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ドラマ感想:琅琊榜(ろうやぼう)その2

コツコツと見てきたろうやぼうも残りあとわずかとなり、先が待てなくなりました。そこで、私としては珍しいことですが、中国語音声、中国語字幕で中国のサイトで最後まで一気見しました。(映画やドラマはセリフを完全に把握したいので、外国語ではあまり見ないのです)結果、

ひどいロス状態になりました……

ちなみにこっからネタバレしますが、
↓下へ続く








主人公の小殊は、どうやら死んでしまいまして、もう会えないのです。どうしてどうやらというかというと、所謂エンディングでチラッと泣いてる群主が出てくるので死んだんだろうなというやつです。小殊が死んだシーンがあったわけではない。

ああ……

ここで思ふ。
祁王が死なずにそのまま即位して、靖王も小殊も臣下として仕えて、それで、小殊と群主が結婚して生きていって欲しかったなと。
そんなことすれば、このドラマは全く違う話になっちゃうし、視聴率は取れないのですが、本気でそう思いました。もう、面白いか面白くないかの問題ではないわけです。

サミシー!

あるいは、小殊が奇跡的に生き延び、郡主と爺さん婆さんになっていて欲しかった!そうすれば、私の嫌うベタな展開ですが、それでよかった!なぜ、戦場にわざわざいってただでさえ短い寿命を更に短くするんだっ!

こういうハッピーエンド症候群のためにいまいち面白いものが書けないくせに、性懲りも無くそう思う。

さて、言いたいことは言ったので、気を取り直して感想のようなものを書き連ねる。このドラマは構想が見事だと思う。細かなシナリオもいいし、演出と演技もいいと思う。目が離せない展開を学ぶために、プロット建ての苦手な私も勉強を兼ねて繰り返し見ても良いだろう。

しかしだな。小殊が死んでしまったので、もう見る勇気はない。

チーン……

すみませんね。北方謙三の三国志も、大好きな関羽が死んでしまったところで読むのをやめた女です。ちなみに歴史が得意ではない私は、関羽が途中で死ぬことを知らずに三国志を読んでました。

また話がずれました。

構想というか、構造ですかね?見事だと思います。無駄がない。簡単にいうと、赤焔事案を覆すという目的のために邪魔な悪役が一人退場し、二人退場し、とまるで花弁を一つずつ剥がすようにして花の中心に向かっていく構造になってます。謝玉がいて皇太子がいて誉王がいて夏江がいて、そして、梁帝がいる。これで最後かな?

どうしてアホな方が皇太子で、賢い方(誉王)が太子じゃないのかしら?という疑問が序盤からあったのですが、それにもちゃんと理由があった。様々に仕掛けられた伏線が綺麗に収束してゆきます。誉王対靖王となった時、それでも誉王優位な実情をひっくり返すに十分なネタが隠されてたのです!!パズルのピースがピタっと合うように、幾つもの疑問がそれで解決するようなピースですぅ!そして、そのピースのために、ずっと冷静沈着だった誉王がとうとう感情のままに無謀な策、つまりそれは父王に対する謀反なのですが、に突っ走ってしまうという。

 なんとおおおおお!

え、それがなんだったのかはネタバレしませんので、本編でお楽しみください。
<(_ _)>

事の描写と、関連する人間の心理の描写のバランスもいい。だから、ミステリーのように謎を中心に見たい人、歴史的な政治的な部分を見たい人、人物が可哀想とかそういう情感から見たい人、複数の人のニーズを拾って見る人の幅が広かったのではないでしょうか。

ここでまたいつものように話がちょっと飛びますが、すみませんね。

中国というのは、始皇帝の頃のドラマや漫画を見ていても、必ず歴史上の為政者の故事が持ち出されてくる。つまりは、秦が統治するよりも昔から史実が記述され、歴代の王というのは後世の人々に批判され評価される対象だった。そして、このろうやぼうのドラマでも、絶大な権力を握る人間の限界のようなものが描かれているように思います。

物語の始まりは花弁の外側からゆく。この長い54話の中で、結局は、我々視聴者は、現在の梁帝の評価を定めるために旅ゆく民のようなものなのです。どうして赤焔事案が起こってしまったのか。花の芯までたどり着く。結局は梁帝は猜疑心が強く、自分が未熟な王であるということに強い劣等感を持っていた。一方、息子の祁王は自分とは異なり、後世にまで讃えられる賢王である。親子ではあるが、先ほども述べたように、王というのは中国では、後世の人々によって評価され語り継がれる存在です。ここで、親と子であるという時間軸は取り払われ、横並びにされて比べられる。だから、親子であって通常の親子でもなく、ライバルでもあるわけだ。

この心理構造により、梁帝は 今風にゆうならば 心を病んでいるのでしょう。

ありもしない祁王謀反の知らせに即座に反応し、全てを虐殺してしまったのは、結局は個人のコンプレックスだったと、簡単に言ってしまってもしょうがないですが……。

ただ、現在でも、権力の集まってくるところには意外と論理的な思考とは無関係に、個人的なあまりに感情的な事象によって結果が歪められてしまうことってなきにしもあらずだ。

部下が優秀だと普通は上は喜ぶと思うじゃないですか。でも、実際は、上は訝しむわけです。こいつ、俺のこと、馬鹿にしてんじゃないかと。そして、自分よりも馬鹿な人を自分の後に選ぶわけです。

そんなことしたら、会社は潰れるやんけ!って話ですよ。
まあぁああったくぅううう!

ろうやぼうの中で起こっていることをちょっと小さくしたら、あっちの会社でもこっちの会社でも起こってるってことですよぅ。

ちなみに、自分は自分のことを歴史音痴と紹介している。最近せっせと大河ドラマやヒストリー番組を見て、私の愛しの脳内の歴史の白地図にもちらほらとカラーの部分が出てきたが、わりと、結構、素晴らしくいまだに空白は多い。あまりに知らないことが多いので、何を見ても新鮮で面白い。ちなみにこの前まで有名な浮世絵師の写楽は、生前は有名ではなかったと知らなかった。あの人、海外で高く評価されて有名になったそうですね。

それではそんな歴史音痴が、なぜ最近せっせと歴史にまつわるエトセトラにハマっているのか。ひとえに、世渡り。

チーン……

ここをもうちょっと細かく説明しますと、ぶっちゃけ、今更、世を、あらよっとばかりに器用に渡っていこうだなんて思っちゃいません。自分が世渡り上手になんて逆立ちしてもなれると思わん。

これはもうね、癒しを求めてるの。社会の荒波に揉まれて、グエーと鳴いたアヒル(?)のようだった自分。なんとか、荒波から脱出したけど、

「なんでこうなんねーん」

と海に向かって吠えたいのだが、吠えるのもいいが、自分と同じようにか、あるいはもっとけちょんけちょんに荒波に揉まれている人についての物語を読むと、

「あら、かわいそ。つうか、あたしよりかわいそ」

癒されますねん。

自分の人生に起こったことの意味が不明な場合、人はその意味をわかろうとすると思う。だから、私は、そういうことのためにもフィクションは存在していると思うんですよ。画面の中の人々に感情移入しながら、なかなか答えの出ない問いに答えを求めているのだと思う。

梁帝が周りの人に持ったほどの猜疑心を自分が持ち合わせているわけではないが、しかし、スケールを縮めてみれば、自分が上の立場で下の人に猜疑心を持ったこともあった。というか、むしろ、猜疑心の方が多かったです。反対に下の立場で上の人に対して持ったこともある。だから、梁帝の気持ちもわかるぞよ。

最近つくづく思う。本来は何も問題のないところに、幽霊のようなものを作り上げてしまうのは、自分のこの弱い心である。上司は別に自分のことを低く評価したり、責めているわけではないのに、勝手に責められているように思うのは猜疑心のなせる技だ。下の人が自分を嫌っているんじゃないかと思うのもまた然り。

ことをなすには、頭を鍛えるだけじゃなく、心を鍛えねばならない。そうでなければ責任の重さに自分で自分を潰してしまう。人の上に立たなくてもいいが、立たなければならない時、人は心を鍛えねばならない。

こんなことを切々と書きながらしかし私は、許されるのなら遊んで暮らしたいなーと思う今日この頃である。そうもいかないのだがな!

全くまとまらないまま、そしてこんな時間になってしまった。

汪海妹
2025.02.25

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