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【雑記】ハンモックと縄とハグ
夏休みをとった平日の午後、神戸にあるROKKO森の音ミュージアムを訪れ、その庭のハンモックに横になってみた。(写真はそのときに撮影したもの)
ハンモックってこんなに気持ちいいものなんだと実感。
包みこまれる感覚
抱きとめられている感覚
体は宙に浮いているのに、
例えようのない安心と安全な感覚に包まれる。
これは、赤ちゃんのおくるみ?
おくるみを抱く、人の手と腕?
あぁ、縄もそうなのかも、と思う。
“縄は私の手や腕だと思って受けてください”
おくるみを抱く手と腕のイメージが、
その言葉を呼び起こす。
縄を身体に纏わせることで
わたしは安心と安全を感じているのかもしれない。
(もちろん、その縄が”誰”の手と腕であるかがとても大切なことだけど。)
かなりの数の国や民族では、
赤ん坊を布に巻く風習がある。
むかし映像で見た、
産院で布に巻かれ、並べられた赤ん坊は、
まるで自ら吐いた糸に包まれた蚕のようだった。
このように、赤ん坊を布でぐるぐる巻きにすることをスウォドリングというらしい。
日本では、お雛巻きとも言うらしい。
この時の解説では、
このほうが赤ん坊が安心すると言っていた。
境界が曖昧で、自他の区別もつかない赤ん坊にとって、自由に動ける状態は、逆にとても不安定なものらしい。
きっと、自分という形さえまだ認識できていないとき、形が定まらないでいることは、自他の区分がなくなり、自分が流れていくような、他から流れ込んでくるような、絶え間なく脅かされている、そんな不安な状況なのだろう。
だから、きっちり布で包む。
境界をきっちりつくって、侵される不安のない安らぎの中に包み込む意味があるのだろう。
とても印象的な解説だったのだけど、もしかしたら、自他との区分、境界という言葉だけがわたしの心に残って、自己勝手な解釈をしている恐れもあるのだけど。
包まれたい、と思うのは、
もしかしたら、自分の境界が曖昧になっている時かもしれない。
包まれて安心するのは
溶け合うからではなくて、
自分自身の境界が明確になるからなのかもしれない。
縄を受けたいと思うのも、
自分の境界が不安定になっているからなのか。
抱きしめられたい、と思うのも、そうなのか。
抱きしめたい、と思うのは、逆に安心を与えたいと無意識に思っているからなのだろうか。
境界が曖昧になると不安になるのは、
赤ん坊だけではない。
掴みどころのない不安な感覚が身体の中に残っているのか、
脳の記憶に焼き付いているのか。
そのような原初の記憶だけではなく、
自己の存在の不安定さは
人間であることと不可分に結びついているのかもしれない。
だから、
わたしたちは包まれたくなる。
抱き合いたいと思う。
腕と胸と脚でがっちりと固められたくなるときもある。
縄を求めてしまう、わたしもいる。
あまりもの安らぎに、涙がこぼれそうになるほど。
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青い空に木々の緑が映え、鼻先を蜂がかすめ、幹にとまった蟬が羽を震わせ(ツクツクボウシ。ちょっと時期的に早いんじゃないのかな?)、目を閉じると、鳥の囀り、水の流れる音やオルゴールの音色がどこからともなく聴こえてくる…、標高が高いのでそれほどの暑さは感じず、風も爽やかで、とても、贅沢な時間でした。