見出し画像

#シロクマ文芸部紅葉から 手毬

紅葉からと言えば 良寛さん
辞世の句
『裏も見せ表もみせて散るもみじ』でしょうか


良寛

手に鞠を持ち子ども達にせがまれれば日がな一日鞠をつき衣の袖にはおはじきをしのばせて子らと遊びに興じていた。人は良寛を親しみを込めて「手毬上人」と呼んでいた。
瀬戸内寂聴の小説 「手毬」では若き日の貞心尼が七彩の絹糸で良寛に一目会いたいと願をかけて一針一針に思い込めて鞠をかがるところから始まる。
寛政十年(一七九八年)長岡藩士の娘奥村マスとして生まれ幼少に母親を亡くしており、米二十石取りの貧しい奥村家の口減らしのために十七歳の時に医師関長温に嫁いでいる。マスは美しい顔立ちで玉の輿と噂されたが実際は小間使いと同じ扱いで気難しい姑 口うるさい小姑に罵られての暮らしだった。夫婦生活がどの様なものかも知らず 夫の長温は 姑の意のままで 覇気の無い性的には不能な男
夫の急死により五年の結婚生活は終わりを告げた。姑は マスを石女(うまずめ)と罵り 身一つで関家を放り出された。
後の貞心尼は その時に出会った歌に自分を重ねたのです。
「岩むろの 田中に立てる一つ松
あはれ一つ松 濡れつつ立てり笠かしまさを 一つ松あはれ」
良寛法師の詠まれた和歌でした。
実家に身を置くこともかなわず
心細く漂っていた 貞心尼の心に深く染み込み この歌をお詠みになった高僧良寛に会いたいと思う日々に変わったのでした。
手毬に願をかけ いつかはお会いして差し上げたいとの思いを託し丁寧に絹糸を重ねるうちに
やがて運命に導かれるように 糸は手繰り寄せられてゆきます。
良寛は 国仙和尚と共に備前玉島の円通寺につき、三十歳の時に悟りの境地に達し 三十五歳 越後へ帰り
托鉢しながら清貧の中に身を置き五十九歳の時 乙子神社草庵に移住している。老境に入り周りの者が心配して
六十九才の年に島崎の木村家庵室に移住している。
貞心尼は近くの閻魔堂の尼僧になっており まさに運命の糸が動き出したのです。
「これぞこの 仏の道に遊びつつ つくや尽きせぬ御法(みのり)ならむ」貞心尼
返歌
「つきてみよ ーニ三四五六七八(ひふみよいむなや)九の十(ここのと)とおさめてまたはじまるを」良寛

良寛七十歳 貞心尼三十歳の師弟関係が結ばれました。
良寛は七十四歳で遷化(亡くなる)しました。その中で交わされた歌は 貞心尼の書「蓮の露」に収められています。良寛は消化器系の癌で亡くなったと言われています。貞心尼は糞尿で汚れた下半身を丁寧に洗い清潔に務め 「さむい さむい」と言えば自ら良寛の寝間に潜り抱いて体を温めたと書いてありました。
その中でうまれた辞世の句
「裏をみせ表をみせて散るもみじ」
この句は 世間では人生を表しているように言われていますが 私は良寛と貞心尼の師弟関係を越えた 生身の良寛の愛情表現なのではと思えてしまう。四十歳の年の差でも 燃え上がる炎が見えるような気がする。
赤紅葉は表が赤いほど 裏との違いを見せ 美しく散ってゆくのだそうです。紅葉散る それは死を意味するのですが
瀬戸内寂聴 手毬の最後には
良寛最後の句として

「散る桜 残る桜も 散る桜」で終わっています。
紅葉ではなく 桜 華やぎを感じます。貞心尼に見守られて幸せな最後であったのでしょう。
潔良さも感じられます。
紅葉から 思いもかけず こんなところ(良寛と貞心尼)にはまった 私に些か 戸惑っております。
シロクマ文芸部は学びの場ですね。
終わり



いいなと思ったら応援しよう!