見出し画像

無理やりオックスフォード大学の学生になった話 その17:入学

学問にも、高等教育にも縁がなく日本で育った私がイギリスに渡り、オックスフォード大学の学生になるまでと、なってからの逸話自伝エッセイ。
経済的、精神的な苦労もなく甘やかされてワガママに生きてきた日本女性の半世記。


2022年の9月オックスフォード大学のコースは始まった。
コロナ禍も落ち着いてきたので授業は対面式に戻った。

なぜ無理やりオックスフォードの大学生になったのか。
なぜ無理やりなのか。

授業料も安くない。

実際に学び始めてみてこのコースがとてもよく作られていることに気づいた。数週間ごとにその時のトピックの分野でエキスパートの先生たちがレクチャーにいらして、毎月提出する論文にも丁寧な添削があり、オンラインポータルもよくできていて、毎週の読書リストがボードリアン図書館と連携していて、どの図書館に何冊あるか、その本を予約、更新もでき、電子版があればPDFを必要なチャプターだけダウンロードできたりもする。対面式で90%以上の出席率が卒業に必須だが、毎回授業は録画されていて復習ができる。

その上学生証でバスや博物館の入場料も学割がきき、由緒あるオックスフォードユニオンのメンバーにもなれた。

平日の昼間にクラスがあるため、クラスメートの大半は仕事から引退した高齢の方達だったが、ボケた老人なんていなくて、カルチャースクールの雰囲気なんてまるでなく、ディスカッションではさまざまな意見が飛び交い、ミセスダウトファイヤーみたいな風貌のご婦人は毎回鋭いコメントをするのだった。「引退しても脳みそを使い続けていきたいから」とおっしゃっていたが、みな資格やステータスなんか眼中になく、純粋に「学びたい」という意欲が満々なのであった。

ロックダウン中に幾つか他の学校のオンラインコースをとったが、ライブセッションがないものはつまらなかったし、ライブセッションでもやはりオフラインのような交流はできなかったから、この対面式というのは魅力的であった。

入学して半年になるが、この内容で授業料が高いとは感じなくなった。

では私はオックスフォードの大学生になるのが目的だったのか。

それまで自分のアイデンティティだと思っていたポジションをなくし、確かに私は新たなアイデンティティを探していた。

私は今まで欲しかったものはほとんど手に入れてきた。目指した場所や、目標には大抵到達してきた。コロナ禍直前に、多少方向性を失い、「パリで展覧会をする」という夢は捨てていないものの、何か今までやらなくて済んできたことをやらなければ、と、そして、少し厳しい環境で自分を鍛えてみたかった。

はっきり言って私は文章を書くのが、日本語でも、英語でも苦手である。毎月の課題エッセイの締め切り前には、のたうち回ってやっとこさ制限文字数を稼げる言い回しにしてギリギリに提出している始末である。

けれどそうやって、学術文でしか使わないような新しい単語や言い回しを覚えたり、誰かの論文を読んだり、関係するけれど余計な史実を知ったりと、私の中での世界観が広がっていくのであった。

私は学びの場に身を置き学び方を学んでいるのだ。

そしてオックスフォードはそこにいるだけでも知性の雰囲気を味わうことができるが、大学の中に入っては、知性が要求されるだけでなく、知性はあって当然、その知性を使って何が表現できるか、どうやって世界に貢献できるかを追求する場所なのであった。

なぜこの連載にこのタイトルをつけたのか。書き始めた時は自分でキッパリとした理由があったわけではないし、オックスフォード大学に入学するのが私の人生のゴールだったのでもない。ただ今の時点で、今までの人生を洗い出し、無理矢理にでも、今まで全くやってこなかった座学、学問、研究という行為を通して世界を理解し始め私は生まれ変わり始めていると感じている。

それもゼロからの出発ではなく経験があっての出発なのだ。

続く


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?