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愛知郊外の生活がTHE東京の価値観であるSNSと全く違うお話

妻が先日から「15年勤続手当」で10日間ほど休みになった。結婚の為に九州から愛知に来て16年になる。二人の子の出産を挟んでずっと正社員として我が家を支えてくれている。自営の私の不安定さをフォローしてくれている妻には頭が上がらない。

そんな平日の休みに「ママランチ会」に誘われていった。行事や地域のイベントの後に流れで食事に行くことは数回あったが「ランチのみが目的」で平日に出かけて行ったのは本当に珍しいことである。妻を含めた6人で優雅なランチを堪能してきたようだった。

その日の夜に「ハァー」とため息をつく妻。こちらが聞く前に話し始めた。「何かさぁ。愛知の人ってテレビやネットで出てくる人と違うんだよね」最初の一言がコレだった。以降妻の話はこんな内容だった。

”ウチだけだったんだよね。親の援助なしで土地も家も買ったの。みんな親の土地が空いていたからとか、親の家の敷地内に建てたとか、祖父母がやっていた店の跡地に新築を建てたとか、二世代住宅を親と折半で建てたとか。完全に土地と家を自分たちで買ったのはウチだけだった。コメの話にもなったんだけどさ。スーパーで普通に買っているのはやっぱりウチだけで、みんな「親戚に農家がいる」とか「親がまとめて買ってくれて半分くれる」とかだったから、今の高い状況に困っている人がいなくて参っちゃった。私たちの世代の生活ってテレビとかだともっと汲々としていない?何かみんな親とか親戚とか地元の縁が強いんだよね。あなたの家でもそう感じたけど、今日の人たちは皆がそれ以上”

”俺の家も元々愛知ではないからな。鹿児島から出てきた親が転勤の末にたどり着いたのがここだった訳で、長い目で見たら新参者。ウチみたいに親が4人とも愛知出身ではない夫婦ってこの辺りでは珍しいのだろうね”

改めてざっと今付き合いのある友人や学生時代の親友を思い返すと、本当にウチのような夫婦は少ない。想像した何十組の家のほとんどで漆黒の赤だし味噌汁が食卓に並んでいるだろう。視点を変えてみればこれが「名古屋の排他性」に繋がるのかもしれない。

SNSはいかにも東京的である。地元に拘泥する人は時代遅れだし、自治会やPTAはホモソーシャルを詰め込んだ悪しき伝統として語られる。外で遊ぶ子はほとんどおらず、小4になると中受の塾に通うのが当たり前に見える。
しかし私の現実では、先日のスポーツの日に催された獅子祭りに70人ほどの小学生が集まった。たった500m四方の町内だけでこれだけの子が集まり、その倍くらいの人数の親やお年寄りが祭りを執り行っている。その前の週には市の体育大会があって同じようなメンバーがリレーに玉入れに綱引きに頑張っていた。公園や駄菓子屋では夕方にいつも小中生が集まっている。昔と変わったのは日没後になると外国人の若者の集団が公園に集まるようになったくらいか。私立中学校に進む子も少なく、長男の同級生で私学に進んだのは2人だった。市内には5つの小学校があるので約350人のうち10人くらいが私立中学に進んだのだろう。毎週毎週上述のように地域のイベントが盛りだくさんだが、小6の子たちが中心になって活動をしているのをよく見る。つまり彼らが模試や休みの日の塾通いとは全く無縁だということを実感する。

先日の子ども獅子祭りの様子(加工済み)

現在、私の塾の小学部は「髪を染めている児童」の方が多数派である。どうも他塾の話を聞く感じでは、B層と呼ばれている人たちの割合が多い塾である。SNSではこのような子育てをしている人は「貧困に喘ぐ」という描写がされている場合が多い。しかし現実には兄弟をウチに通わせて頂いている上にまだ下に小さい子がいて、アルファードやヴェルファイアで送迎している家が多い。そして長い休みにはディズニーやUSJ、沖縄やハワイにポンと出かける。「高いですけど親が出してくれました。孫と行くなら全然痛くないって」と教えてくれたのは夏にグアムに出かけた塾生の保護者だった。

こんな感じで名古屋の郊外に住んでいるとSNSとは違う景色を日々感じる。この付き合いが確かにうざったいこともない訳では無いが、私にとっては完全に個人化された生活よりずっと楽なのは間違いない。最近この感覚を感じることが本当に増えた。自分だけの勘違いかと思っていたら、妻の話でやっぱりと納得した次第である。このテーマには興味をそそられるので時々綴っていこうと思う。

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