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私なりに書き方の進め12 名詞を増やす
最初に写真の説明を。会社の下にスタバがあり、たまにスタバランチをするのですが、夏の新品のスムージーが出てまして、ベルギーチョコレートのスムージーでした。350日くらいが保守派で15日くらい冒険する人間でして、この前がその日で、出たばかりの新品を頼んでみた。
「あれ」
「あれ?」
「うん、あれ。あの、べ、べ、ベルギー」
(↑商品名等固有名詞は発音が綺麗でないと伝わらないので苦手。普通は指差しで済ましている)
「ああ、わかった。あれね」
なぜか店員はちっと舌打ちでもしそうな険悪な顔をした。
その理由はすぐにわかった。
ガガガガガ
「……」
例によって例の如く、スタバの絵日記帳に絵を描きながら待っていると、プロフェッショナルな彼女がなかなか注文の品を出せずにいる。しかも店頭の客も出前の注文も入ってたらしく、千手観音様まではいかないが、ちょっと背中から手が生えてきて七転八倒してるような活躍だった。よくわからんけど。つまりは、新品って作り方がよく頭に入っていないから、有能な彼女でもうまく捌けず、しかもランチタイムの忙しい時に、なぜか1人で回してたので、馴染みの私が彼女にとどめの一撃を……
「お待ち」
「あっ」
スタバのチョコスムージーをラーメン屋みたく出してもらったぜ。ま、そんなイメージのやり手店員なのである。
ズズズ
「おうっ!」
滅多に冒険しない保守派の私が頼んだ新品スムージーは、簡単にいえば、高級ココアでした。そうそうベルギー黒チョコレートとなってたのよ。あの体にいいカカオ率の高いなんちゃらだ。だから、ベタベタと甘くはなかったのよ。
おいしかったよ。冒険してよかった。
で、その写真を載せたわけだが、実はそれをnoteに載せるのにはもう一つ訳がある。スタバの恩恵に乗っかるのである。あのね。猫の写真を載せると猫を好きな人がどれどれと開いてくれる。スタバの写真を載せるとスタバ好きが、という訳よ。
え、スタバの方向に感謝。うんっと、店舗だとあっちゃこっちゃにあるので、アメリカの方向か?
合掌
で、なんの話でしたっけ?
描写の話を続けるんでしたね。今日の描写の話を続けるためには、江國香織さんと私についてもう少し続けます。
簡単にいうとですね。一時期この方に非常に憧れて色々読んでいました。でも、ある時期を境にちょっと距離感を感じるようになりました。ばななさんに関してはこの距離感は感じておらず、江國さんには感じるようになった。
正確にいえば、お二人とも有名人なので、むしろ距離感感じろという話なのだけど、それはおいといて。よく読書をされる方はわかると思うんです。巷には色々な作家さんがいて色々な本がありますが、その中に身近に感じる人と遠く感じる人がいるということを。
思春期の頃は自分にはないものを持っている人に憧れて、本を始め色々なものを見てきた気がしますが、自分が成長するに従って、自分の背が相手を追い越すというのとはちょっと違うのですが、自分が変化するのですね。自分が変化して大人になった時に江國さんを読み直すと、私とこの人は結構違う人間だなと思って、そこに、私に対する救いの言葉は無くなってしまったわけ。
これねぇ、大事な友達を失ってしまったようで、結構寂しいんですよ。結構な冊数を読んでましたしね。こうばしい日々を久々に読みました。あれは初期の作品なので、まだ自分と江國さんの類似点を感じるのですが、もっと後ろの方の作品を読み進めていくと、違うんです。
そしてこれは小説上の技法がどうとか、そういう話ではありません。どんなにテクニックがあっても、その作家さんの書くものが自分と合うかどうかというのは違う。(そういう意味では山田詠美さんも昔は結構読んでいましたが、大人になるに従って読まなくなった作家さんです。これは脇道に逸れるのでおいとこう)
この件に関しては なんか寂しいな と思いながら、あまり突き詰めて考えないようにしてきましたが、本気で書くならもう一度読み直してから書くべきですが、ぼんやりとした印象でここに書いてしまうと、主人公に対しての反感、これしかないですね。全ての作品の主人公に反感を覚えたわけではなく、何か一作だったと記憶しているのですが、その心のあり方や生き方の姿勢に反感を覚え、長い時間の憧れが消えてしまったんです。
でもね、それって、多分こうなんですよ。
人間は人生の前半は、自分が持っていないものを持っている人に憧れるものです。だから、思春期というのは苦しくて切ない季節なんですよ。だけど、自分が持っていないものを武器として戦える人間はいないのです。だから、真の意味で自立する時に人は憧れていた人に対して幻滅して、何かを卒業するということもあるわけ。
幻滅するというほどの強い感情じゃありませんでしたが、自分の思想から切り離しました。
何がそんなに?と言われると、なんというか、孤高の美とでもいうのでしょうか?作中の人物の完成された自分だけの世界に人を受け入れようとしない様子、(本当にそうだったわけじゃなく、私にはそう感じられたということですが、)それが、なんか違うと思っちゃったわけ。
ただし、こういう人はいるんです。現実にも。だから、私には合わなかったというだけです。
完成度の高い美しい世界に住んでいる人が、他人とはあまり交わろうとしない、それもまた生き方です。
こんなにだらだらと書いてしまいましてすみません。時間の無駄だと思えば、さっさと読むのをやめていい記事です。ごめんなさいね。
それで、それでも江國さんの完成度の高い文章に憧れた自分は、その描写を真似しようとして分析していた時代があるのですが、とにかく名詞なのよね。こうばしい日々だけ見ていても
花の名前、食べ物の名前、野球チームの名前から何まで、花の様子や食べ物の味、野球チームの印象、そして、モノの名前の音の響き方、全てをきっちり把握した上で、いいと思うものを使ってそれを丁寧に配置して描写しています。
これが、きらきらひかる になると 様々なお酒が 美しく登場してきます。洋服の描写が素敵だった作品もあると思いますね。
ありとあらゆるセンスの良い名詞たちが、大名行列を成しているのが江國さんの小説ではないかしら?
それでね、ここが本日一番言いたいことなのですが、
センスよく暮らしている人の文章にはそのセンスが漂ってきますが、
だらしなく暮らしている人がなりすましで名詞を自分の作品に配置すると、違和感が出てきます。
だから、江國さんにめちゃめちゃ憧れていた若い頃の自分が江國さんになろうと思ったら、一度出家して、出家したらそこの寺は実はSFな手法で人間を生まれ変わらせるファクトリーを持っていて、脳みそを真っ白にされた後に、別人になって寺から出てきた、
ぐらいの変化が起こらないと無理です。
ラーメンに背脂を入れるかと聞かれて、背脂ってなんだ?ときいてラーメン屋に説明してもらい、背脂、うめえと喜んでいる人が、
バゲットに薄くバターを塗ってアボガドをスライスしたものを乗っけて、紅茶を淹れて飲んだ。カップはロイヤルコペンハーゲンのブルーフルーテッドでした。
なんて書いていると、ビミョーな訳です。非常にビミョーです。
ここで、かつての自分は文学的に右往左往しました。その頃は若くてまだ柔軟な頭を持っていたのと、そこまで馬鹿じゃなかったので、自分がよく知らない上質なものを作品に使うのは痛い行為だと知っていて、それなら、その上質を自分の暮らしに取り入れて、おいらもハイソに生きれば、小説もハイソになるんじゃね?と思って(短絡的の事例として使えそうだ)
ロイヤルコペンハーゲンのブルーフルーテッドを買いました❤︎
というのは嘘で(高いんすよ。これ)、小汚い家でカップだけ上質って、どうよ。
とにかくね、自分自身や暮らしというのは必ず書いたものに出てきます。だから、よく知らないブランド品をネットで調べて写真だけ見て作品に登場させてもいいけれど、使ったことのない人が見た目やその知名度だけで物を作品に登場させるということは、ブランド品だからといって持っているけど、その良さをよく知らない人と同じで、やっぱりセンスを感じ憧れるまでにはならないよ。
作中の中に違和感なくいい物を配置できる作家さんというのは、それだけいい物をちゃんと知っている人ですってことです。
じゃあ、自分にできることはなんなんだと言いますと、あのね、やはり丁寧に生きる。これしかない。そして、他人の好きなものに乗っかってはいけません。自分の好きなものを大切にして、そこから広がっていくべきです。背脂が好きなら、背脂が好きな自分を大切にしろってことよ。
そして、丁寧に生きるというのはどういうことかというと、丁寧に感じるということなのではないかなぁ。
食べ物をちゃんと味わっているか?
音楽にちゃんと聴き入っているか?
洋服をきちんと選んできているか?
今日の夕焼けにちゃんと感動しているか?
これ、めっちゃ難しいです。簡単だと思った人、本当ですか?めっちゃ難しいですよ。つまりは人間がどんだけきりきりまいに忙しく生きているかって話です。私から見ると、現代人の大人には、丁寧に感じるなんて余裕はありません。だけど、ちゃんと丁寧に感じて、生きて、それを形にしている人たちというのはいる。それが一流のクリエイターの方達ではないでしょうか。
せっかくだからまた こうばしい日々 から丁寧に描写された部分を抜粋しましょうか。
パーネルさんのアパートは狭かったけれど、きちんと手入れがいきとどいていた。玄関にはまるい敷物が敷いてあり、花模様の小さなソファには、貝のかたちのクッションが置いてある。台所にはにんにくや玉ねぎがぶらさがり、ジャムの入ったびんが何種類もならんでいた。テーブルにの上には毛糸の入ったかごと、家族のものらしい写真が何枚か、飾ってあった。
(こうばしい日々 江國香織より抜粋)
すごく細かく見て、書かれていますよね。これは、普段からこのくらい色々な細かなものに気を配って生きていないとこんなふうには書けないのじゃないかなぁ。それで、じゃあこういうのをお手本にして真似して書きなさいと、そういうことが言いたいのでは実はないんです。
真似してみる、というのはいい経験なのでしてみればいいと思うのですが、自分はね、こう思ったんです。
人間というのは興味や関心が一人一人違います。だからね、状況を把握するときに、例えば初めて訪ねた家で 何を見るか というのは人それぞれ違うんです。
だから、自分は何に興味と関心があって、何について細かく観察している人間なのか、これが大事なんですよ。
小説を書くというのは勉強とは違います。だから、自分に合うものを選び取るようにして、他の誰かをなぞったり、型にハマることはないように気をつけたほうがいいと思うんです。
自分が普段細かく何を観察しているのか。これについて来る日も来る日も考え続けるのは、気が遠くなるような作業ですが、だけど、そこにしか金塊はないと思う。その人にしかないもの、それが、長い時間がかかっても最終的にはお宝に辿り着く道だと思います。
私は江國さんは遠い人だなと思っても、彼女の綴る作品が好きです。真似できる部分は真似したいと思ってます。ただ、私はここまでものにこだわった生活はできません。使えればいいやと思っているものに対して、これ以上関心を持てないのです。でも、私にもこだわりたいポイントはある。
自分は子供の頃は毎日絵を描いている人間でした。学生時代にはずいぶんたくさんの絵を見てきました。自分は絵の線や色にはこだわりがあるのです。だから、絵描きの目を大事にしながら、文章を綴っていきたいというのが今の気持ちです。子供の頃から自然に好きなものだったら、今再び学ぼうと思っても嫌悪感なく学べますからね。
そして、心理描写、ですね。
対人恐怖症気味だったために逆に人間心理に詳しくなった気がしています。今は周囲の人間関係を観察している。
人間は自分の心をはっきりと言葉に表したり、あるいは表さなかったりしますが、自分は言葉に表されないその人の心も、なんとなくわかる。表情や行動やその人自身のバックグラウンドから察知しているのだと思います。
最初は、対人関係が苦手すぎるので、生きていくために周囲の人の心理を読んでいたわけですが、みんながみんな、こういうことをして生きているわけでもなく、また、できるわけでもないのだなと。必要に駆られて覚えたものを手に、不思議な感慨があるのです。
そういうものが作品に活かせるか?
その命題のもとに長い実験をしているのかもしれません。自分が感覚的に捌いている大量の心理的な情報は、まだ、言語化されていないように思います。これと思った宝物に辿り着くまでに、あとどのぐらい掘れば(書けば)いいのかわからないんですが、ただ、まだ、全部は言語化されていないように思う。
ここでまた江國さんと私の話に戻ってしまって恐縮ですが、『孤高』というものに対してなぜ私が嫌悪を感じたのか、私がかつて感じたそんなツンとした壁は、本当に江國さんの作品の中にあったのか、それが気になってます。
読んだ本の数も、考えた量も、書いた量も、まだまだ全然足りてないように思います。
自分が 孤 というものに対して違和感を覚えたのはきっと、自分が本当に苦しいなと思いながら、でも、苦手なのに人の輪の中に入り続けようと頑張り続けてきている人間だからなんだと思うんですよね。
あなたの生き方は間違っているなどと言いたいわけではないんですよ。私は他人を否定して生きる人間ではないので、ただ、そういう生き方じゃない生き方もあるとぼんやりとした私の私だけの主張が奥の方に眠っている気がしているんです。
だからまだ、書き続けなければいけないような気がしてます。なかなかガツンとしたものが書けないんですが、それでも、書き続けなければいけない気がする。この現代において、完全に孤立していた人間が、それでも、人の輪の中に入ろうとする姿は必要だと思うんです。最初から輪の中にいる人には、そういうものは書けないと思うので。
こんなに長く書く予定はなかったのですが、本日は休日ですので、脇道にそれまくる まとまりのないままに お許しください。
汪海妹
2024.06.23