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0を含む割り算にまつわる物語 後編


鈴鹿の大叔父であるNおじさんの家に来ていた。Aおばさんは父の叔母、その子どもであるKおじさんとYおじさん。Yおじさん家族は奥さんと二人の子を連れて東京から帰省していた。小さい子どもたちは別の部屋で遊んでおり、父は到着して酒を飲んでソファーで寝ていた。居間のちゃぶ台を7人の大人と2人の子ども、そして私が囲んでいた。皆が私の説明に耳を傾けている。

家で母に説明した通りに解説をした。そのルールに従うと5÷0の答えはどんな数字を当て嵌めてもおかしくなるし、0÷0は何を入れても等式が成り立つ。説明を終えた瞬間に「おーっ」「なるほど!」と声があがった。Nおじさんが少し興奮交じりに話し始めた。
「いや立派な説明じゃった。これはなかなか感動的なことだぞ。こうやって小さな子が知的なことで大人を納得させる。やっぱり学校制度っていうものは素晴らしいものだな。こうやって知がどんどん広がっていく。ワシは感動した!」

冗談好きのKおじさんが続いた。
「俺はさ。田舎の栗野工業(現霧島高校)の出だからさっぱりこういうのは分からん。でも今の説明はよく分かった。コウスケはその路線を貫け。もっともっとこれを知らない人に伝えていくんだ」
Yおじさんはこう言った。
「俺は兄貴と違って、もうちょっと都会の東山工業(現愛知総合工科高校)に行ったから、今のことはまあ知ってた。でも0で割るって改めて不思議だよね。こういうことって大人になると考えられる時間が減るから今のうちにたくさん考えるといいよ」と褒めてくれた。

Nおじさんは「ありがとう、これが授業料だ!」と言って私に1000円札を渡した。母が「こんなの頂けません」と断ったが、「こうやって勉強して正しい知識が増えていくことやそれを他人と共有することは『得』だって教えるのが大事なんじゃ!」と言って私の手元に1000円札をねじ込んだ。私が初めて頂いた授業料ということになる。

「いやいや愉快な時間じゃった!」とNおじさんは伊佐錦のお湯割りを飲み始めた。それからNおじさんやAおばさんの頃は農作業の繁忙期は学校になかなか行けなかったこと。Kおじさんが高校を卒業してNおじさんが中学を卒業する時に仕事を求めて鹿児島の伊佐から名古屋に越してきたこと。Kおじさんは働き始めたタイミングで大都市の名古屋に来たので夜の街にハマり錦でボーイをした時期もあったこと。その後に縁があって四日市の仕事に従事することになり、Nおじさんは鈴鹿で建設会社を始めたこと。Yおじさんは東京に就職してずっとガス関係のインフラ業に従事していることなどを聞いた。

夜に客間の布団の上。壁の向こうからはおじさんたちの麻雀の物音が聞こえる。母が話し始めた。
「あなたは今の時代に生まれて平和な時間を過ごして学校で勉強ができる。習い事もいくつか通っている。年上の人よりも知識があったり、難しい問題を解けたりすることがあるでしょう。でも決してそれで相手をバカにしてはいけないよ。色々な偶然があってできる人とできない人がいる。間違って教わることや教えてしまうこともある。そんな時に謙虚な気持ちは常にもっていなさいね」
「分かった。おやすみ」

あまり学のない人たちのつまらない思い出話かもしれない。でも現代のSAPIX的な価値観では出てこないようなエピソードかと思う。少し前はこんな感じで何かを習得していく過程にドラマや思い出があった。この行間みたいな部分を大切にしないでSNSみたいな所にぶち込んで多くの人の負の感情の燃料にする風潮には何か物寂しいものを感じるのである。


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