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自分との対話日記3~やりたいことをやりなさいと言うけれど~

今日も朝から思いつくままに書いていた。
傍から見るとパソコンに向かって、ひとりで会話劇繰り広げてるわけだから結構奇妙なんだけど、人目が気になってつい考え込みやすい自分にとっては、素朴に自分と向き合うかなりいい環境になってる。
今日書いててでてきたのは、やりたいことの話。
よく聞く・目にする「やりたいことをやりなさい」ってやつ。

「やってみたい」をめぐる対話

「だから、とりあえずやってみるの。それでこれでいこってなったやつを外に出してみる。もし全部しっくりこなくてもいいじゃん。だってそれ成果にならなかったら徒労に終わるとか思う?」
「うーん、いや、あんまり思わないかも。自分でも意外。」
「そうでしょ?楽しくやってみるものって別に無駄とは思わないんだよ。むしろ無駄ってのはSNS見たりして無意識に相手の時間に呑まれて過ごすような時間のほうじゃない?あなたがあなたとして少しでも、ここ大事ね。少しでもやってみようかなって思ったもの、そして人から求められずともやったものは無駄にはならないのだよ。
「そうか、そんなもんか。」
「そうそう。」
「じゃあまずやってみる。うん、そうしよう。そういえばさっきさ、少しでもって言ってたじゃん。」
「うん。」
「あれさ、ちょっと気になった。」
「あーナイス気になり。いつも思ってたんだよね。やってみたいと思うことをやりなさいっていうの、たしかにその通りだと思ってる。だけど、それを読む時にちらつくのは、『わたしがやりたいってこんなのでいいのかな、こんな軽い気持ちでやりたいって思っていいのかな?』っていう気持ちの程度が気になって。だって長年継続できていたり、成果でてたりすると、てかまだ若い時にそんな全力投球できることとかって、なんかもう自分の時間すべてをかけてそれに集中したいみたいな感じじゃないと『やりたいこと』として認めちゃいけないんじゃないかって思ってたの。でもさ、実際やっていくと、出会いってもっと軽やかじゃない?で、続いていくものっていうのも軽やかじゃない?まあたまに責任背負って重たい1歩を堅固に積み重ねていく人いるけど。少なくとも自分のこの生きてきた年数を振り返ると、わたしの人生的にはそんなものなかったなって。今やってる研究だって、最初からやろうとしてたわけじゃない。全然違うことしたくて大学入って、たまたまランダムに振り分けられたゼミで自分の考えが180度変わって、そこから始まったのだから。それも楽しく成果も出せていた時は他のこともしながらやってた時だし。一度は重く踏みしめようとしてみた数年間があったけど、3年間か、結局なにも残せなかったし、なんなら矯正しきる前に自分がぶっ壊れてた。ならもうその方法は違うわけでさ。そんな頭抱えてこれがやりたいことなのか?いや、そんなたいそうなものではないよな。そしたらもう何もないよとか思っているのであれば、『え、やりたいかも。ちょっと時間つくって一気にやってみるか』の勢いにのってとりあえずそれに取り組んでみるほうがいいと思うんだよ。長くなっちゃったけど、だから『少しでも』って強調したの。」
「なるほど、それありがたかった。多分考えすぎてしまって動けなくなるタイプがいて、わたしとかまさにそうだから、軽い気持ちで動いてみていいんだって思うだけですごく行動の幅、フットワークが軽くなるんだよね。おかげさまでやってみようって思った。」

「やりたいこと」に覚悟はいらない

無意識のうちに制限かけて「やりたいこと」を認めないようにしていた自分に気づいた。仕事にするとか、しないとか、そんなレベル以前に、「やりたいこと」に対しては覚悟なんていらなかったんだよね。
取り組む時間を作れるのなら、やってみればいい。そこで続けていきたいと思ったなら工夫して続けていけばいい。
シンプルな話だった。変に考え込んでいたこれまでの自分がバカみたいだ。まあ、そんなバカをしたからこの気づきが輝くんですけどね。


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