私なりに書き方の進め21:読後感
時々、某局の連続ドラマを週末に一気見している。某局のドラマは6回で終わるハーフサイズなので、一気見しても体に優しい。こんな私が見るものですからミステリーやサスペンス、これの周辺の内容であるのですが、しばらく海外ミステリばかりで日本のドラマをあまり見てなかった私。栄養(?)は偏りがあってはダメだなと久々にビタミンCでもとる気分で日本のミステリを見た。
5、6本見たかな?結果はどうかというと、どれもそこそこ面白かったが、1本をのぞいてドヨーンとした。もうちょっと詳しく私の状態を説明すると、どうなるの?え?ハラハラドキドキで十分楽しんでいた。やばかったのはエンディングである。
ドヨーン……
物語においてエンディングというのはめっちゃ大事なものである。つまりは、エンディングにおいてこの作品を通して作者が何を言いたかったのかが集約される。それをひっくり返していうと、エンディングまでは読者や観衆は餌をお預けされているワンコのようなものである。
はっはっはっはっは(舌を出しながらお座りしている)
どうなって終わるんだろ?どうなって終わるんだろ?どうなって終わるんだろ?
犯人は誰だ?エンディングはどうなる?観劇者のアドレナリンはエンディングまでは余程のボツ作でない限り、お預けくらったワンコのような状態だぜ。で、最近見た某局のドラマは間違いなくエンディングまでウェイティングワンコのレベルを保ってました。アチキは、つまらないなと思ったドラマは途中で見るのをやめちゃうから、なかなか良かったのよ。
しかーし!
どよーん……
最後まで見終わった後に、これでもかと憂鬱になるものばかりだった。一つのドラマを除いては。最後に爽やかな気分になれたのが一つだけあった。それは何か?
シャイロックの子供達 池井戸潤
この主人公が 井ノ原快彦 こと いのっちなのですが、良かった!ご本人がいいのか、演出家や監督がいいのか、それともこの役柄がいいのか、もはやごちゃ混ぜですが、クー(→ツボにハマると出る声)となりました。
それでひとしきり感動した後で、冷静に戻り、この某局ドラマの ドヨン群とシャイロックの子供達の何が違うのかについて分析してみました。
そして、分析はあらかた終わりました!それではみなさま、ここまで読んでいただいてありがとうございました!
……
と、肝心の分析結果について書いてねえじゃねえかってことで、まとまるようなまとまんないような内容を書いて(書こうとして)みようか。これも修行です。やれやれ。
ま、シンプルに言ってミステリーとかサスペンスは、人が死ぬか事件が起きているもので、元々ドヨンとした内容で、で、私という観劇者は基本的にドラマにドヨンからの脱出を求めているのです。ま、ハッピーエンド支持者なのね。だって、自分が書いててもハッピーエンド症候群なので。
ドヨンとしてすったもんだして最後にドヨンからの脱出で爽やかに終わる、これが物語の王道だと思いますが、ただ、作品によってはバッドエンディングに終わるものもあるでしょう。バッドエンディングにだって意味はある。だから、ハッピーエンドのみが答えではないのは分かってるし、バッドエンディングだって認めてます。
ただ、ドヨンとバッドエンディングだって細かな事を言えば違うんです。全体的に言えばバッドエンディングなんだけど、一筋の希望や救いを置いて終わるものもあるし、真っ暗なまま終わるものは『このままではいけない』という問題意識や危機意識を見ている人に持たせるし、つまりは暗くても前向きなのだと思う。
それに対してドヨンは袋小路なんですよ。見ている人を混乱の中に残したままで終わっちゃうの。
えーーーーー
それにしても、世の中になんでこんなドヨン系エンディングを生み出すクリエイターがいるのだろうと考えてみた。思うに、本人が本当にそんな救いのない世界観で生きているのか、或いは、こうだと思うんです。
多分ね、物語には使命などないと思って作っているのではないかなと思う。物語には人を導く使命もないし、メッセージを込める必要もない。そう思って作っているんじゃないかと。そして、純粋に物語の展開の意外さとかエンタメ要素のみで組み立てたんじゃないかなぁ。
それは魂のこもっていない、生命のこもっていない物語だから、本物じゃないんだ!と糾弾したいかというと、うーん……
私にはその答えは分かりません。
池井戸潤さんは半沢直樹で一世を風靡しましたよね。一時的に大好きで読みまくりました。エビやカニを短い期間で食べ過ぎると問題が出るように、短期で読み過ぎてしまったために自然に今度は離れてしまっていますが、元銀行員としての知識の深さだけでなく、小説家としての構成のうまさ、これが良い。知能犯のような金融上の不正とか、あるいは企業家としての困難とそれに打ち勝つ精神性とか読んでいて引き込まれました。
ただ、それだけではなくて、もう一つの要素が池井戸さんにはあって、それは正義感なのだと思う。筋立ては現代で、ハラハラもするのだけど、実はその根底に流れるのはある意味古風と言ってもいいような伝統的な日本人の、侍と言ってもいいような正義感なのだと思います。これをどこぞの書評家が日本人に馴染みのある水戸黄門のような正義が勝つドラマ。だから、半沢直樹は一世を風靡したのだと言っていた。
わかる、わかります、それ。
複雑で難解な時代であり、さまざまな分かりにくい哲学の上に作家が物語を組み立ててゆくのも、しょうがないのかもしれない。何が正解かなんてわからないけれど、ただ自分は水戸黄門のような日本人にとって普遍的な正義が勝つという流れに馴染んでいるのです。
物語というのは不思議なもので、半分ぐらいは目新しいシャープなもので出来ていて欲しいのだけれど、その全てがシャープなもので出来ているとそれはそれでうまくいかないように思う。半分ぐらいは古典的なもの、それが私は水戸黄門的要素だと言っているのですが、それがうまく入っていて欲しい。
それは作家さんによっては水戸黄門じゃなくてもいいと思います。ただ日本語で書かれて日本人に向けているのだから、半分は日本人にとって非常に分かりやすい共通認識で作られていると、その作品は大多数の日本人にとってホッとするものになるのじゃないかな?
結局、作家さんによってその武器のようなものは人それぞれだと思うけど、一種類では一流になれず、二種類、いや三種類くらいは必要。最後の三種類目はその信念。何を社会に伝えたいのか。ところが、この最後の信念をいまいち持てないままにクリエイターとして活動している人もいると思う。それが私にとってはドヨン群のクリエイターさんたちです。
私は物語も一幅の絵のようだと思いながら小説を書いているのですが、明るい物語を書けばその画面は軽い色調で埋め尽くされます。しかし、全てが明るく爽やかであると、印象のないままに終わる。明るい中にもポイントとなる例えば絶望的な何かが必要。これを黒いポイントだと思ってる。画面を引き立たせるために一部にのみ入れる濃い色です。随分絵は描いていませんが、私は輪郭のないぼやけた絵は嫌いなのです。いつも簡単に言えば白と黒の割合を考えながら絵を描いていました。反対に暗い基調の絵ならば、どこかに必ずひと筋の光を通す。そうでなければどっちへ進んでいったらいいのかわからなくなる。
だから、自分は物語というのはある種の生き方とか方向性を読んでいる人に示す使命を持っていると思って読んでるし書いているのですが、それだって私一個人の考えです。正しいのかどうかよくわからん。
ずっと自分が書く話の甘さが気になってました。半人前なのですからこの世のカタルシスを書ききれないのは当たり前なのですが、なんだか足りないなと思ってモヤモヤしてきた。そのモヤモヤの中で今現在小説を書くのが止まっているのですが、変な話。ドヨン群を続けてみて、普通に、ドヨンもやだなと思った。自分はキラキラ群にいると思う。現実世界よりもちょっと甘い展開となる物語のことで、決して褒めておりませんが、キラキラがなんか違うなと思っても、だからと言ってドヨンを書きたいわけでもない。私は何を書いていても、ハッピーエンド症候群であり、キラキラ出身なので、必ず光を書こうとするでしょう。
それでいいんだと思う。それが自分なので。
本当にこれだと思うものを書く前にのたれ死ぬか、あるいは、書かなきゃ書かなきゃと思いながらサボっているうちににっちもさっちもいかないことになるか、さっぱり分かりませんが、どよんは書かない、とりあえず今はそれでいいのかなと思っております。
仕事が始まったら、また一気に脳を仕事に使い、へとへとになって爆睡して目が覚めました。一日に脳を酷使できる時間は限られていて、そしてとにかく睡眠。睡眠で脳を寝かさないと、記憶の小人の仕事が追いつかず、大切なことを忘れてしまいそう。
無理をしてはならないですね。責任感が強いのは悪いことではありませんが、根を詰めてやれば倒れてしまう。仕事しながら創作をしてますから、ね。
休み休み行こう。
2024.10.10
汪海妹