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『すずめの戸締まり』感想

※当たり前ですが思い切りネタバレしているので一応注意喚起しておきます


過疎化した地方都市を巡る(といっても、神戸と東京は都会だが)ロードムービー。その過程で打ち捨てられた廃墟──人の営みの証跡であると同時に、後始末を放棄した開発の爪痕──を訪れ、そこに蓄積された記憶の数々に思いを馳せながら行われる「閉じ」。新海誠の問題意識はかつてないほどに具体化されていて、だからこそ、旅の終着点は福島でなければならなかった。それは、『君の名は。』において3.11をファンタジーとロマンスの借景に利用した(と、あえて書こう)ことへの、作家本人のけじめでもあったはずだ。その心意気は買いたい。先に結論めいたことを言ってしまえば、本作の最も評価すべき点はそこである。だからこそ、どうしても看過ごせない要素があると、僕には思えた。

すずめには震災をめぐる強烈なトラウマがあり、環という乗り越えるべき葛藤を抱えた肉親がいる。旅の途中で出会うチカもルミも、なかなか魅力的な人物である。このようなキャラクター配置からも分かるように、「家」を出てなされる旅そのものと、そこでの出会いを通じて子供が自身の殻を破り、世界を広げてゆくビルドゥングスロマンとしての側面が、『すずめの戸締まり』には色濃くある。しかも、後述するように、この物語を介して現実の歴史までも語ろうという作り手の思惑までもが、明らかに見受けられる。にもかかわらず、すずめは最終的に「好きな人のところに行きたい」という幼稚な感情に身を任せてしまう(この言葉はセリフではっきりと語られもする)。僕にはここが一番不可解だった。草太とのカップルは作中ろくに関係性の掘り下げもなく、そういう最低限の伏線も張っていないから余計にそう思ってしまう。一目惚れだということくらいわかるが、これだけの重みを持たされた物語をドライブさせる原動力として据えるのはいくら何でも無理があるし、だいいち誠実さに欠ける(つまり、上で書いた本作最大のバリューを毀損することにすらなる)。


すずめは心に深い傷を抱えた震災孤児である。だから、それでも彼女が自身の痛みと向き合い、文字通りインナーチャイルドとの対話を経て、自力で治癒へと向かう、という個人のドラマに、日本列島の災害史と開発史というマクロヒストリーが横糸として織り込まれることは不自然ではない。むしろ、『君の名は。』『天気の子』と来て、より遠く、高い領域を目指した結果なのだろうと思う。だからこそ新海は、主題にそぐわない自分の手癖など捨て去るべきだった。それなしに物語を畳むことができないと言うのなら少なくともひとりで脚本を書くべきではなかったし、あくまでもロマンティック・ラブの話を作りたいのであれば、何もここまで射程を広げるべきではなかった。余計なことを言わせてもらえば、「君と僕」の歌しか書けないRADWIMPSとのタッグだってもう解消してもいいだろう。

以前、『天気の子』のレビューをFilmarksに投稿したとき、僕は「新海作品の高度に写実的な風景描写は、映画的でこそないがノスタルジーを喚起する強い力がある」というようなことを書いた。『すずめの戸締まり』において、その能力は宮崎や愛媛のような土地により多く向けられている。早い話が、「田舎」パートにおける本作はまるで観光誘致を目的としたJRのコマーシャルのようだ。美しい自然と、美味しい食事と、素朴で善良な人々。それらの描写は、「東京の作家」として名高い新海からのエールなのかもしれない。しかしそれは、因習に塗れて閉塞した場所として地方を描くことと、実はコインの表裏なのではないか。そこで起きているのは、やはり都市生活者の立場からの相対化ではないのか。そんなところにも、敢えて口を挟んでみたい。作り手たちは、都市と地方、自然と文明、そういった対立構造について、本当にとことんまで考え抜いたのだろうか。本作でもあからさまにオマージュを捧げている宮崎駿の後釜を本気で狙おうというのならば、なおさら中途半端に済ませるべきポイントではなかったはずだ。


あるいは、別の見方をしてみよう。旅先ですずめに親切にしてくれるチカもルミも、女性である。すずめは亡き母とは二人暮らしで、叔母の環に引き取られたあとも女二人で暮らしている。こういった関係性の数々に、シスターフッド的な互助の精神が託されていると考えることは難しくない。要するに、地方(=非・東京)だから人が優しいのではなく、女性どうしだから互いを思いやり、助け合う余地があると新海は言いたいのかもしれず、孤独死の男女比に圧倒的な差があるという統計や種々の研究をみても、この辺はあながち嘘くさいと言いきれないところがある。まあ、それも含めて男側の勝手な非当事者的妄想と切り捨てられなくもないのだが、避難所で起きる性暴力や授乳室の不足など、被災地において女性が殊更に弱い立場へ置かれてしまう現状を思うと、また別のメッセージを読み取る余地があるようにも思える。


答え合わせのような事実だが、本作は、最初期の段階では「なのか」と「たまき」という「少女二人のロードムービーとして構想されたという。僕じしん、『天気の子』の時点でこれ、同性ふたりが主人公の方が(テーマの強度的に)よかったんじゃないか?」と思っていたのだが、新海にそこを期待するのはもう諦めた方がよいのだろうか。