何を選んで何を受け容れるのか
年末年始に首都圏に暮らす2人と話す機会があった。一人は妹である。もう東京で暮らし始めて23年になる。
「向こうとこっちでは子育てのルールが違うよね。東京は学校が『自分で選ぶもの』であって、愛知は学校は『そこにある所に通うもの』って感じ、皆が血眼になって自分の子どもに合う中学校ないしは小学校を探してる。そして普通の公立小中に通う同級生をナチュラルに見下している人が多い。まあ愛知は愛知で刺激が少ないのと、上昇志向が感じられないのが退屈でもあるのだけれど」
次に結婚と同時に東京で暮らすことになった友人だ。こちらも向こうの生活が13年目になった。中学受験は今の所全く考えていないらしい。
「向こうで仲良くなったパパ友と話した時にビビっちゃった。まず子どもの通知表とかテストの点とかめっちゃ細かく把握しているの。その点で『このままじゃ中学の内申点勝負で不利だから私立を選びたい』って毎週のように子を連れて色々な私立中学を見に行っているらしいんだよな。そこでは話合わせたけど、本音では『内申点で不利なタイプでも実力でねじ伏せればええやん』と思っちゃうよね。仮にそれができないならその身の丈で生きていけばいいんだって。毎週中学を見に行くくらいなら友達と遊ばせてやりたいし、キャンプとか行った方が実のある休日だと思うんだけどなあ。『学力が突出しているから私立』じゃない受験は違和感ありありだぜ」
確かにこれは思う。私の塾の卒業生は近い高校や大学への進学が圧倒的に多い。面談でも「〇〇高校って素敵な高校があるので、そこ一択です」と唯一の市内の高校を挙げる方が少なくない。その高校は普通科でもなければ進学校でも無い、昨年度の推薦入試では全員が合格したような学校である。率直に言えば最初から選択肢が無い人が多いのである。「子どもに合う学校」よりも「近くの学校に行ってわが子がどう楽しむか」と考えている人がリアルでは多い。
教育業界を去った方が仰っていた。
「嫌になっちゃったんだよね、最近の風潮に。一部の親がとにかく学校や塾に寄り添ってほしい、子にとって『常に』快適な場であってほしい、周囲の人が皆善人であってほしい、みたいな考え方に。もっとさ自分の器を大きくして『どんな環境でもどんとこい』って人材に育てるのが教育じゃん。それなのにとにかく自分に合った環境を求める。そして自分自身は変わろうとしない、これが元々持っている特質だからです。だからあいつら恋愛も結婚もできねえんだよ。親がそうやって育ててるし、学校や教育機関がそれに迎合しているからね」
選ぶ社会というのは非常に格差社会と親和性が高い。実はほとんどの人にとって「与えられたものを受け容れる社会」の方が生きやすいのだ。だから妙に教育や進路のことを発信している保護者垢から幸福感を感じにくい。佐藤ママみたいな人は本当に一握りなのである。恋愛や結婚も「全世界から相手を選ぶ」システムになったから皆が離れていくのである。学校にいくかどうかも選んでいるし、勉強するか否かも選ばさせられる。繰り返すがこれはほとんどの人にとって不幸である。それなら多少の不幸や困難も受け容れる度量を育んだ方がずっと予後が良い。
子どもらが皆同じゲームを楽しみ、流れてくる動画をただ見続けて、ファミレスよりもマックや単一のメニューを売りにする店を好むようにシフトしているのは、この「選択疲れの反動」ではなかろうか。
まだ愛知郊外のリアル社会には「受け容れる」生き方を普通に肯定する雰囲気がある。SNSで多く発信をする人たちとは相容れない考え方だろうが(そもそも発信自体を選んでいるのだから)、そろそろ反動が来る気がする。
自分も何を選び何を受け容れるのかを考えて2025年は生活していきたい。