたちはニネヴェに行くつもりだったが、おまえとともにアッシュルに行こう」
「どうして……?」
「アッシリアの現王シャルマネセルは、アッシュルにいるからだ」
「王が……?」
「アッシュル神がアッシュルという土地と同一だとみなされているからな」
「土地が神なのか?」
「アッシリアの王はアッシュル神の大神官なのだ。わかりやすく言えば、王は地上における神の代理人なのだ」
「そこに王の兄もくるのか?」
 ネルはゆっくりとうなずき、
「正月の新年祭がある。シャルマネセル王は戦勝祈願するはずだ。アシュルには、百代以上つづく歴代の王の墓もあるからな」
「サマリア城とのいくさのためにか?」
「むろん、それもあるが、北方で勢力を拡大しつつあるウラウトゥと国境付近で睨み合っている」
「ウラルトゥ?」
 フリ人の国だと言う。先の王の時代は、息をひそめていたが、若いシャルマネセルに代替りをし、事と次第によっては仕掛けてくる恐れがあるとネルは言った。

 そして――、

「敵を知らなければ、倒せないだろ? テリトゥ、おまえが、おれたちを導く者となる器かどうか、じっくり見させてもらう」
「隻眼のわたしに何ができる? ただアッシュルを見てみたいと思っただけだ。倒すなど……イスラエルの民でもないのに……」
「イザヤの預言を知らないようだな。イスラエルの民は東の果ての島へ移住し、終わりの日にふたたび、イスラエルへ戻る。そして、もとの一つの王国となる。ヘブライ人はそれをエズレルの大いなる日だと言っている」
「エズレルの日か、そんなことを言うヤツもいたな。ばかばかしい」
「おれは、バカげた話だとは思わない」

 いつのまにか、男たちが、テリトゥを囲んでいた。

「おれたちはみな、おまえの仲間だ。われわれはヘブライ人のように血で繋がらない。イスラエルに住む者たちの中にも、おれたちのように混血の民だと思っている者がいるはずだ」
 それぞれ名乗った。ラサル、エレツ、ウルス、カラル、セレプ、サバツゥ。ネルを加えて総勢七人だった。
「仲間などいらない」言ったとたん、胸の奥がきしんだ。ハキームの顔がよぎった。
「戦うには、仲間がいる。血縁など関係ない。信義を重んじる仲間が大勢いる」と、年長者だとひと目でわかるラサルが言った。
「ソロモンの黄金もいる」とネルはたたみかけた。
「黄金? やはりそれが目的なのか……」
「黄金と宝石は、サバの女王が献上したものだ。それを、ソロモンが秘匿したのだ」とエレツが言った。
「仮に手に入れたとして、どうするのだ」
「東の果ての島へたどり着くには、時と金がかかる」と、ウルスが言った。
「おれたちの次の代かもしれん」と、カラルはうなずく。
「宦官と奴隷のいない国をつくるのだ」
 セレプが言うと、テリトゥと同じ年頃に見える少年、サバツゥがうなずいた。「おれたちはけっして奴隷にならない」と。

 七人とも寒暖の差の激しい砂漠で眠ることを不満に思っていない。食事をする器のないことも、ボロ布をまとった身なりも気にならないようだ。頭目のネルはテリトゥの知らないことを知っている。彼らといれば、砂漠で死ぬことはない。

 満天の星空を伝って長い尾の竜が降ってくる幻影を、テリトゥは見た。

第九章 聖都アッシュル

 テリトゥをふくむネリたち一行は十日ほどかかって、乾期のシリア砂漠を横断し、ユーフラテス川を北上する船が停泊する川岸に至った。
 夜明け前の大河は、赤紫色に染まっていた。

「よそ見をするな」とネルはテリトゥに忠告した。

 サマリアなら、亜麻の淡い青色の花の咲く季節だった。亜麻布(リネン)になる亜麻の刈り入れがはじまる季節だが、北方に位置する高原地帯は太陽の熱が比較的ゆるやかなので、目にする耕作地に亜麻が充分に育っていなかった。

 バビロニアとアッシリア双方の役人が桟橋を見張っていた。

「なぜ、アッシリアはバビロンを滅ぼさない?」
 テリトゥはネルにたずねた。北王国の王都を滅ぼそうとするアッシリアが、バビロニアの王都バビロンを滅ぼさない理由が知りたかった。
「交易というのは一国で成り立たない。アッシリアは当初、自国の錫を売っていたが、アナトリアを支配するようになって鉱石を採掘し、他国に売っている」
「鉱石から鉄がつくられるのに、敵国に売るのか?」
「すべてのものが、一国でまかなえるのであれば、何も買わなくていいし、売らなくていい。砂漠を行くひとこぶラクダはバクトリア(現アフガニスタン)から買っている。ふたこぶラクダと馬はメディアからだ。何があろうと、買い入れなくてはならないものがたくさんある。バクトリアには、青い石、ラピスラズリもある。メディアを滅ぼせば、ラクダもだが戦闘に適した良い馬が手に入らなくなる」
「サマリアには何もないということなのか?」
「彼らには神がいる。どこの国にも神はいるが、彼らの信仰は特別だ。他国の神のように融通がきかない」
「アッシリアとバビロニアとは、ずっとこのままなのか?」

 現状ではアッシリアの勢力が勝っているが、渡河税に関しては、バビロンの有力貴族が掌中にしている。物品税に関してはアッシリアの役人がキャラバンや商人の荷を点検し、量に応じて課税しているという。
「もちつもたれつ、なんだよ。たとえ敵同士であってもな」
 ネルは現在のアッシリアの勢力範囲を手短に語った。

 メソポタミア平野の北端、現代のイラクの最北端部となっている地域をしめる世界初の帝国アッシリアは、チグリス川と小ザブ川とで形成される三角形の高原地帯をさす。これらの川が西方と南方の境界となり、アルメニア(トルコ)の山々が北の境界、それにザクロス山脈とメディアの地(イラン北部)とが東方の境界となっていると。

「砂漠と同じで、ユーフラテス川は、どの国のものでもない」とネルは言った。これほどの水量をはじめて目にした。流れいないように見える。地を分かつ強大な水がめのようだった。
「向こう岸が見えない」
 テリトゥがつぶやくと、ネルは言った。
「見当もつかない川幅だが――海に行きつく。シュメルの都エリドゥにもな」

 雨水と雪解け水で増水したユーフラテス河はバスラ(イラク南部)あたりで合流し、アラビア湾に注ぐ。流域に位置するバビロニアの諸都市、とくに南部のバビロンとアッシリアは、流動的な関係が長くつづいている。アッシリアの王は、アッシュル神をバビロニア人が信仰するマルドゥク神の高位に置きたいと願っているが、シュメル人の文明を引き継いだバビロンへの引け目を拭いきれなかった。

「いくさになると、敵国の神の像を奪う」
「壊せばいいだろ?」テリトゥは頭を傾げる。
 キャラバン以外は、船に乗り、向こう岸に渡っていく。ネルのラクダとテリトゥのカルカルは横に並び、うしろに続く六人のラクダは一列縦隊になって、川沿いに北上して行く。
「壊して、敵の神の怒りをかうかもしれんだろ。もしかすると、自分たちの神より、恩恵をもたらすかもしれないじゃないか」
「なんで、そんな面倒なことをするのかわからん」
「シュメル人が最初に文字を考えた。一年を十二ヵ月に区切ったのもシュメル人だ。バビロニアの書記官の多くはシュメル人だった。アッカド人やバビロニア人やアッシリア人の神は、もとはシュメル人の神だった。ヘブライ人が偶像崇拝を厭うのは、最初に文字を考えたシュメルの神々に行きつくからだ」
 テリトゥは驚いた。「南王国の祭司たちや預言者と呼ばれる者たちは、聖なる書物は、神の手によって書かれたと言っている。もしかすると、文字は大昔からあったのか?!」
「イスラエル王国が国名を名乗るはるか以前から、いまあるものと制度はすでにあった」

 テリトゥとカルカルはいかだに乗り、ネルたち一行は葦の生い茂る浅瀬にひざまで浸かりながら、ラクダを引きユーフラテス川を渡河し、東へ向かった。カルカルとラクダをつらね、食料と水を補給しながらの旅はさらに十日ほどかかった。カルカルはテリトゥと再会したことで、徐々に体力と筋力を元にもどしていった。テリトゥも同じだった。

 遠くにチィグリス川を望める場所まできた。茶色の水がゆったりと流れる川には緑色の鯉が住むという。

 チィグリス川の西岸――北方の台地に建てられた都市、アシュルが視野に入ったとき、宮殿の塔(ジクラト)の眺めにテリトゥは深い感銘を覚えた。サマリアとは趣きが異なり、静寂で威厳に満ちていた。

 空は青く澄み、石段を昇りきると、天をつくような大門が開いていた。聖なる都市は、切り出した玄武岩を積んだ堅牢な塀で囲まれていた。
 正月の新年祭を祝うために、門前には行列ができていた。テリトゥは昨年の第二の月の六日、七週の祭り(ペステコステ)を思い出した。あの日からテリトゥはかつてのテリトゥではなくなった。

 家畜を引きつれた者、馬や驢馬を従える者、そして、キャラバンの一行。アッシリア兵の居並ぶ検問所で、疑わしい点がないかどうか、問いただされる。

「ターバンで顔を覆え」ネルはテリトゥに命じると、残りの者に目配せした。
 ラサルが言った。「番兵であっても油断するな」
 ネルは言った。「けっして仲間を裏切るな」と。
 残りの者も口々に何か言ったが、テリトゥは聞いていなかった。

 テリトゥの目を惹きつける何かが、この都市にはあった。
 聖都に入るには、張り巡らされた城壁の正門に敷かれた石段を上らなくてはならない。
 目にしたことのない、巨大なジクラト(塔)――天に届くかと思える高さだった。ここはかつてシュメル人に支配されていたという。

 ひたすら見上げるテリトゥに、「女神イナンナの支配したウルクにも七段の赤色神殿があったそうだ」と、ネルが言った。

「美しい」とテリトゥは感嘆の声をもらした。
 白い漆喰の外壁の神殿は荘厳だった。
 記憶の淵に沈んだ光景を思い起させた。
 月の神シンと太陽の神シャマシュを合祀する神殿を目にしたとき、その思いは一層、強くなった。

 練鉄製の柱に銅板の巻き物――、

 黒い鉄製の螺旋階段が、塔の中央を占めていた。湾曲した壁面に備え付けられた燭台から放たれる淡い光を頼りに降りていくと洞窟があった。燭台をかざすと、月の神シンを祭った地下神殿は青白く染まり、石像が浮かびあがった。
 まぼろしを見たのか……。

 神殿内に入ることは許されていなかったが、その必要はなかった。

 我をわすれて佇んでいると、ネルに背を押された。
 人々が集まってくる。
 神官とおぼしき白衣の男たちが、詰めかけた民衆の前に居並ぶ。

 アッシリアの若き王シャルマネセル(第109代)とその臣下の長い行列が神殿にむかって、ゆっくりと進んでくる。 
 白馬にまたがる青年は王と呼ぶには、あまりに若い。テリトゥと変わらない年頃に見える。
 先勝祈願をする、もののふにらしからぬ容姿だった。王冠をいただき、華麗な鎧をまとった姿は美しく、はかなげだった。

 先陣をきって闘う王なのか?

 ターバンで顔面を隠したテリトゥの隣に立つ若い男が身震いした。テリトゥは男から殺意を感じ取った。

 そのときだった――、

 黒い額帯をしたハキームが、向かい側の人混みの中から路上に押し出された。ハキームは短剣をかざし、馬上のシャルマネセル王に向かって駆け出した。それが合図だったのか、十人足らずの男たちが四方から群がり出た。
 人々の叫喚があたりに満ちた。
 王を警護する兵士の一人が、襲撃者の一人を斬り捨てた。
 男の首から血が吹き出した。他の男たちと護衛兵士らの争いになった。

「ハキーム!」テリトゥの声は少年に届かない。

 襲撃を怖れた若き王は、馬の首を回そうとして馬上から転げ落ちた。
 王はハキームの足元に這っていった。
 護衛兵士は、ハキームに向かって剣を振り上げた。
 テリトゥは恐怖で立ちつくす人びとを押しのけ、兵士の前に出た。
 兵士はテリトゥに刃を向けた。テリトゥは顔面のターバンをむしり取り、兵士に投げつけた。

「テリトゥ!」ハキームは声をあげた。「ほんとに、おまえなのかっ」
 
 耳鳴りがし、いつもの声も聞こえる。

 大つむじの風のごとく、狂気と災いをもたらし、光と闇をもたらす者となれ!

 雨期でもでもないのに天を黒雲をおおった。
 雷鳴がとどろき、カルカルの蹄の音がかぶさる。
 テリトゥは跳躍した。砂塵が舞い上がる。つむじ風のごとく、宙を舞い、兵士を足蹴にし、立ち上がったシャルマネセルの背後に降り立った。
 敵意など微塵もなかった。
 斬りかかった兵士の剣を奪うと、振り向きざまに王の首を跳ねた。
 一瞬の間があって、頭部のない首から血が吹き上がった。
 兵士は呆然と立ちつくし、神官や民衆は悲鳴を上げ、逃げ惑った。
 宿屋の厩に預けたカルカルは、疾風のようにやってきた。
 土煙をあげて行列の後方から駈けてくる栗毛の馬がいた。
 兄王だと、瞬時にわかった。

「しずまれーっ! うろたえるなっ! シャルマネセル王はやまいで身罷れた。これより、ただちに余が王権を担う!」

 兄王は一瞬だったが、隻眼のテリトゥと目が合った。その目は、逃げろと言っていた。襲撃を企んだのは兄王にちがいない。
 テリトゥはカルカルにまたがり、ハキームの手を取り、引き上げた。
 ネルは仲間とともに群衆にまぎれた。襲撃した連中の仲間で生き残った者も、いずこかに立ち去った。

「テリトゥ、テリトゥ……なんで……おれを見捨てたんだよ……」
 ハキームはカルカルのたてがみにしがみつき、泣きながらテリトゥに訴えつづけた。
 城門の外へ逃れようとしたが、閉じられてた。
 番兵は異変を聞きつけ、城門を閉じ、持ち場を離れて広場へむかったのだろう。
 他を圧する背の高い男、シャダイが姿を見せた。アッシリア人の衣服をまとっていた。ズボンをはき、足をおおう履物をはき、丈の短い上着の腰に長剣をくくりつけていた。

「こっちへ来い。安心しろ、いまのおれは敵じゃない。ホセア王の使いだ」とシャダイは言った。「ハキームはおれの奴隷だ。おまえを捜し出すのに手間がかかったよ。まさか、キャラバンに加わっているとはな」

 テリトゥはハキームの泣き顔の意味を知った。
 白人奴隷のシャダイは、アッシリアの密偵だった。養父エヒズキヤはそれと知っていたのか、知りながら身を委ねたのか……。

 川べりの廃屋と見紛う牢獄に、手足を拘束されたホセア王はいた。痩せ衰えた貧弱な体型は以前と変わらないが、背中が折れ曲がり、伸び放題の頭髪は抜け落ち、髭は短い間に白くなっていた。
「テリトゥ……許してくれ」とホセア王はつぶやき、泣きくずれた。「ヤハウェは、罰っせられたのだ。余は預言されたとおり、エズレルの谷で、弓を折った」

 足音が聞こえた。

 兄王は、サルゥと名乗った。
「よくやってくれた」と、兄王はテリトゥをねぎらい、「サルゥはアッカド語の王を意味する」とつけ加えた。
「アッシリアには王が二人いるのか?」とテリトゥはたずねた。「一人はたったいま、わたしが殺めたが――」
「王とは名ばかりだ。北方の一部を領地としてる。余に都の模型を差し出す朝貢者(敗者)はおらん」

 現代でも、ヨーロッパの王族は城壁を模った冠、城壁冠を式典では被る。

「われわれを逃がしてくれるのか?」とテリトゥは訊いた。

 兵士らの怒号が遠くで聞こえる。

「ホセア王は自ら捕虜となり、ここから出ない」とシャダイは言った。「もうすんだことだと言い聞かしても――手足の鎖をーー」
「ハキームは連れていく」とテリトゥはシャダイの言葉をさえぎり、「タボル山で、矢尻と交換したはずだ」
「矢尻は生憎、黄金の鍵ではなかった」とシャダイは言った。「祭司長にサマリア中を探させたが、あの矢尻に合う扉はなかった」
「契約は契約だ」とテリトゥは静かに言った。
 兄王はうなずくと、ハキームに代わる少年をシャダイに与えると約した。
「裏切ることをなんとも思っていない、あんたたちを信用できない」とテリトゥは言った。
「祖国を思い、暴挙に出た」と兄王は言った。痛恨の極みであると。
「北方の防備を余が固めているおかげで、無能な弟は即位できたのだ。着飾ることしかしらぬ男だ」
 詭弁を労しているとテリトゥは思った。
「弟は戦地に赴かず、司令官にまかせてサマリア城に攻囲戦を仕掛けた。これは悪手の最たるものだ。長期戦になるうえに、背後を囲まれる恐れさえある。それを進言しても弟は聞き入れない。このままでは、北方のウラルトゥにしてやられる」
「テリトゥ!」ホセア王が怒声を発した。「騙されるな!」
 シャダイはのけぞり、呵呵大笑した。
「ホセア王よ、あんたはここに連れられてくる前に、サルゥ王の足元にひれ伏し、臣下の礼をとり、命乞いをしたことを忘れたのか」
 ホセア王はうなだれた。
 兄王は言った。「余もいつかは、誰かに命をとられるだろう。どこの誰ともわからぬ相手にな」
「それは、わたしではない」
 シャダイは、「おまえは、わが息子ラマカルの命を奪ったが、今回にかぎり、見逃そう。新たな王もそれを望んでおられる」と言った。
「メディアに行ってみないか」と、新王は唐突に言った。「テリトゥ、おまえに言っている」
「……わたしはそれがどこかも何も知らない」
「修練し、馬にまたがった姿勢で弓矢を射られるようになれ。いかなる事態に遭遇しても、こたびのようにためらってはならない。いずれ、おのれの為すべきことがわかる」
「おまえには、仲間がいるはずだ。その者たちと行くがいい」
 新王は微笑した。
「もし、弟がおまえのようであれば、わたしはよき臣下となっただろう」
 新王はそう言うと、シャダイに、多額の金子を手渡すように言った。シャダイは不満を露わにしたが、新王は意に介さなかった。テリトゥは拒むべきだとわかっていた。アッシリアの密偵になることを承知したことになるからだ。
「勘違いするな。余は、おまえに礼がしたいのだ。ただそれだけだ。余があの場にいたとして、落馬した弟を手にかけることが、できたかどうか……」

 アッシリアの第110代の王は先の王シャルマネセルの変死ののち、国内は騒然となったが、兄王がかつてメソポタミアで名を馳せたバビロニアのサルゴン王二世の名を継承することで鎮まった。
 騒ぎが治まるのに歳月を要した。
 王の名には、バビロニアを足下に跪かせる意味合いがあると同時に、歴代の王の名を継承させない王族一派の意志が働いた。正統な王位継承者でないという意味合いがこめられていた。元来、アッシリアでは血族で王位を継承せず、強者が王位に就いたが、サルゴン王には、王弟の暗殺の疑いがかかったため、貴族の反感をかった。

 テリトゥとネルの一行は、山岳地のメディア(現イラン北西部)を目指した。
「われわれも馬を乗りこなしたいとかねがね思っていた」とネルは言う。「これで傭兵となれる条件がそろった」と。
 テリトゥは、シャルマネセルの首を刎ねたときから、気分が晴れなかった。なんの感情もなく、人を殺めたおのれに違和感があった。ネルはいった。「おまえは太陽の神になる。だから気に病むな」
一方、ハキームは、ほとんど口をきかなくなった。

 チィグリス川のT字型の三叉路の曲がり口に至る。渡河し、ソグド人のキャラバンのすぐあとについて、山越をする。平地に出ると、番兵が待ち構えていた。ネルが通行税を支払い、乳香と香料を売りたいと言うと、問題なく通過できた。

「怪しまずに、メディア人は、われわれを受け入れてくれたのだろうか」と、何事にも慎重なラサルが言った。「奴隷にれとりしないだろうな」
「なんでも、七重の城壁を作っている最中らしい」とエレツ。
「北王国の男たちが、働かされていると耳にした」とウルスが言った。
「ゴザン川に移住されたのじゃないか」とセレプとサパツゥがきく。
「メディア人はいずれ、アッシリアと戦うつもりでいる」とネルは言った。「そのために、堅固な城郭を作っている」
「負けたのにか?」と年少のサパツゥ。
「いくさは、けっして終わらない。完膚なきまでに叩きのめされても、いつかは、報復しようと考えるのが人の常だ。完全に終結するいくさなどない」
「これからどうするつもりだ」とテリトゥがたずねる。
「傭兵になる」とネルは言った。
「いやだ」とハキームは最初に言った。「まっぴらごめんだ」
「おまえは馬番をやれ」とネルは言った。「ただし、いざというときに、逃げ遅れるぞ」

 新興国のメディアは活気に満ちていた。
 傭兵になりたいと申し出ると、筒袖の衣服とアライグマの靴と赤い胴着がその日のうちに支給された。訓練もすぐはじまった。テリトゥが男子か女子かこだわる者はいなかった。馬やラクダを養育する係となったハキームは兵士より食い物がよかった。カルカルを連れていることもあった。
「馬やラクダを売った金が有り余っているようだな」
 というネルにテリトゥはたずねる。
「ここでは、小麦や大麦はつくらないのか?」
「牧草の茂る土地を掘り起こし、種を撒く者と、青草や干し草を食べる羊や馬やらくだを飼う者とは、互いを敵視する」
「だから、農民の多い北の王国と、牧羊者の多い南の王国は仲がわるいのか」
「そういう面もあるだろうな」

 城郭を作っている者とも出会ったが、はじめてつくる建築物に、みな、目を輝かせいた。「こんな城郭があれば、けっして負けなかった」と。

 テリトゥはメディア人の騎手から、乗馬に関することをさまざま習った。何より、大事なことは、戦闘にさいして、馬を怖れさせてはならないということだった。

 テリトゥはすぐさま頭角を現した。弓矢の腕前は誰にも負けない自信があったが、隻眼になっていらい、自信を失っていた。メディア人は言った。「赤い胴着は血を怖れぬためにある。他の者を率いるときは、死を恐れてはならぬ。いずれ、死は訪れる。なっとくのいく死に方をするには鬼神になることだ」

 いつしか、アッシュルでの出来事を忘れていた。忘れがたい痛みも、時が癒すわけではない。おのれの心が生死に向き合えば、何を為すべきか、おのずと知れるとわかった。

 メディア人はヘブライ人のように文字に記すことを好まない。国境を接するバビロニアとたびたび衝突したが、書き記すことを好まなかった。ネルの言うように、いくさに文字はいらないのだろう。

テリトゥは、新王の言葉を思い返した。「ためらってはならない。いずれ、おのれの為すべことがわかる」

 重鎮の信頼を得るのに手間取ったサルゴン王は、領土拡大の時宜を逸した苛立ちに苛まれたたが、戦闘意欲は増していた。
 いくさに勝利し、戦利品を分配し、民心を味方につけなくてはならなかった。経済的に破綻をした人々を放置すると、自由民の階層分化を招き、政権が揺らぎかねないからだ。
 しかし――ウラルトゥを牽制しつつ、運河の浚渫やチィグリス川支流のダム建設で多額の債務が生じた。アッシリア商人も他国の商人同様に抜け目がなかった。

 アッシリア軍は一○万におよぶ軍兵で、先の王の臣下が司令官となり、すぐる年の第十三月に、サマリアの北端のメギド要塞を撃破したのち、捕虜にした兵士らをメディアに奴隷として売ったが、それだけでは戦費を賄えなかった。
 サマリア城を包囲する兵を数万に減らし、残る半数の兵で迂回して、エジプトへ向けて進軍すれば、北方の敵ウラルトゥ、あるいは北王国の残党に背後をつかれる恐れがある。
 いまは友好国を装っているが、西方のフェニキア(現レバノン)の都市、シドンの王はいつ心変わりするかしれない。

 時はうつろう、人々の思惑を置き去りにして。

 サルゴン王は兵の消耗を危惧し、先にサマリア城を無血開城させることをのぞんだが、この三年、内政問題に忙殺され、軍備の増強や兵士の養成を怠った。十七歳から徴兵する規定があったが、自由民である都市生活者らは武装を自費で賄わなくてはならなかった。
 彼らは新たな王に従うことを由としなかった。
 兵站の問題もあった。
 掠奪でしのぐことも限界があった。北王国の農民は雲散霧消し、南のユダ王国へ逃げこんでしまった。
 なんとしても、早急に、エジプトへの軍路を塞ぐ、エフライム族と半マナセ族(半分のマナセ族の意)の主力軍が死守するサマリア城を打ち砕かなくてはならなかった。
 全軍の指揮をとるべく、サルゴン二世王は遠征の途についた。ちりほどあると噂される黄金を有するエジプト王国の征服が第一の目的であった。いまだに鉄製の武器を持たないエジプトを平定することはたやすい。兵站と兵士の数さえ整えばーー。
 王は、弱小国イスラエルに「わが軍につき従うのであれば攻めない」と確約した。なんとしても、イスラエルの兵士を自国の兵士に組み入れる必要がサルゴン王にはあった。

第十章 サマリア城

 紀元前七二一年。

 サマリア城は包囲されて三年の月日が流れていた。
 第二の月の六日、七週の祭り(ペステコンテ)が三度、巡ってきた。
 散発的な攻撃に対して、臨戦態勢にないイスラエル軍兵士は次第に緊張感が薄れていった。
 備蓄した食糧も減少していた。
 北王国イスラエルの主立った者たちは、決断を下せなかった。
 祭司長を名乗る男は、北王国が降伏するものと思い込み、占拠した神殿で堕落した日々を送っていた。
 北王国イスラエルの主人ともいうべきホセア王はアッシリアの捕虜となったという噂が流れたのちは、生死さえさだかでない王の名を口にする者はいなくなった。

「ペステコンテの祭りですね」
 ゾーヤは思い出したように言った。
「おまえはバアル神殿の巫女だから、関係ないだろ」 
「そんなことはありません。サマリアの民は、過ぎ越しの日も祝います」
「祭司に言わせると、バアルを信仰するおれたちは、悪しき者となる」

 レビ人祭司らは、嵐と雷雨の神・バアル神を忌避し、糾弾した。しかし民衆は、小高い丘やどの茂った木の下にも建っている小さな石像に豊穣を祈願し、罰することのないバアル神を心の拠り所にした。ヤハウェの神殿に参詣し、祭司に支払う金品がなかったからだ。

「人々に、やすらぎを与える神も必要だと、亡くなられた父上はおっしゃっていました」 

 バアル神を拝した父親の影響で、ゾーヤは生まれたときから巫女として育てられた。王宮の奥深くに位置する聖なる領域で、少年の姿をかたどったバアル神に日夜、祈りを捧げる役目を担っていた。

「しかし、あいつら、よく食うよな」
 城壁の外では、蝗の群れような兵士の群れが朝な夕な悠々と食していた。肉を焼く煙がただよってくる。
「においが、すきっ腹にこたえるんだ」
 城壁から敵陣を見下ろす兄のジグリは、一三歳の妹のゾーヤの肩を抱いた。敵方の王妃の名がつけられた乙女は、ミントの花のような純白の長衣の上に、おおあざみの花のような薄紫のベールを被っていた。
「軍議はどうなりましたか?」
 サルゴン王率いる精鋭部隊が到着し、雌雄を決する戦端が開かれようとしていた。
「勝ち目のない、いくさはするなと、王族は口をそろえて言った」
「そうでしょうね」
「部族長らは、意気軒高だが、本心はどうかだか」
 アッシリアとの先の戦いでヨルダン川東岸の領地を奪われたカド族、マナセ族、ルベン族の生き残りの戦士らと北の領地を奪われたダン族をはじめとする五部族は徹底抗戦を主張して譲らない。彼らの多くは氏族と呼ばれる自由民だった。
 これと、和平策を講ずるべきと主張するレビ人祭司とは対立した。
 祭司の多くは包囲される寸前に、南ユダ王国に帰還したが、この地に根をおろし、上席になった者たちは居残っていた。
 地主階級である貴族と、アッシリアとの取引のある商人もレビ人祭司らに追随した。彼らのうちでも、王族よりも富裕の者らはすでに異国に去っていた。
「和睦を結べば、男たちは、アッシリア軍の兵士にされる。若い女は凌辱され、子供は奴隷にされる」と、ジグリは言った。
「もう、サマリアには、何も残っていません」
「三度目となる大規模な侵攻に、降伏するしかないとみな、理解している」

 強国アッシリアに多額の税と貢ぎ物を求められ、イスラエル王国の民は長く呻吟してきた。領土も削り取られ、これ以上、譲歩することは、座して国土を明け渡すにひとしかった。
 
「我が軍には、竜神がついている。負けることは絶対にない。きっと勝てる」
 ジグリはホセア王の武具に身を固めているが、兵站が確保できず、常に焦燥感に晒されていた。王の出で立ちをしても、王ではないという声がどこからか聞こえてきた。
「兄上はもしかして、傭兵ごときを信じておられるのですか……」

 ジグリはしばらく口をつぐんだ。

 メギド要塞が陥落したとき、将兵らは、北王国イスラエルが地上から消滅すると半ば、諦めの境地にいた。
 総大将ともいうべき地位にいたのは、王族につらなるエフライム族のジグリだった。
 ジグリは、ホセア王が逃亡したと知ったとき、自らが王位に就くことも考えたが、王位をめぐって争いが起こせば、国内がさらに乱れ、収拾のつかない事態に陥ることを危惧した。
 ジグリは、われわれには難攻不落のサマリア城があるとみなを鼓舞し、敗残兵を引き連れ南下し、サマリア城に入った。

「ああするしかなかった……」ジグリは独りごちた。

 アッシリア軍は追撃しつつ、イスラエルの民に属する町や村々を大鎌で刈りとるように侵略した。掠奪に遭った無辜の民は殺されなければ、飢えて死んだ。
 最後の砦である三重の障壁をもつサマリア城はアッシリア軍に包囲された。

「あのヒトさえ、やってこなければ、いくさは終わっていたかもしれません」とゾーヤは悔しげに言った。「テリトゥさえ……」
「降伏すればよかったと、おまえは思っているのか」
「いいえ……ただ……苦しみが長く続かなかったと思っています」

 前の年、小麦と大麦の種蒔きがおわり、オリーブの実が稔る頃だった。
 小雨のふる日、テリトゥとそれに従う十数人の男たちが、包囲網をかいくぐって城壁内に侵入してきた。赤い染料でたてがみを染めた漆黒の馬を、テリトゥは連れていた。
 テリトゥははじめに言った。「われわれは、金で雇われる傭兵だ」と。
 言葉通り、テリトゥとその部下はジグリから多額の金を受け取り、傭兵と呼ぶにふさわしい働きをした。馬上から射る火矢は的を外さなかった。敵味方関係なく、骸の上を踏んですすむことにためらわない。赤いたてがみの黒い馬とテリトゥの白濁した目に射竦められる敵兵は数知れなかった。
「あいつは……悪鬼かもしれん」
 ジグリは内心、テリトゥを怖れていた。

 タボル山で、はじめてテリトゥを目にしたとき、まだ少年にしか見えない少女だった。凛凛しい顔立ちをしていたが、いまと同じように頬に傷があり、右目は濁っていたが、無傷の瞳と頬に幼さが残っていた。十七歳となったいまのテリトゥは部下を従えるだけでなく、一軍を率いる将でもあった。ホセア王に従っていた少女とは別人に思える。
 焚火のできない雷雨の日や、寒さのもっともきびしい闇夜に奇襲攻撃を仕掛けるテリトゥに、ジグリは日を追って、焦りと苛立ちを感じるようになっていた。
 兵器庫や食糧の備蓄庫を襲撃し、炎上させる。
「守勢ばかりでは、敗北を待つだけになる。敵軍が攻撃に出る前に、機先を制しなくてはならない」
「おれが指揮官だ。傭兵は黙って従え!」
 ジグリはホセア王を憎みながらも、タボル山で傾聴した籠城にさいしての戒めが頭から離れず、防戦一方にならざるを得なかった。ホセア王は夜襲は仕掛けるなと言った。しかし、テリトゥはーー。

「みな、あのヒトに、心を奪われています」
「おまえもか」
「お兄さまはもはや君主です! 君主と民の心が一つでなければ、兵士は生死をともにしないと申し上げているのです」
 城内に逃げこんだ近隣の民にも、王国の破綻がさしせまっている気配が察さっせられるのだろう。笑い声を耳にすることはなくなった。そこかしこに重苦しい空気が満ちていた。飢えをしのぐために、わざとアッシリア軍の捕虜になる者さえいた。処刑されずに、同胞のいるアッシリアかメディアの地へ連行されるとわかっていたからだ。

 ジグリは目を閉じた。心に暗雲がたちこめる。何者かが語りかけてくる。おまえは油そそがれし王ではないと。
 予感が的中するのに時間はかからなかった。
 火のついた矢が、星空を焦がすように光の帯となり、三重の城壁を飛び越えてきた。ここまで矢が達したことはない。

「兄上!」
「そろそろだと思ってたが、やはりきたか」
「いかがいたしましょう」
「みなに総攻撃がはじまったと伝令せよ。それから、テリトゥを呼んでこい」
 十歳年長の兄の命令には絶対服従であったが、
「わたしは兄上とともに戦います。金銭で、雇われる者たちとは口をききたくありません」

 弓矢を背負ったテリトゥは姿を見せた。百人近い弓兵部隊を引き連れている。長い黒髪を肩に流し、日焼けした削げた頬の傷跡に少女の面影は微塵もない。
 ジグリの部下だった者たちが、テリトゥに従うようになっていた。赤いたてがみの漆黒の馬で先頭を走るテリトゥとともに戦えば、死を免れると考える兵士がジグリのもとを去った。

第十一章 三重の城壁

「風はこちらにむかって吹いている」とテリトゥは言った。「討って出ればいい」
「瞬時に気配を察し、決断を下すさまは、竜神と呼称されるのにふさわしいな」と、ジグリは言った。「わからないのか。向かい風で城壁の外へ出ればどうなるのか。兵をこれ以上、失うわけにはいかない」
 エフライム族を筆頭に九つの部族からなる守備隊の隊長は武器が乏しいこともあり、敵軍を襲撃することにためらう者が少なくなかった。
 テリトゥは表情を変えない。
「われわれ傭兵は、死するために戦っているのではない。このまま守りに撤すれば、近いうちに降伏するしかなくなる」
「じゃあ、どうすればいいんだっ!」 
「今夜にも、前線を突破し、背後から敵を襲撃するしかない。仕掛けられる前に仕掛けるしか勝機は見えない」
「一兵たりとも死なせないと誓えるか」
「誓えるはずがない」
「兄上の命令に従わない者は、立ち去りなさい!」と、ゾーヤは叫んだ。「いますぐに!」

 そのとき、アッシリア軍に動きかあった。城壁の高さに達する攻城梯子(こうじょうはしご)が城壁に立てかけられた。通常の長さの梯子ではない。
「ホセア王が言っていた。長槍で、昇ってくる兵士を突けばいいとーー」
 ジグリはその場で、ぐるぐる回りはじめた。
 テリトゥは火矢の飛んでくる方角を見定めた。

 巨大な構造物がじりじりと迫ってくる。大勢の兵士が綱を肩にのせて引いている。車輪がついているので、テリトゥたちの眺める位置に塔のような形状を現わすのに時を要しなかった。

「これが、そうなのか…………」ジグリは声を震わせた。「これが……」
「サルゴン王はこの日を待っていたのか。この地で組み立てるのに、日数がかかっただろうな」
 テリトゥはそう言って、弓兵や投石兵の乗りこんだ破城槌車(はじょうついしゃ)を指さした。
「戦車よりも、強力そうだな。長い梯子はともかく、車輪のついた砦のようなものの上から火矢を射られ、石を投げられたら、城壁内の弓兵はひとたまりもない。城壁が破られるのもまもなくだろう」
 ジグリに従う守備隊は長槍を使う余裕もなかったのだろう、はじめて目にする破城槌車に恐れをなし、逃げまどい、我先に第一の城壁を見捨ててしまった。
 ジグリは「ラッパを吹き鳴らせっ。油を流せっ」と叫ぶ。その声がとどくはずもない。

「もはや、防ぐ手立てがない」と、ネルの直属の部下、ラサルが言った。それにつづく五人の部下も、それぞれが率いる兵士を連れて逃亡すべきだとネルに進言した。
「城を守るために、多くの兵士がこれまでに命を落とした」と、ジグリは涙した。
「兄上、わたくしが、お側についております」
 ひざまずくゾーヤを、ジグリは押し退けると、
「テリトゥ、おまえが指揮し、第二の城壁を守ってくれ。蓄えている油を流すように命令してくれ」
「油は流せるほど残っていない。知っているはずだ。祭司長のいる神殿でも、王宮でも、灯火に使われてきた」
「神聖な神殿で、使用しているのだっ」
「なんども忠告したはずだ。無駄に油を使うなと」
「必要なことにしか使っていない」
 ジグリは両手で顔をおおった。
「頼む。おれに代わって、おまえが指揮官になってくれ」
「戦時に、軍の司令官が変われば、兵士の士気にかかわる」
「どこへでも行くがいい!」とジグリは怒鳴った。「たかが傭兵だ!」

 弓手を従えたアッシリア軍は鉄製の斧を手に攻城梯子を使って、第一の城壁を越えてくる。

「城壁が破壊されれば、戦車軍団が先頭になる」ネルがテリトゥに耳打ちした。「今頃、アッシリアの工兵部隊は防壁内に通じる地下水路をさがし、掘削機で地面を掘り進んでくる。急がなくては――ラクダは秘密の場所に隠している」
 テリトゥは腕組みをし、彼方を凝視する。
「なんども奇襲したが、このような兵器を目にしなかった。どこで、木材や鉄や車輪を調達し、組み立てていたのか。そうか! 大麦や小麦を刈り取ったあとの土地でか……さすが、サルゴン王だ」
「新たに考えられる兵器をつくる器具は一か所に置かれるので、作業場が必要になる」とネルは言った。「鍛冶職人を連れていないところを見ると、ニネヴェに作業場はあるはずだ。それを運んできたのだろう。組み立てるだけなので日数はさほどかかっていない」

 敵の工兵部隊は第二の城壁を囲む崖に土塁をしつらえると、鉄製の石投げ機をつかい、木材で焼いた大石を投げこんでくる。

「掘削機とは、どんな形をしているのだ」
 テリトゥはネルにたずねた。
「鉄の歯が木槌の先についている」

 燃え立つような大岩が火花を散らして、王宮に落下した。紅蓮の炎に包まれる障壁を背に敵兵に立ち向かう兵士らの負傷する様子も視野に入る。血の失せた顔色になったゾーヤは、屋根の崩れた王宮にむかって走り去った。

「北のイスラエル王国の都サマリアは、メソポタミアの覇者、アッシリア帝国の軍勢によって命運が尽きようとしている」
 ジグリは肩を落とし、つぶやいた。
 ホセア王と似ていると、テリトゥは思った。土地にしがみつく貴族は所詮、戦いに不向きなのだと。
「第三の城壁が残っているうちに、逃亡しなくては捕虜になるか、殺されるしかない」と、テリトゥはジグリを促した。
「……飢餓と疫病に苦しむ城内の民を見捨てられない」
「われわれは、アッシリア軍に捕縛されるわけにいかない」

 異変に気づいた城内の広場で、敵を迎え討つために待機していた兵士のうちの数人が集まってきた。

「いまここにダビデ王が蘇ったなら、神より授かったアークを押し立てて戦ったろうか。王は最後の一兵まで戦うしか、この国の独立を保てないとみなに告げ、戦いに身を投じたにちがいない」
 そう言うジグリの声は震えていた。
「わたしとともに戦ってくれ」
 兵士の間に動揺がひろがった。
「兵を死に赴かせる言葉はいくらでも吐ける」とテリトゥは言った。「民衆が奇想天外な流言や行いに惑わされるのは、なぜかわかるか? 生き延びたいと願うからだ。逃げることを第一に考える時なのだ」

 いまもサマリアに住む人々は、祝福を宣託をする呪術師や祈祷師の言葉を信じた。バアル神がわれわれをお見捨てになるはずがないと祈っている。

「おまえたちはイスラエルの民ではない」と、ジグリは言った。「エルサレム神殿にある神の器はなくとも栄華を誇ったソロモン王の秘宝が都のどこかにあるかぎり、南王国のユダ部族とベニヤミン部族が参戦してくれるはずだ」
「ユダ王国の連中はけっしてこない」
「どうしてそんなことが言えるんだ。われわれはみな同じ血が流れている」
「だから争い、憎み合ったのじゃないのか」
 テリトゥは逃亡に必要な身仕度をするようにネルに伝えた。城内にいる民衆にも伝えよと――。
「これより、サマリア城を脱出する!」
 ネルが号令をかけると、その場にいた兵士はみな歓喜の雄叫びをあげた。

第十二章 黒衣の男

「勝手な真似はさせない」と、兵士の間から進み出た黒衣の男がテリトゥに言った。「逃げられると思うな」
 テリトゥは男を見た。祭司長に呼ばれた日に、広間の隅に座りこんでいた男である。タボル山でも、テリトゥを襲ってきた。
「おまえは、おれに借金がある」と、男は言った。「おまえのせいで、エヒズキヤの長子の権利は無効とされた。屋敷は、祭司長に取り入ったガディという男のものとなった。父親に見捨てられたおれたち親子は、おまえのせいで苦汁をなめされられた。母親はそのせいで、早生した」
「いま、ここで、わたしと闘えばいい」とテリトゥは言った。
「よせ」とネルが引き止めた。

 地表からも地底からも、この世のものならぬ振動が城郭をゆるがす。

「おいらがかわりに――」ハキームが言った瞬間、テリトゥはハキームの頬を打った。「おまえのかなう相手ではない」
 テリトゥは微動だにせずに、男に目を向けた。
「どうすればいい?」
「祭司長が呼んでいる。神殿へこい」
「そんなことか、くだらん」とネルが言った。「いまさら何を――
まぁ、しかたがないな」

 テリトゥは神殿の広間に出向く。ハキームがついてきた。

「……わたしには、為すすべがない」
 祭司長と侍童らは、神殿に火の玉が落ちたことで右往左往していた。
「恍惚の預言者には、このありさまが、目に見えたようだが、わたしには何も見えん……」
 祭司長は自らが存在しない場所で起きている惨事を、看過するだけの己れの無力を恥じているかのようだった。白い粉を吸いこみ、白い液体を飲んでも安らげないようだ。
「山上の石柱が、お救いくださるでしょう」
 テリトゥが皮肉ると、祭司長は、侍らせている少年らに命じ、広間の置物を集めさせた。
「テリトゥ、お願いだっ」
 祭司長は大理石の床の膝をつき、両手を組んで胸の前に突き出した。徹底交戦をジグリが決めた時から日に三度、乳香を焚き、祭壇に火をもやし、アッシュル神を拝したという。
「ホセア王が去ったのちも、わたしは神殿の黄金の什器を王にかわって守ってきた。北王国イスラエルに〝滅びの日〟がくることは預言者〟ホセアによって告げられていた。侵略者が北方のアッシリアであることも――それでもなお、わたしはこの地にのこり、民のために祈らねばならぬと思い定めてきたのだ」

 祭司と名乗っていた異国の面々は姿を消していた。おそらくアッシリア軍のもとへ馳せ参じたのだろう。

「ソロモン王の黄金は見つからなかったと聞きましたが……」
「おまえを呼びにやったのは、そのことであった。あれが見つからぬと、わたしは――なんと言おうか……」
「新王はきびしい方のようです」
「バビロニア人のわたしは、ここで死ぬわけにはいかん。ヘブライ人とは違う! いつか、バビロンを再興しなくてはならんのだ」

 部族は違えど、もとを正せば血を分けた同じ民でありながら、北と南に分裂したイスラエル王国。エジプトとアッシリアの間で揺れつづけた二百年余、アッシリア人さえ畏怖した六代目の王・オムリはヨルダン川の東、モアブを服従させただけでなく、長期戦の攻囲にも持ちこたえられる新都サマリアを築いた。

「面倒なことだ」祭司長は両腕をさげた。「黄金などどこにもありはしない」

 衝撃音と同時に神殿の天井が落ちてきた。祭司長の肥満したぶ厚い肩が小刻みに震えている。侍童たちが悲鳴をあげる。

「落ち着けっ」と、テリトゥは声を発した。「慌てるな。建物の外へ出るのだ。水路に逃げ込め。アッシリア兵に見つかっても、けっして歯向かうな。彼らは武器をもたぬ者を殺さない」

 悲鳴と呼応するかのように、祭壇も、壁面も、屋上の間を支える天井も揺らいだ。王都を守りつづけた鉄柵の城門が破壊槌で打ち砕かれる。耳をろうする音が、響きわたる。三重の城壁が破られると北王国の歴代の王の誰が信じたろう、市街に住む誰が思ったろう。市中の民衆は嘆く間もなく火炎地獄の中を逃げ惑っている。

 両腕を血だらけにした祭司のガディが入ってきた。
「ホセアの禍の預言は的中したのだっ。ヤハウェこそ唯一のお方なのだ。おまえにもわかったかーっ」

 そこへ、ウルスが駈けこんできた。
「急げ、二つ目の障壁が破壊されたぞ!」
「亡き養父の屋敷も燃えてしまったのか?」
 テリトゥの問いにガディは、絶叫した。
「悪鬼めっ!」
 そして、小刀で自らの腕を切り刻む。
「やめろ。おまえの神が、愚かな真似を望むはずがない」
 死にたいのなら、戦って死ねとテリトゥは吐きすてた。

 この瞬間にも、若いレビ人祭司らは伸び放題の髪の頭に聖なる言葉「聞け、イスラエル。ヤハウェはわたしたちの神、ヤハウェはただひとりである」と記した羊皮紙の入った牛の皮でつくった小箱を額にくくりつけ、お互いにからだを傷つけ合って、自分たちでつくった祭壇の周りを巡っている。
 彼らは恍惚状態になることで、いくさに勝利すると信じている。

「これまでか……」
 やはり黄金はないのかと黒衣の男はつぶやいた次の一瞬、帯刀した剣を引き抜き、テリトゥに斬りかかった。
 ウルスは、体をかわしたテリトゥに抜き身の剣を投げてよこした。
 テリトゥはすれちがいざまに男の利き腕を斬り落とした。
 黒衣の男は呻き、大理石の床を血に染めた。侍童らは悲鳴をあげていなくなった。

 包囲攻撃の末のアッシリア軍の猛攻に味方の将兵は無力だった。イスラエルの民の阿鼻叫喚が柱廊を通り越して、神殿の広間にまで聞こえる。敵の軍兵は火炎もものともせず、戦意を失った将兵をなぎ倒すようにして進軍してくる。

第十三章 ナブ神

「神などアテにならん……」祭司長は嘆息した。

 アッシリアのサルゴン王は、王位に就く以前から攻略に抜きんでた軍人と称され、その威名は文字どおり四周に轟きわたっていた。籠城するイスラエル軍の適う相手ではなかった。

「黄金は山上の矢印の石柱の下にあるはずだ」とテリトゥは言った。「矢尻と同じ形のものはあれしかない」 
 祭司長は泣き笑いの顔になった。
「命が惜しくないのか?」とテリトゥ。
「黄金を渡せば、命を救ってくれるというのか」
「約束する」
「わたしを宦官におとしめたアッシリアに行くのではない。バビロンに戻りたいのだ」
 テリトゥはうなずくと、ウルスに命じた。ネルを含む六人の部下を呼んでこいと。
 ウルスはニタリと笑い、走り去った。
 
「おまえを信じよう」と、祭司長は言った。「わたしは貴族の子弟であったため、アッシリアに送られ宦官となった。いつか、かならず、バビロンの栄華をとりもどすと誓いを立てた。アッシリアを滅ぼすと」
 王族であった祭司長の父は、王や民を恐怖に陥れることをのぞまなかった。バビロンの都市神マルドゥクの子、文字と学問の神・書記の守護神であるナブ神を信仰していたという。
「父は――父は、知を重んじる人であった」

 扉の開く音がした。ゾーヤだった。
 
「入ってはならぬ」とテリトゥは命じた。
「巫女様っ」
 広間の隅で、逃げ遅れた侍童が駆けよってきた。
「大きな声を出してはなりません」
 ゾーヤはいつものようにベールで顔をおおっていた。
「最後の城門が破られるまえにお逃げなさい」
 少年はその問いには答えず、
「いっしょに連れて行ってください」
 巫女様、巫女様と呼びかける。
「バアル神に仕えたわが身を恥じます。ヤハウェは裁きを下されたのです」
「神などおらんと言ってやれ」と、祭司長はテリトゥに言った。
「みな、浮き足立って、ジグリに耳を貸す者はいない」と、テリトゥは言った。「一刻も早く、立ち去れ」
「ダビデ王もソロモン王も、いくさの時、聖なる箱を押し立てて戦いに臨んだと言います。偉大なる王たちの後裔であるはずの者らが、戦いを放棄して逃亡できません」
 祭司長は笑い声をあげた。「ダビデは危険だと思えば、敵方に寝返っておる。物知らずめが」
 ゾーヤは祭司長に向き直り、
「お願いがございます。兄ジグリに、油を注いでくださいませ」
「そんな、いとまはない」
「お願いでございます。兄は王位につけば、為すべきことができるはずです」
「この神殿の障壁さえ破られる」とテリトゥは言った。「敵兵が、おまえを目にすれば無事ですまない。王族の女たちは皆、屈辱的な目にあい、そのうえ奴隷にされる」
「ここを去りその身を隠せ」と、大祭司は諭した。
「ヤハウェに選ばれし民が永きにわたって、偶像を崇める罪を犯したのです。神に背いた代償を、支払わなくてはなりません」
 大祭司は、「愚かな。南北に国を隔てた時から、北王国は瓦解する定めにあった。早晩、南王国も滅びる」と言った。
「下がれ、下郎! わたしは神の佑助を賜った王女である。いまより、わたしが剣を携え、兵士に命令を下します。神が火をもって、敵を焼き殺してくださいます」
 ゾーヤは正気を失っていた。

 ネルと仲間が駈けこんできた。ネルは、この瞬間を待ちわびていたのだろう。その目は強い光をおびていた。互いの存在を知った日から、このためにともに鍛練してきたのだ。
「さぁ、案内してもらおう」と、テリトゥは大祭司に言った。

 そのとき、祭司の衣服をまとった男が現われた。
 抜き身の剣を手にしたシャダイだった。
 彼は祭司長に近づくと、「お宝は、サルゴン王のものだ」と言った。
 ゾーヤが何を思ったか、シャダイの前に進み出た。
「兄上の使者か?」
 真剣な眼差しのシャダイが静かに答えた。「なんなりとお申しつけください」
 ゾーヤは泣きだした。「兄上にはこののち、油そそがれし者としてお振る舞いくださるよう、お伝えしてほしい。兄上にかわって、わたしが神の罰を受けます」
「そのようなお言葉を巫女様からお聞きするために、わたしは参ったのではございません。巫女様のお名は、アッシリアの先の王より賜られたもの。ただいまより、王都ニネヴェにお連れいたします。このような粗末なところではございません。アッシュル神の巫女となられ、優雅にお暮しください」
 ゾーヤはシャダイの言葉に聞き入っていたが突然、「おまえはアッシリアの偽りの神々に仕える悪しき者、忌むべき者、サタンやもしれぬ。教えてやろう、アッシリアは滅ぼされる。おまえもーー」
 シャダイの剣はベールで顔を覆ったゾーヤの首を刎ねた。首は祭司長の足元に転がった。祭司長は女のように甲高い悲鳴をあげて尻もちをついた。

 ハキームの短刀がテリトゥの脇腹に食いこんだ。
「ハキーム……」テリトゥは絶句した。
 ハキームは怒りで頬が赤くなっている。「おまえに見捨てられたときから、おれは復讐を誓った」
「一歩でも動いてみろ。テリトゥの命はない」と、シャダイはネルとその部下に言った。そして、テリトゥの顔面に剣の切っ先を突きつけた。

 シャダイはテリトゥが帯刀している剣をハキームに引きぬかせた。
「やめろ、ハキーム……」テリトゥは小声で言った。
「おまえの命令には、二度と従わぬ」とハキームは吐き捨てた。
 シャダイは、祭司長の近づいた。
「将来への禍根を絶つために、宦官となる者の男根は切除される。サルゴン王は裏切り者のおまえを重用すまい。宦官を信じておられぬ。しかし、黄金を差し出せば、お考えも変わるだろう」
 祭司長から青白い炎が立ち上った。
「無礼な! わ、わたしは、アッシリア宮廷の宦官だぞ。密偵ごときに命じられる覚えはない」
「おまえを監視することが、おれの役目だった。さっさと案内しろ」
「何を言う!」
 祭司長の声の大きさに驚いたのか、ハキームがわずかに動いた。
 ネルが目配せをした。
 ラサルは手にした斧をハキームにむかって投げつけた。
 テリトゥはハキームの手から剣を奪うと、シャダイに立ちむかった。
「小娘のおまえに、おれは倒せん。そこにいる連中にもな」

 そのとき、アッシリア軍の勝ちどきが、雷鳴のように響きわたった。

「守備隊が全滅したんだな」とネルがつぶやいた。
 シャダイは破顔した。「王に差し出すことはない。おれたちで山分けしようぜ」
「妙案だ。テリトゥは、おまえの思い通りにしていいぞ」と、ネルが言った。
 テリトゥは脇腹の痛みをこらえて半歩、後ろへしりぞいた。
 シャダイは一歩、踏み込んできた。
 テリトゥは剣を突き出した。
 シャダイの剣の切っ先がテリトゥの左目を襲った。
 血しぶきが、テリトゥの顔を赤く染めた。
 シャダイは首を刺し貫かれ、事切れた。
 ハキームはおののき、「おれは脅されて、命令されただけだ」と言った。
「仲間を裏切るなと、わたしは、ネルに教わった」
 テリトゥは、シャダイの血を吸った剣を振り上げた。
「殺せよ。おまえが、おれを……先に裏切ったんだ」
 ハキームは背中を向けて言った。
「こんどは、わたしの杖になってくれ」
 テリトゥはそう言って、手を差し出した。ハキームは振り返った。テリトゥは脇腹を抑えて膝を屈した。ハキームは、「まさか」と言ったきり、全身をゆらし、身震いした。
「テリトゥ、どうしたんだ!」真っ先にネルが駆け寄り、テリトゥを抱きかかえた。
「まさか、おれがやったのか……本気じゃなかったのに」
 ハキームはそれ以上、言葉が出ない。
「これでいいんだ」
 これでいいとテリトゥは繰り返し言った。
 視力を失ったテリトゥは闇の中にいた。
 ネルはテリトゥの血に濡れた顔を手でぬぐうと、声を放って泣いた。
 テリトゥはネルの手をとり、頼みがあると言った。
「脇腹をしばってくれ」
 ネルが言う通りにすると立ち上がり、「祭司長が持っている、養父からもらった矢じりを取り返してくれ」と言った。
 祭司長は黙って差し出した。
 テリトゥは告げた。矢印の形をした石柱を倒し、そこに扉があるはずなので、矢じりで開ければいいと言った。開かないときは、矢じりと鍵穴とで、火をおこし燃えせば、かならず開くと。

第十四章 太陽の神

 ネルは、百人あまりの部下に大量の金と銀の粒を配った。彼らは城内いる者すべてにそれを配った。宝石は七人の仲間が背負い袋に入れた。

 城門を開け、祭司長を先頭にして、降伏した。指揮官のジグリとジグリに従う兵士らは城内に残った。徹底抗戦の構えだった。
 馬上のサルゴン王が出迎えた。
 カルカルに跨がったテリトゥとハキームは、徒歩の祭司長のすぐあとについた。手綱はハキームがとり、額帯で目をおおったテリトゥはハキームの腰に腕を回していた。テリトゥがシャダイとの闘いで負傷し、失明したことは、アッシリア軍の伝令官が城門の外ですでに確かめていた。

 武装解除した千人以上の老若男女を捕縛するために、敵軍の将兵が群がり出た。祭司長は、「陛下に謁見したい」と、部隊長とおぼしき者に言上した。部隊長は、祭司長とテリトゥらを置いて、サルゴン王のもとに駆けた。
 テリトゥは片手を上げた。
 捕虜となるはずの者たちが、それぞれ手にした金や銀の粒をいっせいに撒き散らした。
 ハキームはカルカルを疾駆させた。
 サルゴン王のそばを駆け抜けた。
「テリトゥ、怖れるな、なすべことをなせ!」
 サルゴンの王の声が風を突っ切って聞こえた。
 
 アッシリア軍の兵士は足元の金や銀の粒を拾うことに夢中で、誰も顔を上げない。捕虜となるはずの者たちは散り散りに逃走した。

 テリトゥの耳に、なつかしい声が聞こえる。

 大つむじの風のごとく、狂気と災いを襲いかからしめよ。
 光と闇をつらぬく者となれ。

 テリトゥはカルカルから下りると、灼熱の太陽に向かって駆けあがった。
 聖塔(ジクラト)に似た破城槌車の場所は脳裏に焼きついていた。
 ハキームは泣きながら、頂上にいるテリトゥに目を注いだ。
 騎馬部隊の弓兵が一斉にテリトゥに矢を射た。テリトゥはネルにもらった小刀と矢尻で火花を散らした。

 ハキームが振り返ると、赤いたてがみが燃え上がり、カルカルは火だるまになっていた。カルカルは彫像のように動かない。ハキームは涙をぬぐいカルカルに近づき、燃え盛るカルカルの首を抱きしめた。

 衣服に油を沁みこませたテリトゥは破城槌車とともに炎上した。

 ネルと仲間はラクダに乗り、砂漠の道へと逃げた。「テリトゥ、おまえは太陽の神になった」と言いながら。

   了

上記のイラストは、「ハロお絵描き」様に描いていただきました。素敵なイラストをありがとうございます。この場をかりて、御礼もうしあげます。

参考文献

監修・三笠宮崇仁殿下/岡田明子・小林登志子共著「古代メソポタミアの神々」集英社刊
小林登志子著「古代メソポタミア全史」及び「文明の誕生」中央公論刊
ウディ・レヴィ著「ナバテア文明」作品社刊
守屋洋著「孫子の兵法」知的生き方文庫刊
岩田明著「日本超古代文明とシュメール伝説の謎」
ヘルムート・ウーリッヒ著「シュメール文明」祐学社刊
M.モリスン+S.F.ブラウン著「ユダヤ教」青土社刊
ポール・ガレリ著「アッシリア学」白水社刊
寺尾義雄著「宦官物語」河出文庫刊
旧約聖書


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