雰囲気に飲まれない
全体の雰囲気に飲まれる、ということがある。猫を被って大人しい人を演じてしまう。
相手によって、ここは大人しく振る舞うべきだとか良い人っぽくした方がいいと判断してそのように振る舞ってしまうことによって、だんだんと居心地が悪くなっていく。のびのびと振る舞うスペースが狭くなって、身動きが取れなくなって、元気がなくなっていくのだ。
やっかいなことに、自分自身までもが、大人しく良い人が本来の自分であるかのように錯覚してしまうのである。なぜだかわからないけど、肩身が狭い感じがして、私のいる場所じゃない感じがする、という感覚だけが残る。でも、それは環境や状況のせいだと思い込んでいて、まさか自分の振る舞いが招いたことだとは気付きもしない。
調子が出ないのは自分ではない自分を演じるからだと思う。大人しい人、賢そうな人、教養の備わっている人、おしゃれな人、出来る人、できない人を見下す人、、、
私の苦手なタイプの人たちを前にすると私はいい子ぶりっ子をして、私も同じカテゴリーの人ですよ、というフリをしてしまうのだ。
あなたの感覚分かりますよ、という背伸びした態度は私を疲弊させる。
また、そういうカテゴリーの人からバカにされたくないというプライドもあるので、本来の自分が出せなくなる。
人に見せられる自分を選んで、見せられる範囲で取り繕って、ボロをださないように大人しくしていけば、バカにされず生き抜けるだろうと信じて。
でも、私は、決して、大人しくなんかないし、いい人でもない。
生き物として、イキイキと生きるのが本来の私の姿。
周りが賢そうだからとか大人しくスマートに振る舞っている人ばかりだからといって、雰囲気に飲まれなくていいんだ。
周りがみんな賢そうに見えるのは、自分が焦ってる証拠。脳が歪んだバイアスで事象を捉えているから、みんなそうだと錯覚しているに過ぎない。
本来の自分は明るくマイペースだ。
そして、のびのびしている。
これが、生物としての私だ。
錯覚してはならない。私は大人しくないし、いい人ではない。だから、大人しくしなくていいし、いい人のフリをしなくていい。
私はこういう人だと自覚してその通りに生きる。
本来の自分を見失わないとはこういうことか。
たとえば、電話対応も明るく。
隣の人が暗いトーンで、賢そうに、大人しそうに、機械的に電話対応してたって、それはその人のやり方。
私は、内側から出てくるものを抑えなくていい。明るく、生き物らしくイキイキと電話対応する。それが私なんだな。