私の俳句が独特な訳ない!

型自体は寧ろ古風でしょうよ
こんばんは、みつかづです。

以下の句を『俳句添削道場』に投句しました。
右日傘左ハンカチ胸スマホ
作者 みつかづ  投稿日 2024年08月11日

コメント(俳句の意味。悩みどころ)
竜子さんの原句がとても興味深く、面白かったので、
立秋を過ぎておりますが、詠んでみたくなりました。

ビジネスパーソン達の姿の描写です。
胸ポケットにスマートフォンがあって、
ブルートゥースかイヤホンの様なイメージです。

このタイプは素堂の句とタイプが似ていますので、
三段切れも季重なりも割と成功させ易そうな気がいたしました

要は、「元が一物仕立てに近いので、
三段切れでも足して1つの景の描写になるので、割とスンナリ行ける。
同じ季節の季重なりなら比較的成功させ易いタイプ」って事です。
右手に日傘を持っていて、左手にハンカチを持っていて、胸ポケットに
スマートフォンを入れている、暑そうなビジネスパーソンの描写です。

すると、ご本人からお返事が届きました。

回答者 竜子さん 2024年08月12日
みつかづ様 おはようございます。
お世話になります。
拙句のハンカチのコメントありがとうございます。
いつも理論的にコメント残されて感心しております。
頭の悪い私には理解できないことも・・
みつかづ様 独特の感性をお持ちのように察します。
季重なり、三段切れ、歳時記を疑うなどなど・・・・
俳句に将棋のように答えがありませんからいろいろな
解釈があって当然でしょう。
いっそのこと尾崎放哉、山頭火のように新し俳句の句会でも
起こされては・・・
よろしくお願いいたします。

待って待って。勝手に察さないでいただけます?
「頭の悪い私」というのは何処から出てきました?
私は頭が良くないので頻繁に国語辞典や古語辞典で調べているのですよ
「理論的と言われても、文法や単語の意味は理論じゃなかったら何?」
「独特の感性」って、「独特」の意味ご存知で?
そのものだけが特別に持っていること。また、そのさま」の意味ですよ?
せめて「多様な感性」や「多角度的」でしょうよ。
私如きで「独特の感性」ならば与謝蕪村山口素堂正岡子規
高野素十怒るでしょうよ私を

呆れて、以下の様にお返事いたしました。

たびたび失礼いたします。
以下、長文ご承知おきください。
拙句「右日傘左ハンカチ胸スマホ」へのコメントありがとうございます。
https://weblike-tennsaku.ssl-lolipop.jp/haiku/corrections/view/26910

①「私は独特の感性なのか?」について
決してそうではありません。寧ろ古風です。
江戸時代の俳人、山口素堂の句「目には青葉山ほととぎす初鰹」。
三段切れ季語3つの季重なりですが、名句と言われておりますよね。

では、理論面(文法、技法など)から鑑賞するかと申しますと、
決してそうではありません(ここはヒッチ俳句さんも誤解されております。
理屈から入って作句する人なんて誰も居ません
「夏の訪れを体中で喜んでいるステキな句だな」と、
感情面からまずは入り、作りがどの様になっているかを調べると
「上五字余り、季重なり、三段切れ」になっているだけなのです。
私も同じで、「伝えたい感動を詠みたい」だけなのです。
俳句は作句と鑑賞において、「感性と理論の両輪のバランスが大切」で
あり、どちらか一方だけでは上手くいかないという事です。

②「季重なり、三段切れ、歳時記を疑う等々」について
これも江戸時代の俳人達と考え方は同じです。
特に与謝蕪村は、季重なりを気にしている様子は見られません
「詠みたい様に詠んでいる」様に見えます。

そして、明治時代に正岡子規が登場します。
彼は「歳時記にとらわれるな(歳時記もあくまで参考程度)」と
言っています。自分の感性や観察を大切にすることを主張していました
私もそれと同じです。

③「尾崎放哉、山頭火のように新し俳句の句会でも起こされては」について
尾崎放哉種田山頭火は、「無季自由律俳句の先駆けですよね。
では、私がこの2人の句を好きかといえば
全く興味はありません
面白いと思った事もありません

私は「有季定型(季語を含んだ17音。時に字余り)という制約の中で
成立させるから俳句は面白い、楽しい」と思っており、
それを逸脱する事に一切の興味はありません

私は以上より、「有季定型に従ってさえいれば、過剰に縛る必要は無い」
との考え方でして、皆さんが過剰に縛られている様に
見えているだけなのです。
「江戸時代の俳人達の様に、詠みたい景を詠めば良い」。それだけです。

次に、『俳句添削道場』において、原作者のフォームにおいての改作を
よしとしない私の考え方は、「原作者の個性や持ち味を奪うから」
なのです。改作は、「従来のものを部分的または大幅に変える
変更して作り変える」事であり、原作者を自分の色に染めてしまうのです。
そうすると、せっかくの原作者の持ち味や個性が奪われてしまいます

また、『道場』。心身を鍛える場を意味する単語です。
「他者に直してもらうのではなく、他者のアドバイスや発想を元に自句を
改作したり、自分で作句や俳句鑑賞の腕を磨いていったりする場」が
『俳句添削道場』の語の意味なのです。
ですので、私が改作した時には出典を明示し、理由も書いた上で自分の所に
書きましたでしょ? 他者の句に書く時には添削の範疇に収めます
でないと原作者に失礼になりますので。

一方、添削は心得も含めて以下です。
言葉が足りていなければ「添」え言葉が多過ぎるなら「削」る
その際は、常に作者に心を「添」え改めたいとの我欲は「削」る

上達は作者に任せて、原句と原作者の思いは尊重しますよ、
「それありきですよ」という事ですよね。
そして句意を正確に詠み取る為に大まかな感情から入った後に理論的に
読み解いて
そしてまた背景の感情を考えるという段階を踏んでいます
私は
そうしないと句意を勝手に変えてしまいますからね。

上記の事より、私の感性は独特なものではなく寧ろ古風であり、
それを「現代」という、移り変わる時代背景にそぐう様に
詠んでいるだけなのです。

今回は以上です。ご覧いただきありがとうございました。

すると、竜子さんから以下の返信が届きました。

みつかづ様 こんばんは
お世話になります。
<上記の事より、私の感性は独特なものではなく寧ろ古風であり、
それを「現代」という、移り変わる時代背景にそぐう様に
詠んでいるだけなのです。>
私は独特の感性と申し上げましたが、古風とか現代風と言っておりません。
念のため

じゃあ、「独特の感性」と表現したのは何なの?って事になりません?
尾崎放哉や種田山頭火を持ち出してきたのはそっちでしょ?って
事になりませんか? 私のコメント読んでないのかな。
山口素堂与謝蕪村正岡子規の名を出したんだけど。
私は先人達のスタイルを踏まえながら単語だけ現代風にしてたり、
古語の時代の幅が広かったりするだけですが。

AIはいさ気も知らず躑躅の香

私が詠んだ上の句、訳せなかったとアンタ言うたやろ?って事ね。
大体の方が「「いさ」って何?」と質問してきました。
「古語辞典を持っていないの? 「いさ」は副詞。
短歌の嗜みが無いと分からんかもしれん」とは思いましたが。
そりゃあ、短歌と俳句では成立した時代が全く違いますからね。

俳句は「季語を含み主役に立てた17音の詩」ですが、
それ以外のルールは無いんですよ。
そして、そのきびしい制約の中で成立させる詩が
美しくて私は惹かれた訳ですよ。短歌も好きですけど。
無季自由律俳句なんかには私、一切興味無いんで。

そして「有季定型の17音」なのですから、季重なりだろうと、
季違いだろうと、三段切れだうと、詩として面白味があって
成立していれば別に問題無いよねって事なんですよ。

それを否定したら、山口素堂があの世から怒りますよ。
俺の句「目には青葉山ほととぎす初鰹」に文句あんのか?と。

また、「歳時記を疑え」というのは、正岡子規の言葉を借りているんです。
「歳時記にとらわれず、素直に景を詠みなさい」と。
(歳時記を否定はしないけど、参考程度ですよ、と)

そして、狩り蜂の雄蜂って春はおろか、夏にも居ない。
8月で立秋を過ぎたので今は初秋ですよね。
大体この頃に生まれ始めるんですよね。

なのに、季語「雄蜂」が三春の季語になってるのはどうなの?
花蜂ばかり見てませんかね?という事になる訳ですよ、蜂の生態として
現実問題として、狩り蜂は蜂ではないのか?って事になっちゃうでしょ?
だから、「雄蜂生まるる秋歳時記も疑へ」と私は詠んだ訳。
誤解が無い様に一応書きますが、当然秋の句ですからね、これ。
アシナガバチスズメバチ雄蜂の事ですから。
ネットに山程載っているんだから、生態くらい分かるやろって件。

俳句の本質的な部分に目を向けずに、技法がどーのこーの、
○○派がどーのこーのって、私にとっては世界一どうでもいいよ。

先人達の教えに学びながら、決して鵜呑みにはせず且つ現代ならではの
名句を詠む事
が、過去の俳人達の教えに対する恩返しになる訳でしょ?

先程の私の句を以下に再掲しますね。

AIはいさ気も知らず躑躅の香

AI:現代語。元は日本語ですらない。
いさ:飛鳥時代~平安時代くらいの言葉。副詞
俳句:江戸時代に成立

じゃあ、この句は何なの?って事になるけど、
結論:世界一どうでもいい
有季定型だから問題無いでしょ?となる訳。
訳せたらそれでいい。

季重なり・季違いはダメ
三段切れはダメ
中八はダメ
擬人化はダメ
動詞「死ぬ」を使ってはダメ

タブーなんか作ったり守ったりするから、
逆に表現になったり、幅が狭くなったりするんよね。
上に書いた技法は「成功させるのが難しい」ってだけで、
タブー視するのは良くない訳。

今回は以上です。
ご覧いただきありがとうございました。

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