見出し画像

ミュシャのスケッチ


ミュシャ鉛筆デッサン
ミュシャデッサン
ミュシャデッサン
ミュシャデッサン
ミュシャデッサン
ミュシャデッサン

中学生くらいの頃から、ミュシャの絵が好きでした。商業デザイナーとしてポスターとかパッケージデザインを手がけることの多かったミュシャのタバコのポスターであるJOBという絵が好きで、ポストカードを壁に貼っていた。

あの頃は商業デザインというものに興味を持っていました。自分なりの解釈でいくと商業デザインというものは1点もののオートクチュールではなくて、大量に生産されるアートです。印刷されて配られていくものだから、その画はある程度簡略化、されなければならない。

線をまとめるとでもいうのかな?そして、色もある程度まとめる。また、パッと見てはっきりわかるような、そうだなぁ……

簡単さ、なんでしょうね。

微細な色の違いはしばらく眺めなければ目の奥に届かないですが、道を通り過ぎる時に目を止めさせるためには、すぐにパッと目に訴えかける単純な色の構成とはっきりとした輪郭を持っていなければならない。それが商業美術でしょう。

そういう本来の絵から少し記号に近づけた商業美術というものに興味がある時がありました。私はミュシャの構図を愛した。その色使いも、そして、額縁のように描かれる紋様も、そして、商業美術というのが普通の絵の中から省略可能なものを単純化し記号へと近づけてゆく作業だとして、それでも省略せずに置かれる部分がある。

言い換えれば、商業美術というものは没個性の世界です。作者が主張しすぎると商品が目立たなくなってしまうというか。わかりやすい華やかさが良い。美しさが良い。複雑な呼びかけはいらない。そうするとえてして薄っぺらくなってしまうものですが、そのギリギリのところでそれでもミュシャは香るなぁと思う。

不思議なものです。美男美女を描くと不思議と薄っぺらくなることもある。平凡で印象に残らない画になるでしょう。綺麗なんだけど、命がないというか。

私はミュシャ贔屓だからこういうのかもしれませんが、わかりやすい薄っぺらい美しさを描いているようでいて、でも、女の人にはさりげなく佇まいがある。それぞれに少しずつ雰囲気が違うのです。

憂いを帯びた夫人であったり、正々堂々と清らかな少女であったり、娼婦のような色気のある人から、淑女のような大人の女、気高い人から、気だるい人、女神のように神々しくかつ妖しい顔の女性までいる。

学生時代は絵を描くのも見るのも好きでわからないなりに色々見てきた。わからないけどそこそこの量は見ていたからだろうか。最近になってようやく私の絵を見る目が開いたみたい。絵を見るにもそれなりの下地と年月が必要なのだと思う。

人の表情というのは実はとても奥深いものなのだなと。表情だけではない。画家の目で観察すれば見て取れる。人間というのは全体にその佇まいが現れる。表情だけではなくてその首から肩へのライン。肩から指まで繋がるライン。それらのほんのわずかな仕草。その違いがその人の佇まいを変えるものだし、画家の能力でもってそれを映すと、画面の中に命がこもる。

完璧な描写とでもいうのだろうか?

普段漫画をよく読み、それで絵を見た気になっていて、もう何年も絵を見ていなかったんだなと思う。漫画にだってもちろん非常にうまく描く人はいる。しかし、画家たちは、基本的に人間の骨の構造がずれて見えるような体はもちろん描かないし、長すぎる腕も少し大きい頭もない。

意図的に抽象的に描くのでなければ画家は画面に私たちの目に映るそのままを掬い取って見せ見ているままの像を閉じ込めるのだ。違和感のない、まるで生きているかのようなリアリティを与える。それが画家たちの仕事なのだろう。

昔は展覧会でデッサンなぞあるとその前を速歩きで歩いたものだ。それは展覧総数を水増しするために展示された絵なのだなどと思いながら。ところがである。最近は色がつけられて完成された画よりも、下手をするとデッサンが好きだったりする。一流の画家が描いた下がきを見るのが好きだ。

適当にサラサラと描かれたものが、それでも素人と比べてべらぼうに上手いのを見るのが面白いからである。また、完璧な表情や構図に辿り着く前に試行錯誤をしている様子が見て取れるのも良い。画家の思考や視点を少し覗けるように思う。

そして、それから、そういうふうに何人かの画家のデッサンを覗いた経験から学んだことがある。それはつまり、人に見せるために描かれた絵ではなく、その前に描かれたデッサンを次から次へと眺めていると、そこに、人間の努力の証を見るとでもいうのだろうか……

来る日も来る日も人の表情を観察し、そして、それを描き出す努力を続けなければこんな絵は描けないということを目の当たりにするからである。

今はカメラで写真を撮ればいいわけだし。
AIだって絵を描くじゃないですか。
それでも自分の目で見て手を動かし絵を描こうとすれば、こんなに膨大な量のデッサンを描かなければならないというのは変わらないでしょう。

そこにどんな意味があるのか?無駄ではないのか。

それに対して、私にはあまりに曖昧なことしか述べられないのですが……

車で道を走っていると、不思議と何度もその道を通っていてもその街をよく知らないというか、見ていない、或いは覚えていないということはあると思うんです。これは私の直感的な感覚からのべることなのですが、もしも人間が手や足を動かすことをやめて様々なことを全て時短でつくり生きていくようになれば、人間の感じる能力も落ちるでしょう。

長い時間をかけて人間を観察しそれを画面に映しとろうとする過程で、人は人間についてつくづくと知ろうとする、その画家の観察の深さが濃縮されて画面にまとまり、それを眺めることにより、多分、私たちは私たちを再発見している。

それは、車を降りてゆっくりと街を歩くことに似ている。なくならないでほしい。この世で効率的な方法だけが必ずしも正しいとは言えない。

絵筆を取らなくなって久しい。今度は画家のデッサンを小説家に置き換えてみる。ならば小説家のデッサンとは、表に出ない文章稼業か何かか?

ミュシャの努力の証のような延々とつづくデッサン画の前をゆっくりと歩きながら、たかがデッサンのその緻密さと美しさにまた心が躍る。

今もまだ、私はミュシャに恋をしているようだ。おっと、ミュシャの絵に恋をしているようだ。既婚の身ですからね。

たくさんの無駄に思える行為を続けられた人間だけが辿り着ける境地がある。そんなふうに不器用で無骨でまわりくどい人間でいられればそれで良い。

2024.11.12
汪海妹


ミュシャデッサン

いいなと思ったら応援しよう!